第二千二百十三話 ひとりじゃない
神の力による因果律からの抹消。
それが意味するところは、セツナ=カミヤという人間、その全存在の否定だという。
ただ、セツナ個人を抹消したのではない。セツナが存在したという事実をも消し去ったのだ。つまり、セツナのことを知っているはずのだれひとりとして忘れ去り、セツナが関わったはずのありとあらゆる出来事の記憶が改変されたのだという。そのことによって記憶に生じた齟齬は、世界によって時間とともに是正され、セツナがいなかった場合の歴史が世界に刻まれる、らしい。
もし、因果律から抹消されたままだった場合、世界はどうなったのか。
考えるだに恐ろしく、彼は、ランスオブデザイアが欲望を剥き出しに暴れ狂う様を見やりながら、常人ならば決して目に見えないであろう速度で飛来したふたつの気配に対応した。甲板に突き刺したランスオブデザイアを押し込んで手放し、みずからは前に飛んだ。鼓膜を突き破りそうなほどの金切り音を発しながら方舟を破壊していく槍は見届けるまでもない。セツナの望み通りの働きをしてくれるに違いないからだ。そう想ったときには、ミズトリスが目の前にいる。両手には二本の剣。
「いつの間に現れた!」
「さっきからずっといたさ」
「戯言を!」
大上段から振り下ろされた二本の剣をメイルオブドーターの翼から受け取ったロッドオブエンヴィーで受け止めるも、想像を絶する怪力に押されそうになり、踏ん張らざるを得なくなる。つぎの瞬間、敵の女神が後方に回るのを気配で察知した。ロッドオブエンヴィーの“闇撫”を発動し、ミズトリスの胴体を掴んで自分より引き剥がして投げ捨て、振り向きざまに右手の矛を振りかざす。“破壊光線”を放ち、高速接近中の女神を牽制、女神が防御障壁を前面に展開して“破壊光線”を受け止めた直後には、空中高く放り投げたはずのミズトリスが視界外から迫ってきている。今度は、上段からの振り下ろしと下段からの逆袈裟による同時交差攻撃を杖と矛で捌き、飛び退き、“破壊光線”を撃ち込むことで牽制とし、またも背後から迫ってきた女神を振り向きざまに斬りつける。しかし、黒き矛による斬撃は空を切った。女神は上空に逃げている。そして、両手がこちらに差し出されていた。手の先に神威が収束し、光の雨となって降り注ぐ。
破壊的な神威の雨は、闇の翼を防壁のように展開することで受け切るが、立ち止まった瞬間を見逃さないミズトリスではなく、猛然と突っ込んできては目にも留まらぬ連続攻撃を叩き込んできた。上段からの斬撃、中段の薙ぎ払い、下段への突き、足払い、逆袈裟、袈裟斬り、同時交差攻撃――電光石火の連撃を黒き矛だけで捌き切ったセツナだが、同時にミズトリスの超怪力には舌を巻く思いだった。複数の召喚武装を同時併用しているはずのセツナが押されるほどの怪力など、神にすら匹敵するものではないか。連撃を捌いた瞬間、セツナはまたしても“闇撫”によってミズトリスを投げ飛ばすも、ミズトリスは空中で身を翻し、見事に着地した。
「いや……違うな」
ランスオブデザイアによる破壊が進み大きく傾斜する甲板の上、まるで重力が甲板に対して真っ直ぐに働いているかのようにして、ミズトリスは立っている。方舟の破壊は、加速度的に進行しており、もはや神にすら手の施しようがないようだった。でなければ、女神だけでもランスオブデザイアの破壊活動を食い止めようとするだろう。
ランスオブデザイアは、アックスオブアンビションと同じく、六眷属の中でも攻撃に特化した召喚武装だ。闇人形を生み出すマスクオブディスペア、闇の手を作り出すロッドオブエンヴィー、闇の翼を広げるメイルオブドーター、時をも支配するエッジオブサーストに比べると、役割が被っているように見えるが、それぞれ長所が大きく異なっていた。
アックスオブアンビションは攻撃範囲に優れ、ランスオブデザイアは破壊力に優れているのだ。方舟のような巨大な構造物を破壊するには、一点突破型のランスオブデザイアこそが相応しい、と、セツナは考え、それが正解だったのは加速度的に破壊されていく方舟の様子を見れば一目瞭然だ。破壊に次ぐ破壊の連鎖は、いまや方舟を真っ二つに引き裂き、さらに細分化していくというところまできている。
「モナナ……あなたの仕業か? あなたがなにかをしたんだな?」
「ええ」
女神は嫣然と微笑み、両腕をこちらに伸ばす。手の先へと収束した神威が、手首の辺りで光の輪を作り、そのまま手の先で大きく展開する。
「因果律より消し去ったはずなのですが、なぜか、舞い戻ってきたものですから困っているのです」
「勝手なことを」
「しかし、あのまま消滅していれば、我々の勝利は確定していましたし、別に問題はないのでは?」
「……従属神ならば、わたしの命令に従っていればいい」
「まあ、それもそうですが」
ミズトリスが唾棄するように告げると、女神は眉間にシワを寄せた。同時に女神の光輪に収束した神威が極大の光芒となって迸り、甲板を破壊しながらセツナに殺到した。怒涛の如く押し寄せる光の奔流を回避するのは簡単だったが、セツナは、闇の翼を前面に重ねることで受け止めた。そうすることで女神の力が地上の味方に被弾しないようにしたのだ。
(なんだ……こいつら)
そんな中、ミズトリスと、モナナと呼ばれた女神のやり取りに疑問を覚える。どうやら、ネア・ガンディアという組織は一枚岩ではないらしい。少なくとも、ミズトリスとモナナの仲は良くはなさそうであり、その結果がモナナによるセツナの抹消という行動に至ったのではないか。
だからといって、両者の連携は見事といってよく、付け入る隙になりそうにはなかったが。
神威の奔流による負荷が消失し、翼を開いた瞬間、眼前のミズトリスが両手の剣を思い切り叩きつけてくる。矛と杖で瞬時に受け止めるも、その一瞬をモナナは見逃さない。頭上と下方、さらに左右から光の槍が殺到する。
(避けきれねえ!)
胸中悲鳴を上げながら、翼を閃かせる。翼から一振りの短刀が飛び出した瞬間、セツナの意識が断絶し、瞬間的に復活する。ミズトリスを見下ろすような格好で、四方から殺到した神威が激突し、大爆発を引き起こす光景を目の当たりにする。メイルオブドーターと同化していたエッジオブサーストを飛ばし、さらにエッジオブサーストの能力によって転移したのだ。
エッジオブサーストは、二刀一対の短刀型召喚武装であり、その能力のひとつに短刀同士の位置を入れ替えるというものがある。その能力は、短刀そのものの位置を入れ替えるだけではなく、触れているものも巻き込むことができるのだ。短刀の片割れをメイルオブドーターに残しておくことで、セツナの肉体そのものをも転移に巻き込んだということだ。
爆圧に吹き飛ばされながら、それに抗わず上空へ至る。ミズトリスが追いすがるのを“破壊光線”で牽制し、下方から放たれた神威の波動を“闇撫”の巨大な手で打ち払う。眼下、ランスオブデザイアによって蹂躙され尽くした方舟が大破し、ふたつに割れ、さらにいくつもの巨大な残骸に分かれ、無数の破片を撒き散らしていく破滅的な光景が展開されている。ランスオブデザイアは、セツナの欲望を吸って、最大限の威力を発揮してくれたのだ。その破壊力、破壊規模たるや、想像以上の成果を上げている。
「よくもやってくれたな……我らの飛翔船を!」
もはや甲板上に留まってもいられなくなったミズトリスは、空中の残骸に飛び乗っては別の残骸に飛び移ることで落下を免れている。それもいつまでも持つものではあるまい。重力が作用している以上、神の力から解き放たれた残骸はすべて地上に落下するものだ。女神は、当然のように空中に浮かんでいるのだが。
「飛翔船ってのか。俺たちは方舟って呼んでるんだがな」
「後先くらい考えるべきですよ、セツナ=カミヤ。これでは地上の、あなたのお味方がたくさん巻き添えになりましょう」
「はっ」
セツナは、冷笑する女神を嘲笑った。確かに、このままでは女神のいう通り、重力に従って落下する無数の残骸は、地上で激戦を繰り広げる両軍に激突し、目も当てられないほどの被害を生み出すだろう。しかも、その場合、ネア・ガンディア軍が無傷で済むだろうことは想像に難くない。女神が護りきって見せるに違いないからだ。そうなれば、被害は同盟軍だけとなり、その場合、勝利をもぎ取ろうと敗北同然となるだろう。いまでさえ、地上は敵軍に押されっぱなしだ。
「俺がなにも考えずにぶち壊したと想ってるんなら大間違いだぜ」
女神の神々しくも美しい容貌に亀裂が入るのを認める。
眼下、雨のように降り注ぐ無数の破片を受け止める雷光の網が広範囲に渡って展開していた。
ファリアだ。