第二千二百十六話 ザルワーンに眠るもの
莫大な量の神威が波紋となってザルワーン全土を駆け抜けるも、即座に変化が起こったわけではなかった。
セツナは、女神モナナが戦場にいるすべての同盟軍への攻撃を行ったのではないかと身構えたが、そうではなく、むしろ戦場にはなんの変化もなかった。戦場は、相変わらず血で血を洗うような闘争を続けているし、戦場上空では残骸の解体作業が最終段階へと向かいつつあった。
さすがはシーラとエリルアルムだ、と内心賞賛の声を上げながら、セツナは全神経を研ぎ澄まし、情報を収集する。しかし、神威の波紋がこの地にもたらした影響は目に見えた形で現れておらず、光の波紋がマルウェール周辺のみならず、龍府の彼方まで到達したことくらいしかわからなかった。
敵味方問わず、戦場にいるだれもが、女神の行動に疑問を持ったのは当然だっただろう。
モナナによって傷を癒やされたミズトリスですら、なにも変わらない状況に困惑していた
「なにも起こらないが」
「・・・・・・おかしいですね」
「おい」
ミズトリスは、小首を傾げるミズトリスを半眼で睨み付けた。そう、ミズトリスは、二度に渡って”破壊光線”の直撃を受けたことで、身に纏っていた白甲冑を大破し、兜の下の素顔を白日の下に晒していたのだ。
一見して、白い女、という形容詞が浮かんだほど、ミズトリスは真っ白だった。頭髪も白ければ眉も肌も白い。色が異なるのは灰色の虹彩くらいだろう。どこかで見たような印象を持ったのは、クオンの素顔のせいもあるだろうし、彼女自身、見たことがあるからでもあるだろう。
どこか刺々しさを感じさせる若い女は、傭兵集団《白き盾》幹部であり、クオン=カミヤの懐刀と呼ばれた人物そのひとだった。名を、イリスといったはずだ。ミズトリスと名乗っている理由はわからないし、由来も不明だが、どうでもいいことではある。
クオンの側近だった人物が、クオンと同じような姿に変わり果てているというのは、なにか意味があるのだろうが。
いまはそんなことよりも、女神の行動とその結果こそ重要であり、セツナはファリアやシーラたちの位置を確認しながら、女神への接近を試みた。女神の放った波紋は、いまでこそなんの変化ももたらしていないが、女神が無意味なことをするとは考えられなかった。きっと、この状況を自分たちにとってさらに有利なものとするための行動であり、それが実を結べば、セツナは決定的に不利になることは疑いようがない。ならば、結果が現れるより前に女神とミズトリスを討つ以外になかった。そのためにセツナは、全速力で地を駆けた。ミズトリスとモナナが左右に飛ぶ。右からミズトリスの跳躍攻撃、左からモナナの光弾攻撃が来る。ミズトリスの連撃を槍と斧で受け流し、黒き矛を旋回させて光弾を弾く。女神が大きく後ろに飛んだ。上空から光線を乱射してきた瞬間、右へ跳躍、”闇撫”で、追い縋ろうとするミズトリスを抑えつけ、そこに”破壊光線”を叩き込み、さらに後ろに跳び退きながら光線の雨を斧と槍で弾き返す。
四本の腕がなければできない芸当だ。
自分でもなにをどう動かしているのかわからないくらいの攻防の最中、何度か飛び退いて背後に気配を感じて立ち止まれば、ファリアが大きく息を吐いた。真後ろにファリアが立っている。これ以上は下がれないし、攻撃を避けることもできない。が、逆をいえば、ファリアを護るには絶好の立ち位置ということになる。
「こっちは終わったわ。シーラとエリルアルム様のおかげでね」
ファリアからの宣言に、セツナは心底安堵した。彼女が言葉を発するということはつまり、オーロラストームの結界を維持する必要がなくなったということだ。彼女の言葉通り、方舟の残骸が降り注いでもなんの問題もないくらいにまで細分化することに成功したということであり、雷光の天蓋が解除されたことで、粉微塵に砕かれた残骸が降ってくるということでもある。
「ファリアのおかげなんだがな」
無論、シーラとエリルアルムの働きを忘れたわけではない。ただ、ファリアが自分を過小評価しているから、つい、そういっただけのことだ。ふたりがいなければ、残骸の排除はセツナの仕事になっていた。女神とミズトリスを相手にしながらの解体作業は骨が折れるどころの騒ぎではなかっただろう。もっとも、当てにできる相手がいないのであれば、そもそもあのような方法で方舟を破砕することはなかったのだが。
「そっちは・・・・・・きつそうね」
「そうでもないさ」
そういってのけたのは、セツナ流の強がりでもなんでもなかった。
確かに手強い相手だということは認めよう。しかも二対一だ。どちらかに攻撃を集中しようにも、もう一方が邪魔をして、決定的な一撃になり得ない。たとえミズトリスに致命傷を叩き込んだとしても、モナナが瞬く間に癒やしてしまう。万能に極めて近いという神の力をまざまざと見せつけられているのだ。
第二次リョハン防衛戦における女神との戦いがほぼ一方的なものになったのとは、状況が大きく違っている。あのとき、セツナが完全武装状態だったこともあれば、対する敵が女神単体だったということも大きい。セツナは、その女神に全力を注げばよく、邪魔も入らなかった。仮にあのとき、別の神やそれに近い実力者が邪魔をしてきたのであれば、今回のように苦戦したことは疑いようもない。
しかし、だからといって、実力的には倒せない相手とは想えなかった。少なくともミズトリスにはセツナの攻撃が通じているのだ。女神がいるから決定打にはならないものの、女神さえいなければ、いまごろ撃破できている。
(つまり、女神が邪魔ってこった)
故に真っ先に倒すべきは女神なのだが、女神に意識を集中しすぎると、ミズトリスに隙を曝け出すことになる。ミズトリスの力は、神にも匹敵するほどのものだということは、刃を交えているセツナにも明らかだ。ミズトリスがファリアを殺せなかったのは、セツナが間に合ったからにほかならない。一秒でも遅れていれば、ファリアの命はなかっただろう。それくらいの戦闘速度。一瞬も気を抜けないのだ。
女神のみならず、ミズトリスの攻撃もまともに食らえば致命的なものになりうる。どれだけ召喚武装を併用していようと、身体能力を強化していようと、肉体の強度そのものが向上するわけではない。神人や神のように強固な肉体と再生能力を持っているわけではないのだ。掠っただけで深刻な損傷を受ける可能性だって十二分にある。
「こっちは終わったぜ」
「なんとか、な」
シーラとエリルアルムが降り立つとともに粉塵が戦場に降り注ぎ、視界を遮っていく。シーラは九つの尾を持つ白狐で、エリルアルムは炎の翼を持つ孔雀を模しているように見える。いずれも召喚武装の能力だが、エリルアルムのそれがナインテイルと同等のものかどうかはわからない。ふたりとも相応に消耗していることは窺える。
これ以上、負担をかけさせ続けることはできない。
(俺がさっさとけりをつけろって話だな)
セツナが矛と杖を握りしめたちょうどそのときだった。
突如、大地が激しく鳴動したかと思うと、天を震撼させるような大音声が轟いた。世界そのものが畏怖するかの如き振動が駆け抜け、電流が大気中を駆け巡る。そして、まばゆい光が視界を白く染め上げた。なにも見えなくなる。
そんな中、凄まじい圧力に押され、思わず後ろに下がりかけてファリアに気づくが、押されたのはファリアも同じのようだった。特に彼女は広域に及ぶ雷光網の展開と維持による消耗が激しく、足がふらついていた。セツナはファリアをかばいながら、周囲を見回す。視界を染め上げた光は収まっている。
女神が勝利を確信したかのように微笑み、彼方を見やっていた。
見やれば、遙か彼方に光の柱が聳えていた。大地を貫き、天へと突き刺さるほどに巨大で長大な光の柱は、ひとつだけではなかった。見回せば、ザルワーン方面を取り囲むように九つの柱が出現し、そこから膨大なまでの熱量が拡散していることがセツナにはわかった。そして、その光の柱の中に蠢く存在を認知する。光の柱に負けないほどの巨大さを誇る存在。戦場がどよめくの無理はなかった。
光の柱の中、確かに龍の首があったのだ。
九つの龍の首がザルワーンを包囲している。
「なっ……!?」
「なによあれ……!?」
「龍だってのか……!?」
「はい。どうやらこの地には、異世界から呼ばれた龍が眠りについていたようですので、叩き起こさせて頂きました。中々起きてくれなかったようですが」
女神の勝ち誇るような声音も、相手の立場になれば理解できるというものだ。九つの龍の首が目覚めたのだ。その力をもってすれば、セツナたちを蹂躙するのも難しいことではないと考えるのは、当たり前といえば当たり前だ。
「じゃあ、ありゃあ……あのときの?」
「でも、だとしたら変よ、おかしいわ!」
ファリアが悲鳴を上げたのも当然だ。
ザルワーン島の内陸部を取り囲むように出現した光の柱は全部で九つ。その光の柱の中から凶悪な相を覗かせた龍の首も九つであり、かつてセツナたちの前に立ちはだかったザルワーンの守護龍に比べ、四つも首の数が多かったのだ。五つの龍の首は、ひとつひとつが凶悪そのものであり、セツナもクオンと力を合わせてようやく撃破できたほどの化け物だった。それがさらに増えるというのは想像もできなかったし、考えたくもないことだった。
女神が余裕に満ちた表情で告げてくる。
「なにもおかしくはありませんよ。あれが本来のあのものの姿なのですから」
「嘘・・・・・・」
「かつてこの地に召喚されたときは、媒介となる力が弱すぎ、そのすべてを顕現することができなかったのでしょう。しかし、わたくしが力を注げば、話は別。当然でしょう。わたくしは、神。あなたがた人間がどれほど命を捧げたとしても、わたくしの小指ひとつ分の価値にさえ到底及びようがないのですから」
光の柱が消滅した。
その中から九つの龍の首が姿を現して。
「さあ、異界の九頭龍よ。わたくしの呼び声に応え、この地にいるネア・ガンディアの敵を悉く蹂躙し、滅ぼし尽くしなさい」
女神モナナのそれは、死刑宣告にも似ていた。