第二千百九十話 絶望のログナー
ログナー島に空飛ぶ船が現れたのは、四月下旬のことだ。
まるで天使が翼を広げ、降臨するかの如く舞い降りたそれが、まさか絶望的な現実を見せつけるなどとは、神ならぬログノールのひとびとは想像することもできなかった。
エンジュールが降伏し、バッハリアが落ち、コフバンサールが焼き捨てられ、スマアダ、ミョルンと立て続けに制圧されたことで、ログナー島の勢力図は、瞬く間に塗り替えられたのだ。そしてそれは、三者同盟そのものが崩壊したのと同義であり、ログノールが絶体絶命の窮地に陥ったということでもあった。
三者同盟の一角をなすエンジュールは、空飛ぶ船とともに到来したネア・ガンディア軍に降伏し、また、三者同盟最有力のコフバンサールは壊滅。残るログノールも領土の大半を奪われ、議会はネア・ガンディアに降伏するべきだという論調が優勢だった。当然だろう。敵うはずもない相手に立ち向かうなど、愚の骨頂だ。そのことは、ヴァシュタリア軍との戦い、女神教団の戦いを経たログノールには、実感として理解できている。
そしてそれらの経験が、ネア・ガンディアには立ち向かうべきではないと警告を発するのだ。
侵略を良しとせず、領土を護るため立ち向かえば、立ちどころに滅ぼされ、領土も命も奪い尽くされるだけだ。
それは、エインも同意せざるを得ないことだった。
そのような状況下で、彼は、ログノール総統ドルカ=フォームの執務室に呼ばれた。
連日連夜開かれている緊急対策会議の休憩時間のことで、エインはアスタルと遅い昼食を取ろうとしていたところだった。どんな状況であれ、総統からのお願いとあれば聞き入れるしかない。その際のアスタルの不服そうな反応には、エインはめずらしいものを見たという感覚とともに、らしからぬいじらしさを覚えずにはいられなかった。あとで目一杯機嫌取りをするべきだろう。
「なにか策はあるかね」
ドルカは、エインが執務室に入るなり、開口一番、そういってきた。
執務室には、ドルカと秘書官のニナ=セントールのふたりしかおらず、そのことを確認したことで、エインは安堵した。ふたりならば、余計な心配をする必要なく、本音をいえる。
「ありませんね」
エインの即答にドルカは虚を突かれたような顔をした。彼は、会議場で見せた厳しい面構えとはまったく異なる、普段の、なにひとつ飾ることのない素顔を見せているのだが、そのために非常に残念な顔になってしまっていた。
彼がエインになにかしら打開策があるのではないかと期待したことは、わかっている。しかしながら、いくら名軍師であっても、この状況を打開する方法は見つけられないだろう。
「現在、把握している限りでは、ネア・ガンディアなる軍勢の戦力はただのひとりです。たったひとりの戦士にエンジュールのシグルドさんたちも、コフバンサールの魔王軍も呆気なく敗北しているわけでして、ログノールの現有戦力ではいかんともし難いというのが実情です」
「……だよなあ」
ドルカは、背凭れに体をあずけると、天井を仰いだ。
「会議では、ああはいったものの、俺個人としても勝てる見込みがないのはわかってるんだよ。でもさ、いくら相手が強いからって、新生ガンディアなんて名乗る、わけのわからない連中に降伏するのはおかしいと思うんだがな」
「同感ですね」
エインは、ドルカの気持ちが痛いほどわかって、即答した。
ガンディアは、エインにとってもドルカにとっても、青春そのものだった。ログナーにおいて冷や飯ぐらいといっても過言ではない境遇にあったドルカが日の目を見たのは、ガンディアが実力主義で実績こそが立身出世の最大の力という国だったからだ。ログナーがあのまま大きくなったところで、ドルカがあれ以上の立場になれたかどうか怪しいものだが、ガンディアが滅びることなく領土を広げていけば、左右将軍はおろか、大将軍にさえなれた可能性だってあるのだ。
ドルカは、ログナー人ではあるが、ログナーへの思い入れはエイン以上になく、一方でガンディアへの思い入れは、エイン以上にあるのだろう。
エインもまた、ガンディアでこそ日の目を見たのだが、そこにはアスタルの手引きがあったればこそであり、その点ではドルカとは大きく事情が異なる。アスタルは、ログナー時代も職務に真摯な将軍だったが、エインを贔屓していなかったといえば嘘になるだろう。エインがアスタルの親衛隊にいたのも、アスタルに気に入られていたからにほかならない。とはいえ、エインがガンディアで軍師という立場になったのは、アスタルの後押しがあったからだけではないし、実力で勝ち取ったものであり、そこに青春の輝きがあったことは紛れもない事実だ。
もう二度と取り戻すことのできない、素晴らしい日々。
ネア・ガンディアの存在は、そういった日々の記憶を穢すもののようにエインたちには捉えられていた。
「勝てない相手とは戦うべきではありませんが、かといって、戦わずして降伏しては足元を見られるだけ。ましてや相手がガンディアとの繋がりを示すような名称の組織です。それがなにを意味するのかがわからない以上、迂闊なことはできませんね」
「そうはいっても、奴らはつぎにこのマイラムを狙うに決まっているだろ?」
「でしょうね。そして、マイラムを落とせば、マルスールに向かい、ログナー島の制圧は完了するというわけです」
「……エイン君の目には、ネア・ガンディアの思惑通りに行くと見えているわけだ」
「戦力差を考えれば、致し方のないことです」
「冷静だねえ」
ドルカが右目を細めて、どこか羨ましそうにいってきたのは、他人事のようにいっていると想われたからかもしれない。もちろん、エインにとっては他人事ではないし、自分の命にも、最愛の妻の命にも関わることなのだが、しかし、現状認識を偽ることなどできるはずもない。勝てるはずのない相手を勝てる相手と言い張るのは、ただの欺瞞であり、裏切り行為にほかならないのだ。
「そんな冷静なエイン君には、ログノールが勝つための秘策を提供しよう」
「勝つための秘策?」
「ん……いや、勝つための秘策ってのは、言い過ぎたかな。ともかく、ついてきてくれたまえ」
「はあ……?」
ドルカがバツの悪そうな顔をしながら立ち上がり、ニナに目配せするのを見て、エインはきょとんとした。ドルカが秘策などといい出すのも不思議なことだが、なにやらニナも知っていることであり、場所を移動する必要のあることだというのも、奇妙に想えたのだ。
執務室を出て、勝手知ったる城内をドルカとニナに続いて移動する。
ログノール政府は、マイラムの城をそのまま官邸として再利用しているのだ。ログナー王家統治時代と印象こそがらりと変わっているのは、ガンディア統治時代に多少変化した内装が、ログノール政府の誕生後、さらに大きく変更が加えられたからだ。ガンディアは、ログナー人への心証に配慮し、変化を最小限に止めようと努力したが、ログナー人主体のログノール政府には、そういった気遣いや配慮など必要はなかった。以前の統治者の印象を限りなく皆無にできるよう、内装を尽く変更しようという意欲の高さは、偏執的ですらあった。
ログナー人にとってのログナー時代は、末期であるザルワーン隷属時代の印象が極めて強く、鮮烈であり、ガンディア時代以上に消し去りたい過去だという想いが強い。だれに聞いても、そうだろう。ザルワーンの奴隷といっても過言ではなかったのだ。なにをなすにしても、ザルワーンにお窺いを立てなければならず、国内の些細な人事さえも、ザルワーン政府の意思が介入した。
ログナー人が、ログナーそのものやザルワーンに悪印象を抱き続ける一方、そういった呪縛から解放し、色鮮やかな世界を与えてくれたガンディアに感謝と敬意を持つのは、ある種当然のことだったのだ。
そのため、ログノール政府官邸には、ガンディア時代の名残りがいくつか見受けられる。
そのひとつが獅子殿と呼ばれる殿舎であり、城外の離れにあるその殿舎前には、ガンディア統治時代に設置された獅子の石像がいまも飾られていた。
まさにその獅子の石像と睨み合うようにして、獅子殿前に至ったエインは、ドルカたちの考えがわからず、疑問符を抱き続けていた。
獅子殿の出入り口には、武装した総統近衛が二名、立っていて、彼らは総統の姿を確認するなり最敬礼でもって迎えた。
「いつもご苦労」
ドルカはそれだけをいうと、みずからの手で獅子殿の扉を開いた。