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第二千百九十二話 絶望のログナー(三)


 月が、遠い。

 湯煙に満たされた夜空の彼方、星々の影さえも見えないほどの遥か先に月の輪郭が薄っすらと見えている。月光は青白く、ただ穏やかに、そして冷ややかにこの大地に投げ放たれている。いつものような確かさと、いつもどおりの不確かさで。

 体の芯まで燃えるような熱湯の中に体を横たえた彼は、温泉を囲う岩盤に頭を乗せ、夜空を仰ぎ見ていた。温泉を堪能するのは、これが初めてのことではない。しかし、極寒の大地での温泉よりも、この温暖な気候に恵まれたエンジュールの温泉のほうが遥かにいいものだと、想わざるをえなかった。北の大地は、温泉に入るのも命がけだ。

 その点、エンジュールはいい。湯に浸かるため、素っ裸になろうとも寒さに凍えて死ぬようなことはないのだ。もっとも、いまのこの体ならば、北の大地であろうとも、凍死するようなことはないだろうし、灼熱の地獄だろうと耐え抜くのはわかりきっている。

 故に温泉に浸かることの無意味さも理解しているのだ。

「まったく……いい湯だねえ」

 しかし、口をついて出た言葉は、実感とはまったく異なるものだった。

「この漂白された肌はどれだけ熱しても変色しないがね」

 ウェゼルニルは、熱湯の中から右腕を出して、夜空に翳してみせた。転生とともに気味悪いほどに白く変色してしまった肌は、相も変わらぬ不気味な神秘性を放っている。自分の体だ。見慣れたものなのだが、奇妙な感覚だけは拭いきれない。人間だったころの意識のほうが、獅徒として生まれ変わったあとの意識よりもずっと強いのだろう。人間への未練など、とうに切り捨てたはずなのだが。

「皮肉をいうのも程々にしたらどうかな」

 美しい声とともに涼やかな風が吹いたかと想うと、視界を遮っていた湯煙が消し飛び、温泉を囲う岩盤の上に人影が現れた。いや、最初からそこにいたのだろう。

「結局、惨めな気分になるのは自分だよ?」

 そういって彼を見下ろしてくるのは、ネア・ガンディアの二級神であり、この度、ログナー再侵攻におけるウェゼルニルの従属神として行動をともにしている神ハストスだ。見た目には、十代半ばから後半に至るくらいの少年に見える。しかし、わずかに燐光を発する肢体や、翠緑色の髪、金色に輝く虹彩など、人間離れしているところは多く、ひと目見て、彼が人外の化け物であることはわかるだろう。

 銀糸が複雑に絡み合った奇妙な装束を纏う少年神は、その様子から温泉に浸かりに来たわけではないことがはっきりとわかっている。ウェゼルニルのことを監視しているつもりなのだ。

「惨めなものかよ」

 ウェゼルニルは皮肉に口の端を歪めながら嘯いた。

「俺たちほど立派で素敵な役割は、この世のどこにもあるまいさ」

「そうやって自分に言い聞かせなければならないほど哀れでか弱い存在だと主張しているように見えるけどね」

「いってろよ」

「素直じゃないねえ……だれもかれも」

「だれもが素直に生きられるなら、それほど素晴らしい世界はないだろうが、そんな世界、あっという間に崩壊するだろうよ。だれだって、他人の顔色を窺わなきゃ、生きていけねえのさ」

「人間というのは不憫な生き物だ」

「だったら、お得意の神の御業で救ってくれればいいじゃあないか」

「人間は救えるとも」

 少年神は、大真面目な顔で、そう告げてきた。神は、本心からそう信じているのだろうし、実際、神の御業ならば救うことができるのかもしれない。神の力というのは、極めて万能に近い。二級神の力ですら、人知を遥かに凌駕する領域のものなのだ。

「だが、君ら獅徒は度し難いのだよ」

「いいやがる」

 ウェゼルニルは苦笑すると、その場に座り直した。夜風が上半身を撫でるが、寒さは感じない。温泉の熱気さえ、この肉体には大した影響を与えないのだ。夜の冷気など、微風程度にも感じるわけがなかった。だからこうして、上半身を夜風に晒すこともできるのだが。

「それで、君はいつまでこうしているつもりなのかな?」

「急かすなよ。ザルワーン方面なんて、足踏み状態だっていうじゃねえか。こちとら既に島の大半を手中に収めることに成功してるんだ。なにも急ぐこたあねえ」

 ミズトリスによるザルワーン方面への再侵攻がこうも長引くのは、ウェゼルニルにしても想定外のことだった。彼女ならば瞬く間にザルワーン方面を平らげ、ネア・ガンディアの御旗を打ち立てるものだと想っていたのだが。

 しかし、何事にも想定外のことは起こりうる。そして、そういった事態に臨機応変に対処することこそ、指揮官に求められる要素であり、ミズトリスはいままさにその事態に直面しているのだ。ミズトリスは、この度のザルワーン再侵攻で、指揮官として一枚も二枚も成長することだろう。

 それがどれほど意味のあることなのか、ウェゼルニルには理解できないことではあるが。

「そうやって余裕を見せていられるのもいまのうちかもしれないよ」

「あん……?」

「見たところ、ログノールの連中は、こちらに降伏する様子はなさそうだ。反撃の機会を伺っているんだろうね」

「それが、俺の狙いなのだとしたら?」

「うん?」

 ハストスが怪訝な顔をした。途端にその小憎らしい顔が愛嬌に満ちる。困ったことに、この憎たらしい少年神は、神々を嫌う獅徒たちにも、その表情の豊かさからある程度の人気があった。だから、邪険にできないというのも確かにあるだろう。

「君がなにをいっているのか、よくわからないな。ログノールとの戦いを望んでいる、と?」

「それ以外にどう聞こえたんだ?」

 ウェゼルニルは温泉の中で胡座をかくと、腕組みして、温泉を見下ろした。風に揺れる湯水の表面に月が輝き、星々が瞬いている。

「神皇陛下は、ログナー方面を再度、ガンディアの支配下に収めよと仰せになられた。それはつまりどういうことか。ログナー島から敵対勢力を根絶し、その上でネア・ガンディアの御旗を打ち立てよ、と、仰られておられるのだよ」

 ウェゼルニルは、にやり、とハストスを見やった。

「わかるかね、ハストス君」

「……なるほど」

 ハストスは、今度こそウェゼルニルを小馬鹿にしたような表情をした。途端に憎たらしい少年の顔になるのだから、ウェゼルニルの癪に障る。

「君は、考え込み過ぎて物事の本質を忘れる質なんだね」

「なんだと?」

「陛下は、そこまで考えていないと想うよ」

「はっ……どうだかね」

「そこまで考えられるほど、回復されてはおられないさ」

 ハストスが遠くを見やるようにいったのは、神とはいえ、神皇のことについてあまり深く言及することができないということもあるのだろうが。

 神々の王たる神皇への複雑な胸中も、あるようだった。

 ウェゼルニルは、なにもいわなかった。

 ハストスのいうとおりかもしれない。

 そう、想ったからだ。

 勅命が下ったのは、神皇が目覚めてすぐのことだった。

 神皇が深く物事を考えられるほど回復していないというのも道理であり、その可能性が高いという事実には、彼もうなずかざるをえない。

 そして、そんな状態の主君の命令に否応なく従うしかない自分たちを哀れに思うこともできない己の有り様を苦笑するしかなかった。

 獅徒とは、そういうものだ。


 ネア・ガンディアが投入してきた戦力は、ただのひとりだということであり、その人物についての詳細な情報は、魔王軍と《蒼き風》によって提供された。

 名を、ウェゼルニルという。

「ウェゼルニル? 聞いたこともない名だな」

「そりゃあそうでしょうよ。なんたって、ネア・ガンディアという組織自体、初めて聞く名前なんですから」

 シグルドが皮肉を交えて、いった。彼もまた、ネア・ガンディアをガンディアの系譜だとは考えていないということを主張しているのだろう。

「まあしかし、ウェゼルニルについては、総統閣下も、魔王陛下も御存知なんですがね」

「俺が知っている? いや、知らないが」

「マリエラ=フォーローンを仕留めた白甲冑、と聞けば?」

「……なんだと」

「まさか……」

 エインも思わず口を挟まずにはいられなかったほど、衝撃的な情報だった。

 白甲冑というのは、女神教団指導者マリエラ=フォーローンとの決戦の最中に現れ、三者同盟の窮地を結果的に救ってくれた人物たちの総称だ。その名の通り、純白の甲冑を身につけたものたちであり、シグルドたちを圧倒したマリエラ=フォーローンを撃破したのは、その白甲冑の男だった。また、別地点で三者同盟軍と戦っていた女神教団の軍勢を駆逐したのも、別の白甲冑二名であり、三者同盟が女神教団を打倒することができたのは、白甲冑たちのおかげといっても過言ではなかった。

 マリエラ戦に介入した白甲冑がセツナの名を口にしていたことから、なんらかの思惑があり、マリエラを野放しにしていたということまで想像がついていたものの、まさかネア・ガンディアに所属する人物だったとは予想のしようもなかった。

「そのまさかだよ。白甲冑は、ウェゼルニルと名乗ったのだ。ネア・ガンディアの、おそらくは指揮官級だろう。まさか、一兵卒があれ程の力を持っているわけがあるまい」

 魔王ユベルのその発言は、願望にも似ていた。

 三者同盟の最大戦力を結集しても、女神を名乗るマリエラ=フォーローンの足元にも及ばなかったというのに、そのマリエラ=フォーローンを一蹴した白甲冑がネア・ガンディアの一兵卒だというのであれば、絶望しかない。

 エインは、祈るような気持ちで、魔王の言に同意した。

 そして、そこから彼の苦悩が加速する。



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