第二千二百四話 底なしの欲望を(二)
「それでは、どの扉から挑戦なされるのか、覚悟は決まりましたか?」
「ああ」
喪服の女のどこか挑戦的な、それでいてもてあそんでいるような言い方が気になったものの、セツナは言葉少なに返事をすると、正面の扉の左隣、なめらかな光沢のある黒扉の前に立った。扉は、正面のもそうだったが、取っ手はなく、黒扉には鍵穴さえもなかった。
「どうやって開けるんだ?」
「触れてみてください。そうすれば……」
喪服の女の言葉が途中で聞こえなくなったのは、セツナが扉の表面に触れ、その冷ややかさを認識した瞬間にあらゆる感覚が断絶されたからだ。扉に触れているという感覚が消え去れば、目の前が真っ黒になり、なにも匂わず、音も聞こえなくなったのだ。
それは空間転移の感覚に似ていて、故にセツナは身構えこそすれ、不安や恐怖に襲われることはなかった。断絶された感覚の復活。ただそれだけを待ち望み、そして、五感の復活と同時に鼻腔を満たした悪臭と口の中から胃の中まで泥水に満たされ、汚濁の海に落とされたのではないかとでもいうような苦痛に顔をゆがめた。
いや、実際、手も足も頭も胴体も汚水に深々と浸かっていて、あがきにあがいてようやく水面から顔を出すことができたのだが、そのつぎが問題だった。胃の内容物を吐き出すことはできたものの、口の中に残る気味の悪い感触や悪臭を消すことはできなかった。その上、瞼を上げることさえ苦痛であり、瞼を少し上げた瞬間、汚水が眼球を刺激し、刺すような痛みが襲ってきた。悲鳴を上げそうになりながら目を閉じる。しかし、一度眼球を襲った痛みは、目を閉じたからといって消え去るものではなく、むしろセツナ自身が逃げ場を潰した感じになり、彼は自分の迂闊さを呪った。
(なんだってんだ!)
セツナは、声に出して叫びたかった。
(扉に触れたら汚水の中とか、いったいどうなってんだよ!?)
しかも、ただの汚水ではない。強烈な悪臭は刺激を伴い、口の中の喉も胃ももはやずたぼろといった有様であり、目など腐り落ちるのではないかという熱と痛みを訴えてきていた。ここが地獄で、肉体が実態を伴わないものだからこそ耐えられているものの、もし仮にこの汚濁に塗れているのが本当の自分ならば、死んだほうがましだと想ったに違いない。実際問題、いまでさえそう思い始めているほど、強烈さであり、試練というにはあまりにも酷い有様だった。
それでも、このまま汚水の上を漂っているわけにもいかず、陸地か掴まるものでもないかと探し、泳ぎ回った。泳いでいるうちに汚水が口の中に飛び込んでくることもあったが、堪える以外にはなく、試練というよりは拷問を受けている気がしてならなかった。
そんな終わりの見えない苦痛の中、セツナの指先がなにかに触れた。その瞬間の喜びの大きさたるや、これまでの人生で経験したことがないほどのものであり、彼は両手でその感触を確かめると、目を閉じたままよじ登った。全身、汚水塗れで衣服も水を吸って重くなっているし、体に張り付いて動きにくいことこの上なかったものの、よじ登ることそのものに問題はなかった。
手と足で確かめた地面の感触は、硬質で、砂や土とは違うものでできているようだった。ふと、汚水の貯水池を囲う堰のようなものを想像してしまうが、そんなことはないだろう。
それから、指先で目元の水分を拭い取り、ゆっくりと目を開く。眼球はいまも痛みを訴えてきていたが、だからといっていつまでも目を閉ざしている場合ではない。ここがどのような場所で、なにが自分の身に起きているのか、確かめなければならないのだ。
でなければ、試練を終えることもできない。
眼球に無数の針が刺さるような痛みを堪えながら確保した視界には、期待したほどの変化もなかった。つまり、無明に近い暗闇が視界を包み込んでいて、周囲の状況を確認することもままならないのだ。足元の地面も黒一色で、どういった材質なのかも判別できない。振り返れば、セツナが泳いできた汚水がどうやら海のような広大さを誇っているらしいことがわかる。遥か遠方まで見渡せるわけではないのだが、波間にわずかばかりの光が反射していることから判断可能だ。
悪臭に満ちた汚濁の如き水がよくもまあこれほどまで溜まったものだと想う一方で、現実とは無関係ならば不可能はないとも考える。
この地獄は、決して現実のものではない。
そのことは、これまでセツナが身を以て証明してきている。何度死んでも、何度殺されても、死の感覚だけを残して元通りに復活するのだから、現実などであるわけがないのだ。セツナはただの人間で、不老不滅の存在でも何でもない。死ねばそれまで。傷も残るし、腕を切り飛ばされて無事で済むわけがない。しかし、この地獄では、そんなことは関係がなかった。どれだけの損傷を受けても、どれだけの残酷な殺されたかたをしても、気がつけばなにもかも元通りだ。
残るのは敗北感と死の感触だけで、傷痕ひとつ、残らなかった。
故にこの汚水の海も現実のものではあるまい。
そう結論づけ、その場から離れる。
汚水の海は、悪臭と刺激臭の海でもあるのだ。海から上がっただけで多少はましになったものの、それでも海辺に立っているだけで目眩がしそうなほどに強烈な臭いがした。鼻がおかしくなりそうだ。いや、既に壊れているのではないか。だから、刺激臭の海の前で平然と突っ立っていられたのかもしれない。
眼球の痛みが多少落ち着いてきたもの、全身を苛む痛みは一向に収まる気配がなかった。それもそうだろう。身につけている衣服が汚水をたっぷりと吸い込み、そのまま全身にべったりと張り付いているのだ。服を脱ぎ、汚水を絞り出さなければ、この痛みを抱えたまま歩き続けることになりかねない。
とはいえ、立ち止まり、衣服を脱いでいる場合ではなかった。
岸辺から歩くこと数分、前方右手に光が差していた。
上天の暗黒を貫くようにして差し込む光は、あまりにも幻想的で、この拷問のような世界に差し伸ばされた救いの手のように想えなくもなかった。しかし、その光の降り注ぐ地点を目を凝らして見てみれば、そうではないことが明らかだ。そもそも、この地獄に救いなど存在しないことくらい、既にわかりきっている。期待もしていない。
(あれは……)
セツナは、光の元に足を向けながら、目を凝らした。
上天から降り注ぐ光は、まるで天地を支える柱のようであり、その柱の根元には黒い祭壇のようなものがあった。そして、祭壇にはひとつの武器が突き立っている。遠目からでもわかる巨大な武器には、見覚えがあった。漆黒の大槍。穂先が螺旋を描く独特の形状は、一目見ればそう忘れることもないだろう。
ランスオブデザイア。
つまり、あの扉は、黒き矛の六眷属が一、ランスオブデザイアの試練へと繋がっていたということだ。そして、この汚濁に塗れることが試練の一貫だということになるのだろうが、だとすれば趣味が悪すぎる、とセツナは思わずにはいられなかったし、ランスオブデザイアを非難したくて仕方がなかった。
セツナを試すにしても、ほかにもっとやりようがあったはずだ、と。
「しかし、しかしこれが貴公の心を映した結果ならば、だれに文句をいわれる筋合いもないのだ」
突如セツナの耳元に囁かれたそれは、聞いたことのある声だった。即座に振り向くと、影が視界を横切り、一瞬にしてランスオブデザイアの元に到達する。セツナの目が追いついたときには、それは光の柱の中に佇んでいた。黒い男、としか形容しようのない人物だ。長身痩躯。黒い髪に黒い装束といった黒ずくめの中、やけに白い肌と真っ赤な目が異彩を放っている。その手はランスオブデザイアの柄に触れている。
かつて、夢現の間に見たランスオブデザイアそのものだ。そしてそれがランスオブデザイアの本当の姿なのだろうということは、黒き矛の正体がこの塔の最上階で待っていることからも想像がつく。ほかの眷属たちも同じなのだろう。武器防具としての姿形のほうこそ、化身なのだ。
「俺の心?」
「そうだ。これが、この汚濁に塗れた世界こそが、貴公の心そのもの」
男は、ランスオブデザイアを祭壇から引き抜くと、切っ先をこちらに向けてきた。光の柱が消えてなくなり、闇が訪れる。
「貴公ほど欲深い人間はそうはいない。誇っていいぞ、セツナ=カミヤ」
皮肉めいた言葉に、セツナは目を細めた。