第二千百八十九話 ログナー急変
ログノールは、苦境に立たされていた。
いや、苦境に立たされたのはログノールだけではない。ログノールとともに三者同盟を成すエンジュール、コフバンサールもまた、絶体絶命の窮地に陥っていた。
女神教団の打倒によるマルスールの解放から数ヶ月あまり、ログナー島の情勢というのは極めて安定的な状態で推移していた。女神教団の残党の大半は、三者同盟に恭順することでログノールの支配下に組み込まれたし、わずかばかりの恭順反対派も武力によって制圧された。
ログノールはマルスールを取り込むことで国土を拡大しつつも、三者同盟の協調は堅持することで、ログナー島の秩序維持に全力を注ぐこととしたのだ。ログノールの議員の中には、ログナー島全土をログノールの領土にするべきだというものもいないではなかったが、ドルカ=フォーム大総統を始めとする主流派は、そういった過激な発言を黙殺することで自分たちの考えを態度に現していた。
要するにログナー島の秩序を維持する上で魔王軍の存在は必要不可欠であり、エンジュールとのよりよい関係の構築もまた、ログノールの今後にとって重要なものであると考えていたのだ。
そもそも、ログノールの戦力では、魔王軍に勝利することは難しく、ログナー島全土を支配下におくべきというのは、ログノールの実力を見誤ったものの無責任な発言としかいえない。
女神教団との闘争においてもっとも活躍したのは、魔王軍であり、ついでエンジュールの兵たちだ。ログノールは兵数こそ多いものの、戦力としては三者同盟最下位といっても過言ではなかった。
そんなログノールがログナー島全土の支配者に相応しいなどとよくいえたものだ、と、ドルカは吐き捨てるようにいって、周囲の側近たちを狼狽えさせたが、エイン=ラナディースはそれでこそドルカだと見直したものだ。
そこからドルカは、ログノールの主導によらないログナー島の秩序の構築のため、三者同盟の指導者による会議、通称三盟会議の開催を提案、エインらはその実現のために奔走した。なぜ奔走しなければならなかったかといえば、単純な話だ。会議に乗り気ではないものがいるからにほかならない。
コフバンサールと一日も早く手を切りたいログノールの議員や、人間との結びつきを深くすることを拒むコフバンサールの皇魔がそれだ。指導者同士は互いに敬意を表し合うほどの間柄であっても、それぞれの国の事情が、会議の実現を阻もうとするのだ。人間と皇魔、二度に渡る共同戦線が結んだ絆は、しかし、決して両者の溝を埋めるほどのものにはなりえなかった。
とはいえ、エインたちが奔走したことと指導者たちの熱意が実を結び、三盟会議は実現される運びとなったのは、僥倖というほかあるまい。
かくして、三者同盟の結びつきを深め、ログナー島の秩序の構築と維持に協力していくことを念頭においた話し合いは、定期的に行われることとなり、ログノール、エンジュール、コフバンサールの三者は、この変わり果てた世界に希望を見出しつつあった。
だが、そんな希望を打ち砕く事態が突如として勃発する。
なんの前触れもなくログナー島に到来した空飛ぶ船がエンジュールに降り立ったかと思うと、瞬く間にエンジュールを制圧、ログナー島全域にこう言い放った。
『我々はネア・ガンディア。主命に従い、これよりこのログナー方面全域の制圧を開始する』
エンジュールの制圧後、ログナー島全域に響き渡ったのは、宣戦布告にほかならなかった。そして、その布告に含まれるネア・ガンディアという聞き知った、しかし聞きなれぬ勢力の名は、ログノールのひとびとを騒然とさせるに至る。
ネア・ガンディア。
新生ガンディアという意味の古代語だろうということはすぐにわかったものの、それは、より大きな衝撃と波紋をログノールに広げるだけだった。
ネア・ガンディアは、まず間違いなく、ガンディアの再興を目指す勢力か、もしくは既に再興を果たしたガンディアだろいうということは、だれの目にも明らかだ。そしてその事実は、ガンディア政府との連絡が取れないからという理由で誕生したログノール政府にとっては、青天の霹靂そのものといってもいい出来事だった。
しかも、その新生したガンディアが、このログナー島を制圧するべく、尋常ならざる勢力を寄越してきたのだ。
ログノール政府も、衝撃のあまり混乱している場合ではなく、すぐさま緊急対策会議が開かれ、ネア・ガンディアの宣戦布告にどのように立ち向かうべきか、また、交渉の余地はないのか、など、徹底的に話し合われた。一瞬にして制圧されたエンジュールの状況がわかってきたのも、その会議の真っ只中であり、その衝撃的な報告は、ログノール政府高官一同を悲嘆させるものだった。
ネア・ガンディア側は、たったひとりでエンジュールに攻め込み、エンジュールの戦力を尽く無力化したといい、エンジュール守護エレニア=ディフォンが降伏を決断するに至ったという。
エンジュールの戦力というのは、決して低いわけではない。兵数においてはログノールに遥かに劣るものの、兵の質、士気の高さにおいてはログノールを遥かに上回る上、欠けた剣の戦士シグルド=フォリアーと守護精霊ゼフィロスの存在によって、その戦力はログノールを上回るといっても過言ではなかった。
だが、その戦力でもってしても、ネア・ガンディアの戦士ひとりを打倒するどころか、撃退することもかなわなかった。
さらに、衝撃的な報せが続々と届き、ログノールの会議は阿鼻叫喚となった。
エンジュールに続き、ログノールのバッハリアが落ち、コフバンサールが壊滅したとの報告が届いたときには、だれもが天を仰ぐほどの衝撃を受けた。バッハリアはともかくとして、コフバンサールは、三者同盟最大の戦力を誇っていたのだ。女神教団との戦いにおいてもっとも貢献したのが魔王率いるコフバンサールの皇魔たちであり、その皇魔たちが手も足も出ず、森を捨てざるを得なかったというのだから、ネア・ガンディアの戦力がいかに凄まじいかがわかろうというものだ。
実戦のなんたるかを知らない政府高官たちですら絶望するほどの状況は、さらに続く。
ネア・ガンディアは、エンジュール、バッハリア、コフバンサール制圧の勢いに乗り、ログナー島東部へとその魔手を伸ばしていく。ミョルン、スマアダを次々と支配下に収めていったのだ。廃墟同然と化し、つい最近入植を始めたばかりのスマアダは、ろくに抵抗することもできなかっただろうことは想像に難くない。
ログナー島東部がほぼ完全にネア・ガンディアの支配地域となり、ログノールの都市は首都マイラムとマルスールのみとなった。しかも戦力も激減し、これでは抵抗することもできなくなる。
「降伏しましょう。エンジュールも降伏すれば受け入れられたというではありませんか。なにも勝てない相手に抵抗することはありませんよ」
「その通りだ。なによりネア・ガンディアと名乗っているのだ。我々は元々ガンディア国民だったのだからして、悪い扱いはされますまい」
「まったくもって、仰る通り。分の悪い賭けに出ることにいったいなんの意味があるのでしょうか。女神教団との戦いを思い出してもください。我々がこうして平和を謳歌していられたのは、三者同盟の実力でもなんでもなく、突如介入した第三勢力のおかげだったではありませんか。もし、その第三勢力の介入がなければ、女神教団によって支配されていたのは疑う余地もない。また、あの過ちを繰り返されるほどの愚かしさを、大総統は持ち合わせてはおられませんよ」
ネア・ガンディアの勢いが増すに連れ、ネア・ガンディアに降伏するべきだという意見が議員の間から噴出したのは、当然といえば当然の流れであり、政治に疎いエインにさえ想像できた光景だった。
会議の場で、議員たちに問い詰められた総統ドルカ=フォームは、結論を急ぐ議員たちをぎろりと睨み据えた。そして、眼帯を外すと、瞼を開き、空洞となった眼窩を見せつけるようにして、場内の喧騒を一瞬にして静まらせた。
「諸君はネア・ガンディアに降伏しろ、という。それはどのような算段があっての御意見なのか、と、わたしは思う。ネア・ガンディアに降伏すれば、ログノールの平穏は保たれるのか? 秩序は? 市民の安全は? ネア・ガンディアはいまのところ、エンジュールなどの支配地において乱暴狼藉を働いたという話はない。が、それがログナー島全域の制圧後も維持されるという保証はないのだ」
ドルカの左眼は、最終戦争の最中、ヴァシュタリア兵によって奪われたものであり、眼球そのものを抉り取られたという。戦場のせの字も知らない政府高官や議員たちも、その凄惨な傷痕を見れば黙り込まざるをえないのだ。それは、彼がログナー方面を護るため、勇猛果敢に戦い抜いた証でもあったからだ。
「そもそも、ネア・ガンディアとは何者なのか、まるでわかっていない。これでは交渉の席にも立てないのは当然のことだ。話し合いを始めるには、まず相手を知ることだ。交渉するべき相手なのか、それとも、交渉もできない相手なのか。じっくりと見極める必要がある」
そういって眼帯をつけ直した総統の横顔には、飄々とした平時からは考えられないほどの厳粛さがあった。それでこそ、ログノールの代表に相応しい人物といえるだろうが、そのいつにない厳しさは、彼がこの状況を決して楽観視していないことの現れでもあった。
それはつまるところ、どうあがいても絶望的だということだ。