第二千二百五話 底なしの欲望を(三)
「どこまでもどす黒く、汚濁に塗れ、広大かつ深遠なる海。それが示すのは、貴公自身の欲深さなのだ」
漆黒の大槍を手に携えたランスオブデザイアの言葉に、セツナは眉根を寄せた。あの悪夢のような汚水が自分の心だといわれて喜ぶ人間がどこにいるものか。
「あれが、俺の欲望かよ」
「どうだった? 自分の欲望の味は」
「二度と味わいたくねえ」
「そうだろう、そうだろう。己の欲深さに触れたくないと想うのは、なにも人間に限った話ではないし、恥じることではない。だが、誇りたまえよ」
ランスオブデザイアは、鷹揚にいってくる。その挙措動作のどれひとつとっても、召喚武装ランスオブデザイアからは想像のつかないものだ。召喚武装としての姿や能力と、本体の性格は無関係なのかもしれない。
「これまで幾億劫の時の中で、貴公ほど欲の深い人間は一握りしかいなかった。そして、その欲望に振り回されないというのは、極めて稀有な存在だ。我らが主が気にするのもわからないではない。だが、実のところ、わたしはまだ、貴公が我らが主と謁見するに値するとは想えないのだ。故にこうして貴公の最終試練となった。我が貴公の力量を見定める、最終試練とな」
「だったら、もっとましなやりかたがあったんじゃねえのかよ」
セツナは、ランスオブデザイアを睨みつけた。未だに口の中では汚水の後味が残り、暴れまわっていたし、全身、ちくちくとした痛みに苛まれている。たとえ彼のいうことが事実だとしても、このような不快感を味わわなければならない試練など、願い下げにもほどがある。
しかし、ランスオブデザイアは悪びれるということがなかった。
「これがわたしのやり方なのだ」
「嫌なやり方だな」
「欲の薄い人間にとってみれば、なんの面白みもない試練であるはずなのだがな。貴公は、そうではなかった。己が身を焦がすほどの欲望が、貴公の心の奥底に渦巻いている。その事実を直視せねば、わたしの試練を越えることはできんぞ」
「俺の欲望……ねえ」
セツナは、ランスオブデザイアに言い返しながら、槍の切っ先がわずかに揺れるのを見逃さなかった。男の足が地を離れるより早く、左に飛ぶ。後ろではなく、左だ。後ろに下がり続ければ、汚水の海に追い詰められてしまうが、祭壇の左手奥には広大な大地が横たわっていたことを確認している。戦うならば、海辺ではなく、陸地に向かうべきだった。
「それがどういったものか、お聞かせ願いたいもんだ」
猛烈な金切り音が聞こえたと想うと、物凄まじい激突音が大地を揺らし、粉塵を巻き上げる。槍の穂先が高速回転し、掘削機のように地面を抉ったのだ。ただし、セツナは無傷だ。飛んで逃げている。
「自分では、わからないか?」
「むしろ無欲過ぎるって評判なんでね」
「他者の評価に縋り、己の本質から目を背けるか」
振り向くと、ランスオブデザイアは既に眼前に迫っていた。猛烈な突きを右に転がってかわし、続けざまに叩きつけられた一撃をさらに転がり続けて回避する。回避先から掬い上げるような薙ぎ払いを四つん這いのまま飛んで避け、足だけで着地して後ろに下がる。眼前を切っ先が通過した。息をつかせぬ連続攻撃には、武器の持たないセツナには、回避一辺倒になるしかない。
「貴公は、確かに一点に於いては無欲といって差し支えがない。そのことは、わたしも認めよう。故にわたしは貴公を支配できなかった。あのもののようにはな」
「……ウェインか」
ランスオブデザイアを手にセツナの前に立ちはだかったのは、ウェイン・ベルセイン=テウロスただひとりだ。ルウファもランスオブデザイアを召喚してはいるが、ウェインのように取り込まれることはなかったのだろう。それはルウファがランスオブデザイアの圧倒的な力を認めながらも、その力に不吉なものを感じ、頼ろうとはしなかったというのが大きいに違いない。その点、ウェインは、セツナを斃すために力を欲し、ランスオブデザイアの呼びかけに応えてしまったようであり、歯止めが効かなかったのだ。だから、ウェインは力を制御しきれず、飲まれた。
「あのものは、人間にしては素晴らしい力量と欲望の持ち主だった。故にわたしはあのものに働きかけ、貴公の敵となった。黒き矛の敵となったのだ」
「……そういや、そうだったな。あんたも、ほかの眷属たちも、黒き矛から離反したんだったよな。それもあんたのいう欲望か」
「そうだ。わたしにはわたしの、連中には連中の欲望があり、欲望が我らを突き動かす。故に我らはあのお方に挑戦する。いつの日かあのお方に打ち勝つために。そのためにあのものを利用したのだが、負けてしまった。貴公とあの方の力の前に。そして貴公を支配しようとしたが、それも不可能だった。貴公の自身に対する欲があまりにもなさすぎたゆえに」
「それって無欲ってことじゃあねえのかよ」
「一点においては、といった」
男が鼻で笑う。地を蹴った。左に飛ぶ。激痛。見れば、右腕の肘から先が吹き飛んでいる。血がとめどなく噴き出し、熱と痛みが意識をかき乱す。やはり、常人の肉体では、召喚武装の速度にはついていけないのだ。これまで上手く行き過ぎたといっていい。
「貴公は、それ以外の点において恐れを知らぬほどの大欲を抱いている」
「大欲? 俺が?」
あまりにぴんとこなさすぎて、危うくランスオブデザイアの追撃を喰らいそうになったが、辛くも回避に成功する。しかし、漆黒の槍が巻き起こした風圧がセツナの足を掬い、足が滑ってその場に転んでしまう。無論、その隙を見逃すランスオブデザイアではない。転倒したセツナの顔面へと螺旋の槍が肉薄する。あわや突き刺さるかと想った瞬間、切っ先が急停止し、風圧だけが顔面をなぶった。
ランスオブデザイアが槍を引き、数歩、後退した。
「貴公は、自分に関わったほとんどすべての人間の幸福を願っている」
「は?」
セツナは、ランスオブデザイアの行動の意図と言葉の意味がわからず、きょとんとした。吹き飛ばされた右腕はいつの間にか元通りになっていて、痛みだけが疼いている。やはりここは現実世界ではないのだという事実を思い知らせてくるのだが、それも慣れたことだ。これほど激しい戦いを繰り返す以上、負傷は前提となるし、場合によっては致命傷も貰いかねない。仮にこれが現実の出来事ならば、セツナは地獄に降り立って早々に命を落としているのだから、むしろ、この虚構の世界にこそ感謝しなければならなかった。
でなければ、修行にもならなかったのだ。
元に戻った右手と左手を支えに体を起こして立ち上がり、ランスオブデザイアと向き合う。漆黒の大槍を構えた黒い男は、その赤く禍々しい瞳でこちらをじっと見ていた。
「それのなにが欲深なんだか。他人の幸せを願うことのなにがいけない」
「いけないことだなどとはいっていない。ただ、何事も度が過ぎれば我が身に降りかかる災厄そのものになる、ということは知っておくべきだ」
「はっ、なにいってんだか」
セツナは、拳を握ると、半身に構えた。武器がない以上、拳で戦うしかない。一応、基本的な体術はルクスやエスクから叩き込まれている。戦えないことはないだろう。もちろん、常人相手の場合に限るのだが。
相手は、召喚武装ランスオブデザイアを手にした、ランスオブデザイア本人だ。常人とは比べ物にならない身体能力についていけるとはとても思えない。
「それが大欲ならなんだってんだ。俺がどれだけ欲深だろうと、それがどうしたってんだ。俺には、俺に手を差し伸べてくれたひとたちへの大恩がある。その恩返しに全力を注ぐことのなにが悪い」
「ならばその欲深さで、この試練に打ち勝ってみるがいい」
ランスオブデザイアが槍を横薙ぎに払った。風圧が小さな竜巻を起こし、セツナの全身を軽くなぶる。攻撃でもなければ、牽制ですらない、ただの準備運動めいた動き。その程度の動作でさえ竜巻が起こりうるのだから、これまでの攻撃が手加減だらけだったのは紛れもない。
「貴公、セツナ=カミヤよ。己が大欲を叶えんと想わば、魔王の腹心にして強欲たるわたしを越えてみせよ。でなければ、貴公はここで魂の虜囚となり、あるべき世界への帰還も敵わず、未来永劫、留まり続けることになるのだからな」
直後、男が地を蹴る音だけが聞こえた。
「魂を燃やし給えよ」
声が耳元で聞こえたのは、ランスオブデザイアが一瞬にして接近し、セツナの胸を貫いていたからだ。




