第二千百九十六話 空中戦(一)
方舟、と呼んでいるらしい。
エインたちが乗り込んだ飛行船のことだ。リョハンを襲ったネア・ガンディア軍から鹵獲したものであるといい、その話からも彼女たちがネア・ガンディアに与していないことが明らかだ。
そう名付けたのはリョハンの守護神となったマリクであるといい、ミリュウたちはそれに習って、方舟と呼称しているようだ。
マリクとは、あのクルセルク戦争で活躍したリョハンの四大天侍のマリク=マジクのことであるらしく、彼の本性が神属だったという事実には驚きを隠せないが、今回の本題はそこにはなく、そのことはあとで状況が落ち着いてから考えるべきだった。
目下の問題は、ミリュウたちが方舟を利用していることでも、マリクがリョハンの守護神だということでも、セツナが生存しているということでもない。いや、エインにとっては、セツナが生きていることがレムの存在によって証明され、ミリュウたちがセツナの思惑で動いているという事実には、興奮を禁じ得ないし、喜びを隠せず、シグルドたちにからかわれる始末なのだが、本筋とは関係がないのだ。
いまは、目の前の出来事に集中しなければならない。
なにより、ミリュウたちがもたらした情報は、エインたちにとって驚くべきものであると同時に現状を打開するには必要不可欠なものも含まれていた。
「ザルワーン方面とログナー方面への同時攻撃、ですか」
「そう、それが、ネア・ガンディアが現在発動している作戦で、あいつらがここに突然現れた原因なのよ」
ミリュウが卓上に広げた地図を見れば、ログナー島とザルワーン島が海に隔てられた近海に浮かんでいることがわかる。ザルワーン島はログナー島の北東に位置しており、つまりミリュウたちは、この方舟に乗って、遠路遥々ログナー島にやってきたというわけだ。そして、そのふたつの島を隔てる海を見てエインが思うのは、自分の命のことだ。エインは、ザルワーン島から船で脱出を図り、ログナー島のスマアダ付近に漂着している。幸運にもログナー島がザルワーン島の南西に位置し、距離的にもそう遠く離れていなかったからこそ、なんとか辿り着けたのだ。もし、ログナー島とザルワーン島の距離がもっと離れていれば、エインの命は海の藻屑と消えていたに違いない。
もちろん、いまはそんなことはどうだっていいことだ。
ネア・ガンディアを名乗る軍勢がここログナー島以外にも攻撃を仕掛けているという話には、衝撃を受けざるを得ない。それはつまり、ネア・ガンディアなる組織の規模の大きさを示しているということであり、世界規模で軍勢を展開しうるほどの勢力ということにほかならないからだ。
「ネア・ガンディアは指導者をレオンガンド・レイグナス=ガンディアといっているわ」
「レオンガンド……陛下!?」
「生きて……おられたのか」
「本物かどうかの確証はないわ。あいつらがいっているだけだもの。セツナも、龍府のグレイシア太后殿下も、偽者だと断定しているわ」
ミリュウが渋い顔をして、地図に視線を向ける。
エインたちが話し合っているのは、方舟内の作戦会議質のような一室だ。広々とした室内には三者同盟軍からは主だった面々と、ミリュウ、レムの二名だけがいる。三者同盟軍のうち、残りの面々は、方舟内の大広間にて待機するよう言い渡してあった。皇魔と人間、それぞれ別の部屋に分けるべきではないかという意見もあったが、これから力を合わせていかなければならないというときにそのようなことをしている場合ではない、とシグルドが一蹴した。リュウディースのルニアと交流も深いシグルドからしてみれば、人間と皇魔が分かり合えないなどというのは馬鹿げた話でしかないのかもしれない。
三者同盟軍の主だった面々というのは、《蒼き風》団長シグルド=フォリアーに副長ジン=クレール、コフバンサールの魔王妃リュスカにリュウディース隊指揮官ルニア、レスベル隊指揮官ガ・イルガ・ギ、そしてログノール代表エインの六名だ。
皇魔と行動をともにしていることにはミリュウたちも面食らったようだが、事情を話せば、すぐさま納得してくれた。話によれば、リョハン付近には大陸共通語を話すウィレドがいたといい、そのウィレドたちとの交流から、皇魔との共生も夢物語ではない、とミリュウたちも考えるようになったとのことだった。
その話は、エインたち人間にも、リュスカたち皇魔にもただならぬ衝撃を与えている。
コフバンサールの皇魔たちも、彼らと交流を持つエンジュール、ログノールのひとびとも、皇魔と真にわかり合い、共存共生が可能だとは、夢にこそ想いつつも実現不可能だと半ば諦めていたからだ。人間と皇魔の細胞深くに刻まれた忌避、嫌悪、憎悪の情は、その存在を感知しただけで神経を逆撫でにされるほどのものになっている。互いにわかり合うためには、まずその細胞に刻まれた積年の恨みの顕現とでもいうべきものを消し去らなければならず、それはだれもが簡単にできることではない。少なくとも、シグルドのような強い意思の持ち主でなければ、拭い去ることなどできないのだ。
故に人間と皇魔が手を取り合っていく未来など、想像こそすれ、実現できるものではないとだれもが諦めていた。
そんな薄明るい絶望の中に光明を見たようなものだった。
とはいえ、やはりそれも本題ではなく、その場ではそのことについて深く言及することはできなかった。
話をネア・ガンディア問題に戻す。
ネア・ガンディアは、主君をレオンガンド・レイグナス=ガンディアであると公言した、という。
しかも、そのレオンガンド・レイグナス=ガンディアという仰々しい名の人物は、神々の支配者、神皇である、というのだ。
「神々の王とはまた大きく出たもんだな」
シグルドが呆れ果てて天を仰いだ。それならば、セツナたちが偽者と判定するのも無理はない、とでもいいたげな反応だ。だが、ミリュウは、そんなシグルドの反応を見て、むしろ彼に呆れ返ったようだ。
「実際、ネア・ガンディアは神々を使役しているもの。それくらいいってくるでしょうよ」
「は!?」
「おい、いま、なんつった?」
「ちゃんと聞いてなかったの? もう一度いうわよ。ネア・ガンディアは神々を使役しているのよ。だから何隻もの方舟を運用し、何千もの神人を戦場に投入できるのよ」
「神々を……使役……?」
「そんな馬鹿な……」
「本当のこと……なのですか?」
「あなたたちを脅かすような嘘をついてどうなるのよ。全部本当のことよ」
ミリュウが冷ややかな目をエインたちに向けてきた。
神々、と、彼女はさも当然のように口にする。守護神マリクの話のときからそうだったが、ミリュウにとって神という存在は、極めて近しい、日常的な存在のような言い方に聞こえた。だが、エインにとっては神ほど縁遠い存在はなく、故に彼女の話す言葉がまるで遠い国の言葉のように聞こえたのも事実だ。
エインは一度、神の力を目の当たりにしたことがある。
それは、戦後、セツナからの報告で神の御業だとわかったことなのだが、その力の凄まじさたるや言語を絶するほどのものだったことは、いまも脳裏に強く焼き付いている。さながら世界に終末をもたらす光の如く、それは戦場を薙ぎ払い、数多の命を一瞬にして奪い去っていった。クルセルク戦争終盤、リネン平原の戦いの最中の出来事だった。
当時の黒き矛のセツナなど、神と比べれば赤子同然としかいえないほどであり、その光景を目の当たりにしたときから今日に至るまで、エインは、神を敵に回すことなどあってはならないことだと肝に銘じていた。
だというのに、エインたちがこれから喧嘩を売ろうというネア・ガンディアには、神々がついているというのだ。
「そんな連中と戦うだなんて、無茶もいいところじゃないですか」
「そうよ。もうむちゃくちゃででたらめよ」
「ですが、立ち向かわなければ、もっとでたらめな未来が待っているかもしれませんよ」
頭を抱えるような素振りで天井を仰いだミリュウに変わって、レムが口を開く。
「ネア・ガンディアは、ザルワーン方面の都市マルウェールを攻撃しました。マルウェールのひとびとは、神人という名の化け物へ、ネア・ガンディアの命令に従うだけの怪物へと変わり果てたのでございます」
「なんだそりゃ」
「つまり、ネア・ガンディアにとって人間の命なんて塵みたいなものってことでしょ」
「そんな……そんなこと……」
エインは、衝撃の連続の中で、激流のように、あるいは洪水のように思考を巡らせていた。ミリュウたちから飛び込んでくる情報は、ほとんどすべてがエインたちがいままで知るよしもないことばかりだった。リョハンやザルワーンの現状、ネア・ガンディアについて、方舟、実在する神々、それにともなう白化症と結晶化という大問題、そして、神人。様々な情報が怒涛のように押し寄せて、エインのこれまでの常識を打ち砕いていく。いままで見えていた世界が色褪せ、まったく新しい景色が目の前に広がっていくかのようだ。
「セツナはそんな奴らがガンディアの名を騙るのが許せないから、戦うのよ」
ミリュウがこちらを見て、静かに告げてきたときだった。突如、エインは奇妙な感覚に囚われた。声が頭の中に響いたのだ。
《ミリュウよ、聞こえるな》
「なによ、マユリん。いま大事な話の途中なんだけど」
ミリュウが即座に反応したことで、エインは、自分の頭の中に響いた声が情報の洪水からくる幻聴でもなんでもないことを悟ったものの、意味がわからないことには対処のしようもなかった。混乱が生まれている。それは、エイン以外の皆も同じだ。シグルドたちも皇魔たちも、疑問を持たざるをえないのだ。
「なんだこの声……」
「頭の中に直接響いてる……?」
「わたくしどもの神、マユリ様の聲にございますので、ご安心くださいませ」
レムが口早に説明してくれたおかげで得心がいったものの、同時にさらなる衝撃がもたらされる。
「レムさんたちの神……様?」
ここまでくると、なにが起きているのか、まったく理解できなくなる。
《こちらも重要な話だ。ネア・ガンディアの方舟が浮上した》
「案外、遅かったわね」
《どうするのだ?》
「決まってんでしょ」
そういったやり取りの後、ミリュウが椅子を倒すほどの勢いで立ち上がると、拳を突き上げて宣言した。
「先制攻撃よ!」
ミリュウが告げると、隣のレムが拍手をしたが、エインたちはなにがなにやらわからないまま、茫然とするだけだった。
状況に置いて行かれているからだ。