第二千二百八話 底なしの欲望を(六)
ランスオブデザイアとの戦闘が始まって、どれほどの時間が経過したのだろう。
当初、汚水に濡れたままだった髪も肌も衣服も乾き切り、刺激臭も口の中の異様な感触もいまや完全に消え去っていた。セツナの動きが次第によくなっているのは、そのせいもあるだろう。水に濡れた服は、体に張り付いて、動きを鈍らせるものだ。そんな状態で戦闘を開始したからといって、ランスオブデザイアを卑怯と罵るのは間違いだろう。
ここは、ランスオブデザイアの領域だ。
つまり、敵地なのだ。
敵地に乗り込んだ以上、どのような状況で戦いが始まったのだとしても、文句を言える筋合いはない。ましてやセツナは、これから彼の主に会うため、彼から鍵を奪い取ろうというのだ。あらゆる手段を講じて阻もうとするのは、当然のことだった。喪服の女は鍵を奪われたなどとほざいていたが、実際はそうではあるまい。最上階へ行くために必要な試練として、六眷属が鍵を与えられたというのが真相だろう。故にこそ、彼らは全力で鍵を護っている。
「まだ、足りぬ」
ランスオブデザイアが、漆黒の大槍をくるくると回転させながら、こちらを見てきた。呼吸に乱れもなければ、汗ひとつかいている様子はない。何時間、いや何十時間、何百時間と戦っているというのに、この調子だ。人間ではないし、ここが現実ではないのだから、相手が疲労し、消耗するのを待つのは愚策以外の何者でもないし、仮に相手が疲労困憊になったとして、そのときにはセツナのほうが剣を手に持つこともできないくらい消耗し尽くしているに違いない。
「この程度では、この程度ではまだまだ足りぬぞ、セツナ=カミヤ」
回転させていた槍を止め、静かに切っ先を足元に突き立てる。その上で微動だにしない様からは、戦闘中であるという事実も霞んでしまうほどの余裕があった。
セツナは、なんだか挑発されているような気がしてならなかった。セツナは常に全力を出しているというのに、相手にはまったく効いている様子がない。そのことが焦りに繋がり始めている。黒き直剣は、確かに防御能力は高く、武器自体の強度も稀有なくらいだ。しかし、それでは相手の攻撃を捌き続けるだけで精一杯であり、攻勢に出ることができないのだ。相手が余裕を見せるのも当然かもしれない。
「貴公の欲望は、この程度ではあるまい。わたしの攻撃を捌くだけの防戦一方が、貴公の欲する風景ではあるまい。望む世界ではあるまい。貴公はなにを欲する。貴公はなにを望む。貴公は、なんのためにここにいるのだ」
「――強くなるため」
セツナは本心をいったつもりだった。しかし、ランスオブデザイアはその秀麗な顔を横に振った。
「それは手段だろう。わたしは、目的を問うている」
いわれてみれば、確かにそうかもしれない。
セツナは、力を欲している。しかし、最大最強の力を得ることが最終目標ではないことは、セツナ自身が一番よくわかっていることだ。その力の使い道にこそ、目的と呼べるものがある。
「貴公は、なんのための力を欲しているのだ」
「それがあんたのとの戦いにどう関係する。どうだっていいことだろ」
なんとなく、言い返す。
「いいや。よくないな。ああ、よくない。わたしは欲望の権化。ランスオブデザイアの名の通りにな。故にこの試練は、貴公の欲望に問いかけねばならぬ。そして、それがこの試練を乗り越える鍵だと知れ」
「鍵……」
「そう、鍵だ」
ランスオブデザイアは右手を槍から離すと、自分の胸に当てた。傷ひとつ見当たらない黒衣は、セツナの攻撃が彼に一切届いていないことの証明だ。
「いまのままでは、貴公はこのわたしに傷ひとつつけることもできぬまま、ここで無限に長く戦い続けることになるぞ。永久に近く、この魂の牢獄に留まり続けることになるのだぞ。それでいいわけがあるまいな。貴公の想いは、この辺土にはないのだから」
ランスオブデザイアの言葉は、この戦いを勝利に導くための手がかりのようだが、しかし、なにをどうすればいいのか、想像もつかない。彼がなにを望み、なにを求め、なぜ昂ぶっているているのか、セツナには理解ができないのだ。
「さあ、解き放て。貴公の欲望を解き放ってみせよ。そして、わたしを楽しませてみよ」
「それが本音かよ」
セツナは、咄嗟に剣を構えた。
「それがわたしの欲望故!」
「欲に塗れてんのはあんたじゃねえか!」
「いったはずだ! わたしは欲望の権化だと! わたしはわたしの欲望を満たすためならば、どのような手段だって用いよう! 貴公が己が欲望を解き放てぬというのであれば、その手助けをしてやろうではないか」
ランスオブデザイアの動きを捉えることさえできなかったのは、彼がついに全力を発揮したからに違いなかった。いまのいままで、本気でもなんでもなかったということだ。黒き直剣を手にして防戦一方ながらも、攻撃を捌き続けていられたのは、要するに相手が手を抜いていたからにほかならなかったのだ。その事実がセツナには衝撃的だったし、絶望的だった。そしてつぎの瞬間、セツナはさらなる絶望に襲われた。
「ぐはっ」
胸を貫いた衝撃が激痛を伴って金切り音を上げ、超高速で回転しながら全身をずたずたに引き裂いていく。その際の痛みたるや物凄まじいものであり、一瞬にして意識が焼き切れそうになったほどなのだが、しかし、セツナは、意識を失うことすら許されないまま、最後まで自分の体がばらばらになっていく光景を見届けなければならなかった。ランスオブデザイアの高速回転が胴体を千千に引き裂き、両肩から腕を切り離し、肘から先も切り裂いた。腰もだ。腿も脚もずたずたに切り刻まれていく情景がなぜ見えているのかといえば、真っ先に頭が胴体から切り離されたからだということに気づいたとき、セツナは、なんともいえないものを感じた。
回転槍の切っ先が胴体を貫き、地面に突き刺さったかと思うと、その回転速度はさらに加速した。大地から粉塵が爆煙のように舞い上がり、地響きが起こる。閃光が視界を灼き、轟音が耳朶を叩く。大地が割れ、セツナの体の真下から悪臭に満ちた汚水が吹き上がる。でたらめに破壊された地面もろとも、セツナの体の部位もすべて、汚水の海に飲み込まれていく。頭部もだ。刺激臭が鼻腔に刺さったはずだが、なにも臭わなかった。あらゆる感覚がでたらめに狂った状態では、なんともないということだろう。
セツナが海中に沈む最中にふと想ったのは、口の中に入り込んできた汚水で胃を満たさすに済んだということだった。
どす黒い汚水が視界を塗り潰し、なにもわからなくなる。
ただ、このままなにもできず海底深くまで沈んでいくことだけが理解できた。
(このまま……沈み続けるのか?)
ここは地獄。
現実世界とは乖離した、なにが起こっても不思議ではない世界。故にセツナがどれほどの致命傷を負っても立ち所に回復するし、殺されても死ぬことはない。すぐさま蘇り、なにもかも元通りだ。ならば、いまだって、すぐにでも元通りになってもおかしくはないのだが、どうやら今回はそうはならないらしい。
ここは地獄。現実とは乖離した、なにが起こっても不思議ではない世界なのだ。逆もまた、然り。致命傷を回復しないまま維持することも、本来ならば死んでいるはずの状態のまま、生かし続けることだって可能なのだ。
故にセツナの意識はあり、汚水の海の底へ沈んでいく絶望を感じなければならない。
(なにも得られないまま、なにもできないまま、この汚水の海の底に沈み続けるっていうのか?)
彼は目を見開いたが、汚水の海の中はどす黒く、なにも見えないままだ。いや、それ以前に目が正常に機能しているかどうかさえ怪しい。この汚水は、多少目に触れただけで凄まじい痛みを覚えさせ、しばらくの間目を開くこともできなくなったほどのものだ。目を開き続けているということは、それほどの汚水に触れ続けているということであり、もはやまともに機能していない可能性も高かった。
そもとも、全身がばらばらに切り刻まれて海中に放り込まれたのだ。
どす黒く、悪臭に満ちた不快な汚水の海の底へ。
それがセツナの欲深さを示しているというのだから、返す言葉もない。
(欲望……)
ランスオブデザイアは、いった。
欲望を解き放て、と。
(俺の欲望……)
セツナが欲し、望むもの。
それがいったいなんであるのかについては、セツナ本人が一番よく知っていた。
力は、そのための手段に過ぎない。
(ファリア)
真っ先に浮かんだのは、最愛のひとの顔だ。つぎにミリュウ、レム、シーラ、エリナ、ラグナ、ウルクと、様々な顔が脳裏に浮かんでいく。もちろん、女性ばかりではない。レオンガンドの顔も浮かんだし、ルウファやエイン、エスクの顔だって、浮かんだ。そして、無数の顔が脳裏を埋め尽くしたとき、セツナは、ランスオブデザイアのいっていたことをほぼ完璧に理解した。
(そうだな。俺はなんて欲が深いんだ)
自分でも呆れてしまうくらいだった。
(俺は、俺に関わったすべてのひとの幸せを望んでいる)
それも、浅く深く関わりがないのだから、その欲深さたるや、ランスオブデザイアが評するだけのことはあるだろう。確かにこれほど欲の深い人間もいないかもしれない。それがどす黒く、汚濁にまみれているというのはどうかと想うのだが、それにしたって、見方によってはそういう風に受け取れなくもないのだから、仕方のないことかもしれない。
そう考えれば、この汚水の海も、多少なりとも愛せる気がした。
(だから、こんなところで沈んでいる場合じゃあないんだよ!)
だれとはなしに叫んだとき、セツナは光を見た。脳髄に焼き付くような閃光の彼方に希望を見たのだ。
(俺は、この欲望を叶えてみせるんだからな!)
そう、誓った。
誓ったのだ。
故にセツナは、返り咲いた。
本来あるべき世界の上に。