第二千二百一話 神の力
マユリは、方舟を地上に降下させると、方舟を中心とした一帯に強力な守護領域を形成した。
敵は、名も知らぬ異界の神だが、どうやらそれなりの力があり、警戒する必要があることもまた明らかとなった。少なくとも、なんの対策もしないまま放置すれば、乗船中の人間たちが攻撃に晒される恐れが強く、もしそのようなことがあればセツナたちに申し訳が立たない。
自分は彼らの希望を叶えるために力を尽くすと約束したのであり、そのために全力を注がなければ、存在意義を失い、神ですらいられなくなるだろう。
ひとびとに希望を与え続けるためには、神で在り続ける必要がある。
そのためにも、セツナたちの希望を叶え、見届けなければならないのだ。
故にマユリは方舟を神威による守護領域で覆うと、ミリュウ、エリナ、ダルクスの三名とともに敵の待つ地上へと転移した。
転移先の地上では、ウェゼルニルと敵の神が待ち受けていた。
マユリが神威砲で徹底的に破壊した敵舟の残骸が流星雨のように降り注いだおかげで、周囲の地形はでたらめに破壊され、以前の面影など見るべくもなかった。そもそも、“大破壊”によって世界中の地形が変わり果てているのだが、それを差し置いても、方舟の残骸の墜落による被害は大きなものだ。都市の近くでなかったからよかったものの、もし、都市の直上ならば、直下の都市は滅亡を免れ得なかっただろう。
もちろん、そのような状況ならば、マユリは別の方法を用いたのであり、都市を巻き込むつもりは毛頭なかった。そんなことをすれば、セツナたちに非難されるだろうことはわかりきっている。わざわざ彼らの信頼を裏切る真似をすることはない。ようやく、彼らも自分を信じてくれるようになったのだ。また、一から信頼を築き上げるとなると、さすがの神も骨が折れる。
それになにより、都市に住むひとびとを犠牲にするようなやり方をマユリは好まなかった。
「なんだ? 知った顔はひとりだけじゃねえか」
最初に口を開いたのは、ウェゼルニルと思しき白甲冑の男だ。人間として見れば大柄の部類に入るだろう。立派な体格を純白の甲冑で包み込んでおり、その本性はわからない。が、マユリが見るところ、少なくとも人間ではない。それどころか、この世界に存在するありとあらゆる生物と根本を異にするもののように想えた。神化した人間というわけでもない。神人もまた、人間と本質の異なる存在だが、神人には神の徒としての特質があり、それはマユリのような神には一目瞭然のものだった。そういった特性がウェゼルニルには、ない。
人間とも神人とも、ましてや皇魔とも異なる存在。
新種の生命体、とでもいうべきだろうか。
それ故、マユリは、ウェゼルニルの力量を図りきれずにいた。神ほど強いとは想い難いが、かといって人知の範囲にとどまっているかどうかも怪しい。なにせ、神々をつき従える軍勢の指揮官のようなのだ。
通常、神々が人間に従うことなどありえることではない。神自身が人間に協力を申し出たり、結んだ約束を果たそうとすることはあっても、唯々諾々と命令に従うことなどありえないのだ。だが、どうやらネア・ガンディアの神々は、ネア・ガンディアの王に従い、また、軍勢の指揮官にも従っているらしいということが、方舟の動力源に甘んじている様子からも窺い知れた。
つまり、指揮官にはそれ相応の力があるということではないか。
「残念、ミリュウ=リヴァイアと愉快な仲間たちでした!」
真っ赤な髪と鎧のミリュウが、マユリの前に立ち、得物を構える。これまた真っ赤な刀身が特徴的な太刀であり、名をラヴァーソウルといった。右に並び立つのは漆黒の全身鎧を着込んだダルクスだ。マユリでさえその素顔を見たことはないが、中身は歴とした人間であり、その点ではなんの心配もない。召喚武装を常時使用しているという点に目を瞑れば、だが。
エリナは、ふたりの後方に立っている。右手首にフォースフェザーを装着していて、彼女も戦いに参加する気構えだった。もちろん、マユリは、彼女たちを支援するつもりだったし、そのためにみずから出張ってきたのだ。でなければ、ミリュウたちは神の攻撃の前に為す術もなく殺されるしかない。
「いや、まあ、あんたのことは知っているさ」
「あたしはあんたのことなんて知らないわよ!」
ミリュウが憤慨するように叫び返すと、さすがの相手も肩を竦めた。
「なんでそう牙を剥くかね」
「敵と馴れ合う道理なんてないわ!」
「はっ、ザルワーンで敵に捕まった挙句、惚れ込んだ女がいえたことか」
ウェゼルニルのその発言は、しかし、ミリュウにとって致命的なものにはなりえない。なぜならばミリュウは、そのことをむしろ誇りに思っているからだ。
「お生憎様。あたしは元々ザルワーンなんて滅べばいいって想ってたのよね」
事実、ミリュウは、胸を張っていってのけた。
ミリュウとセツナの馴れ初めについては、マユリは、彼女と仲良くなって真っ先に聞かされたことだった。その過程で、ミリュウの生い立ちや成長環境をしり、魔龍窟なる地獄のような境遇に落とされたという話も聞いている。彼女がなによりもザルワーンそのものを憎んでいたというのは事実であり、故に戦争の真っ只中、ガンディアに寝返ったのも無理のない話だとマユリは想ったものだ。そして、彼女がセツナに心の救いを求め、実際に救われていることを知り、心底安堵している。セツナがいなければ、ミリュウは復讐の果てに命を落としていたかもしれない。
それは、マユリにとってこのうえない損失だった。
「そうかい。だったら、ログナーからも手を引けばいい」
「またまたお生憎様。今回ばかりは、そういうわけにはいかないのよ」
「なんでだ? あんたたちには関係のないことだろう。これは俺たちネア・ガンディアと、この土地に住む人間の問題だ。無関係のあんたらには、介入する道理はない」
「またまたまたまたお生憎様! 残念だけど、この土地のひとたちからお願いされてんのよ!」
この土地のひとたちというのは、ログノールのエイン=ラナディースやエンジュールのシグルド=フォリアー、皇魔たちのことだ。当初、ログナー方面の救援に意味を見出せなかったマユリだったが、このログナー島にセツナの知人友人がいると知れば、放っては置けなくなった。元より、セツナたちの望み通り、この島を助けるつもりではいたのだが。
「……そうかい。だったら、こっちも手加減する必要ないわけだ」
「元よりそのつもりだったでしょ」
「まあ、な」
背後の少年神からの冷ややかな一言に水を差されたような、そんな曖昧な反応を見せたウェゼルニルだが、そういったところを見る限りでは、両者の間に信頼関係はないように見えた。やはり、指揮官とその部下といった程度の関係にすぎないのだろう。その点、マユリたちとは違う。
「数少ない弐型飛翔船を粉砕しやがったんだ。その落とし前、高く付くぜ?」
ウェゼルニルが、腰を屈め、拳を握りしめた。左の拳を前に突き出し、右の拳を胸の前に持ってくるような構え。気合は十分。気迫もある。その構えを見ただけで、ミリュウは、ウェゼルニルの力量をある程度見極めたようだ。こちらを一瞥した彼女の横顔は、厳しい。
「ウェゼルニルはあたしたちが受け持つわ。マユリんはあっちの神をお願い」
「任せておけ。おまえたちに害が及ばぬよう、封殺してやろう」
とはいったものの、マユリには、気がかりなことがあった。
本来ならば、ミリュウたちは、四人でウェゼルニルと当たるはずだった。たったひとりとはいえ、神々をも従えるネア・ガンディアの指揮官だ。その力量は未知数だが、人知を超えたものであろうことは想像に難くない。神の加護を得ているのは間違いなく、その時点で、武装召喚師数名でもきつい相手だ。それでもレムを含めた四人ならば、ある程度は戦えるだろうという判断の元、戦いを始めたはずだった。
だが、レムが突如として姿を消した。しかも、ただ姿を消したのではなかった。機関室から移動しただけならば、マユリに感知できないわけがなかったし、空間転移ならばその残滓を辿ることで居場所を特定することもできたはずだ。そもそも、レムは空間転移能力を持たないのだから、論外ではあるが。
不意にウェゼルニルの姿が虚空に溶けて消えた。どうやらそれがウェゼルニル特有の能力らしいのだが、マユリの目には、その輪郭がはっきりと映っていた。消失したのではない。自分に当たる光を屈折させ、他者の目からは見えないようにしているだけだ。マユリは、ミリュウたちを支援するべく、ウェゼルニルの透明化をかき消すと、少年神の姿もまた消えていることに気づいた。だが、気配までは消えていない。頭上。
(問題は)
マユリは、頭上に分厚い防御障壁を張り巡らせながら、胸中で苦い顔をした。唯一、問題があるとすればそれは、天から降り注ぐ無数の火球などではない。
(セツナ……おまえはどこでなにをしている?)
この戦いの要であり、勝利の鍵であるはずのセツナが、この世界から――いや、ありとあらゆる時空から消失してしまっているということだ。
モナナは、戦場を睥睨し、戦況を観察していた。
人間同士の争いというのは、極めて荒々しく、なんとも不格好で、彼女にとって面白くもなんともないものだが、ときには観察に徹する必要もあるということも、知っている。
彼女には彼女の立場があり、役割があるのだ。
いまの彼女の立場は、ザルワーン再侵攻軍総指揮官ミズトリスの従属神であり、ミズトリスの命令に付き従わなければならなかった。だが、そのことを苦痛に想うには、彼女は物事を達観しすぎていた。
ミズトリスは、獅徒だ。獅徒は、ネア・ガンディアにおいて極めて特別な立場にある存在であり、神々よりも、あるいは神将などよりも上位に位置するといっても過言ではない。獅子神皇の使徒たる獅徒たちは、獅子神皇の目覚めとともにその立場を確かなものとした。
獅徒はいまや神皇の意志の代弁者であり、神皇の意志の代行者であるといっても過言ではないのだ。
故にモナナは、いまの立場に不満こそあれ、そのことを口にしようとは思わなかったし、行動に出ようともしなかった。目的のためだ。獅子神皇に従っていれば、いずれ、大願成就のときは来る。そう信じればこそ、神々はネア・ガンディアに残っているのだ。
そして、そのためならば、人間同士のくだらない戦いを観察するのもやぶさかではない。
地上の戦況はというと、明らかにネア・ガンディアが押していた。
兵力でこそ圧倒的に負けていたネア・ガンディア軍だったが、その戦力の充実ぶりでは、敵軍を遥かに凌駕している。
こちらの勝利は確定している。
なぜならば、敵が勝利するための唯一の手段が、モナナの手によって消滅したからだ。
(因果律そのものから消え去ったのです。もはや、なにも恐れる必要はない)
恐れ、と、モナナは胸中、口にした。
神が口にするべき言葉ではなかったし、モナナ自身、ふと口をついて出てしまった言葉に驚きを禁じ得なかったが、ミズトリスに不審がられるほどには表情に出さずに済んだのは僥倖だった。神がたかが人間如きに恐怖を感じることなど、ありえないことだ。あってはならないし、あるべきではない。神とは、人間とは比較にならない次元の存在なのだ。
故にこそモナナは、己の中に生じようとした恐怖を拭い去るべく、セツナを因果律より消し去ったのだ。
セツナが存在したという事実が消え去ったことで、ひとびとの記憶からも消えて失せたのだ。
もはや、敵軍には、どのような希望に縋って戦いを挑んだのかさえ、判然としまい。