第二千百九十一話 絶望のログナー(二)
「ちょうどいいところに来てくれたものだ。常々疑問だったのだが、いつまでこのような窮屈な場所に閉じ込めておくつもりなのかな、総統閣下」
獅子殿に足を踏み入れるなり聞こえてきたのは、エインにとっても聞き覚えのある、特徴的な男の声だった。どことなく人間を見下した響きがあるのは、実際、人類を下に見ているということを隠そうとしていないからだろう。皇魔の王たる魔王ユベルには、人類など愚かで相容れぬ種族にしか見えないのだ。もっとも、人間である魔王にとっては、自分自身をも卑下していることにほかならず、彼の声音には多分に自嘲も含まれている。
ドルカとニナが顔を見合わせ、ドルカだけが苦笑した。そして肩を竦め、奥へと歩を進める。エインは彼についていくしかない。やがて獅子殿内の広間に辿り着くと、さすがのエインも一瞬、ぎょっとせざるをなかった。広間に配置された安楽椅子や長椅子に腰掛けている面々を見れば、だれだって度肝を抜かれるだろう。表情に出さなかっただけ、ましというものだ。
広間には、魔王ユベルだけでなく、魔王とともにコフバンサールに住んでいた皇魔たちが我が物顔でくつろいでいたのだ。魔王の妃リュスカ、その娘リュカも当然のようにいたし、リュウディースやレスベルたちも平然とそこにいる。それは、皇魔を忌み嫌う人間にとっては地獄のような光景以外のなにものでもあるまい。たとえ皇魔にある程度の理解を示しているエインでさえ、このような空間には長居したくないと思ってしまうほどだった。
先程の声を聞き、声の主がだれであるか把握したとき、エインはドルカがなにをもって秘策と呼んだのかも理解した。コフバンサールの魔王率いる皇魔たちを密かに迎え入れていたということだろう。それも、議会の了解も得なければ、軍への確認も取らず、独断でだ。そんなことが明るみになれば、ドルカを総統の座から引きずり降ろそうという運動が起こり、すぐさま活発化するに違いなかった。なぜならば、皇魔を都市内に引き入れるというのは、極めて繊細な、そして重大な問題であり、たとえ相手がコフバンサールの指導者であっても、議会の承認を得なければ、ログノールの都市内に引き入れることは許されないからだ。事と次第によってはドルカの責任問題へと発展しかねないどころか、政敵に付け入る隙を与えるようなものだった。
とはいえ、コフバンサールから落ち延びたのだろう魔王たちをマイラムに匿うには、強引な手段を取らざるをえないのもまた、事実だ。一々議会にかけあっていれば、一ヶ月経っても許可は降りなかっただろう。ログノールの議員たちは、政治家としては優秀だが、同時に戦場を知らないただの人間でしかない。皇魔を忌み嫌うだけでなく、明確に拒否反応を示すものも少なくはなかった。そういったものたちを説得するには、かなりの時間が必要であり、だからといって説得が完了するまでユベルたちを町の外で待機させておくことなどできるはずもない。魔王は、ログノールの同盟勢力の指導者なのだ。ここで丁重に扱わなければ、同盟を打ち切られ、ますますログノールが生き延びる可能性を失うことになる。
「顔も見ずにその物言い。元気そうで安心しましたよ、魔王陛下」
ドルカ、は恭しくも対等な関係であることを主張するように強気な態度でユベルに臨んだ。すると、ユベルは、その秀麗な顔をどこか嬉しそうに歪めてみせる。ドルカとユベルの間には、奇妙な友情と呼べるようなものが存在するらしい。
「そちらも、健勝そうだ」
「まあ、健康なのは事実ですが、だからといって喜んでいられるような状態でもありませんぞ」
「確かにな。まったく、困っことになった」
長椅子に腰掛けた魔王は、苦々しい表情で腕組みした。隣に座った姫君が、眉間に皺を寄せた父を見て、面白おかしそうに笑いかけ、王妃に叱られる。そんな様子は、コフバンサールでよく見られる光景であり、日常風景だった。エインは、何度となくコフバンサールに足を運び、三者同盟の紐帯を深めるべく、尽力してきたのだ。それでも、皇魔ばかりの空間には息が詰まりそうになるのだから、一般人とほぼ変わりのない議員たちが皇魔受け入れに拒否反応を示すのは当然のことだろう。
「総統、これはいったい……?」
「見ての通り、コフバンサールから落ち延びられた魔王陛下とその御一行だよ」
「それは……見ればわかりますが」
エインは、ドルカの大雑把にもほどがある説明に憮然とした。一目瞭然のことをわざわざ説明する必要はない。聞きたいのは、そういうことではなかった。ユベルたちを匿うため、獅子殿に引き入れたのはいい。気になるのはなぜ、自分やアスタルにまで秘密にしているのか、ということだ。
「いっただろう、秘策だって」
「なんの話だね?」
「ネア・ガンディアに一泡吹かせようという話ですよ」
「ほう、あの怪物相手にかね」
ユベルが、ドルカを見て、冷ややかに笑った。馬鹿にしているというのではない。ただ、冷淡な事実を告げているだけ、といった風情だった。
「我々が力を合わせれば勝てるとでもいうつもりか? それは相手を見くびり過ぎというものだよ」
魔王の言に、魔王の娘が体を震わせた。なにか恐ろしい記憶でも思い出したのかもしれない。コフバンサールは、紅蓮の炎で焼き払われたという。魔王の娘は、年端もいかない幼女だ。そのときの光景が脳裏に焼きついていたとしてもなんら不思議ではないし、不意に思い出して震え上がるのも無理のないことだ。王妃が娘を抱きかかえると、その頭を優しく撫でる。
「我がコフバンサールが焼き尽くされるまでに要した時間はいくらだと想うね。ただの一時間も持たず、我が軍は半壊し、数多の家臣が命を落とした。人間とは比べ物にならない力を持った皇魔たちがだ。それ以上に圧倒的な力を持った怪物に、為す術もなく、塵のように吹き飛ばされたのだ。どのような策を弄したところで、どうにかなるものではないよ」
「そこをどうにかしなければ、このログナー島はネア・ガンディアの手に落ちますよ」
「そうだな。それもまた、絶望的だ。だが、どうする。また絶望的な戦いをしようというのかね。再び奇跡が起こるのを期待するのかね」
「まさか」
ドルカは、ユベルの皮肉を軽く受け流した。
「ただ、このままなにもせず、ただネア・ガンディアに降伏したところで、この島に未来はないと、俺の直感が告げているんでね。抗うことにしたんですよ」
「直感……か」
「なんだか面白そうな話じゃあねえか。俺たちも混ぜてくれよ」
突然の乱入者の声もまた、聞き知った人物のものであり、エインは面食らうほかなかった。見れば、エンジュールの戦闘部隊《蒼き風》の団長シグルド=フォリアーが、別室から姿を見せたところだった。彼に続き、幹部たちがぞろぞろと姿を見せる。
「シグルドさん!? なんで……?」
「そりゃあ守護様がな、俺たちを逃してくれたからさ」
「なんでまた……」
「思うに……守護様も、ネア・ガンディアが気に入らねえんじゃねえかな」
シグルドが、遠くを見るような目で、いった。
彼がいう守護様とは、無論、エンジュールの守護ことエレニア=ディフォンのことだ。エレニアは生粋のログナー人であり、最愛のひとを奪ったガンディアを恨みこそすれ、感謝する立場にはなかった。もちろん、彼女が我が子とともにいまを生きていられるのは、ガンディア政府のおかげではあるのだが、生きるか死ぬかの瀬戸際に立ったのも、元はといえばガンディアがログナー侵攻を企てたからにほかならない。戦争だから仕方がないと割り切れないのが、人情というものだ。
とはいえ、エレニアは、ガンディアについてはもう割り切っているはずだったし、そのことが理由でネア・ガンディアを気に入らないということではないのだろうが。
「そんな気がするだけだがよ。ま、でも、俺たちをエンジュールから逃がしたのは、ネア・ガンディアを痛い目に遭わせて欲しいってことだろうから、あながち間違ってはいないと想うんだがな」
「……と、いうことらしい」
ドルカが、にやりと笑いかけてきたのは、《蒼き風》のシグルドが戦力として重要極まりないからだろう。欠けたグレイブストーンの使い手である彼は、常人揃いのログノール軍と《蒼き風》を含めた中では、最強の人間といっても過言ではなかった。魔王軍の皇魔も一目置くほどの実力者であり、そのことは、魔王も認めるところのようだ。
「ログノールに、我がコフバンサール、それに《蒼き風》か。それでどうにかできる相手ならば、我がコフバンサールだけでもどうにでもなっただろうな」
魔王は、皮肉を欠かさなかった。が、
「だが……まあ、一泡吹かせるくらいならば、なんとかなるやもしれぬな」
彼はそういって、静かに瞑目した。
魔王の沈黙は、場に深い静寂をもたらし、しばらくの間、気まずい空気が流れたのはいうまでもない。