第二千百八十八話 神軍事情
仮政府軍と帝国軍が共同戦線を張り、マルウェールを制圧したという報せがクルセール作戦本部に入ったのは、五月三日、正午のことだった。
戦闘が行われたのは、五月二日――つまり昨日であり、その日、マルウェール近郊に展開した仮政府軍と帝国軍は、飛翔船の砲撃によって半ば壊滅状態に陥ったマルウェールの神兵を攻撃、戦端が開かれたのだ。神兵も反撃を試みるも、黒き矛のセツナを始めとする強力な個体の存在によって、神兵たちはつぎつぎと討ち取られていき、ついには全滅したという。
仮政府軍、帝国軍は両軍合わせておよそ一万五千の軍勢であるといい、数の上においてはマルウェールの神兵を遥かに下回っていたのだが、飛翔船の砲撃という、先頃ネア・ガンディア側がマルウェールに行ったのと同じ手法によって神兵の数を激減させ、数的優位を確保した。そして、黒き矛のセツナを筆頭とする武装召喚師たちの果敢な攻勢により、神兵は全滅、マルウェールは敵軍の手に渡った。
両軍は、ネア・ガンディアに降伏するのを良しとせず、徹底抗戦の構えを見せたということだ。
「面白いことになったものですね」
モナナがミズトリスの神経を逆撫でにするように笑ったのは、女神にとって本当に面白おかしかったからに違いない。ミズトリスとモナナは波長が合わない。故にモナナにとって、ミズトリスが苦境に陥ることほど面白いことはないのだ。
もっとも、この程度のことで苦境に陥った、などとはいうまい。
「なにが面白いものか。なにゆえ抗おうというのだ」
ミズトリスには、仮政府軍、帝国軍双方の指導者がなにを考えているのか、皆目見当もつかなかった。折角、考えに考えた末、もっとも犠牲の出ない方法を選んでやったというのに、というのも、彼女の中にはある。マルウェールへの攻撃は、必要な犠牲だ。マルウェールを一撃で滅ぼすことのできる力を目の当たりにすれば、抗おうとする意志さえ生まれまいという判断の元行われたのだ。普通ならば、それで決着がついたはずだ。どれだけ抗おうと、戦力を募ろうとも、敵うはずもない相手だと認識し、諦めたはずだ。
それに、仮政府なるものたちは、ガンディアへの帰属を望んでいる。ネア・ガンディアに降伏するということは、ガンディア本国に復帰するということにほかならないのだ。それなのに、仮政府軍は、帝国軍と手を結び、徹底抗戦の構えを見せた。
まったく理解できない行動にミズトリスは苛立ちを隠せなかった。
「人間というのは、ときに自分の死をも恐れぬものといいます。彼らも、自分の死を賭してでも為すべきことがあるというのでしょう。だから、我々に敵対する道を選んだ」
「その結果、ザルワーン全土を根絶やしにされては、なんの意味もないだろうに」
「無意味、無駄、無明……まさにその通り。ですから、面白い」
「あなたの価値観はまるで理解できんな」
ミズトリスが嘆息すると、モナナは柔らかに笑いかけてきた。
「うふふ。まあ、そうでしょうが。それで、ミズトリス。どうするつもりなのです?」
「降伏しないというのであれば、実力で捻じ伏せるしかあるまい。陛下は、ザルワーンを制圧されよと申されたのだ。ならばその勅命に従うのが、我ら獅徒の、そしてこの軍勢の務め」
「では、準備が整い次第、船に参られませ」
「船のほうは任せた」
モナナは静かにうなずくと、すっと虚空に溶けて消えた。女神たるモナナには、空間転移など児戯に等しいものであり、作戦本部から発着場に停泊中の飛翔船まで移動するのも一瞬で済んだ。さすがは神の御業だといまさら感嘆するほどのことでもない。いつもの、ありふれた光景だ。
ミズトリスそれから聖将ワルカ=エスタシアに全軍に出撃準備を言い渡すと、その足取りで飛翔船発着場に向かった。
聖軍と神兵合わせて六千がザルワーン再侵攻部隊の現在の総兵力だ。白毛九尾によって戦力の大半を失ったのは極めて痛いが、それでもクルセルク方面の制圧にはなんの問題もなかったのだから、聖軍と神兵は戦力として有用と認めていいだろう。また、本来ならば必要のなかった帝国軍との戦いは、神兵を一千体ほど補充できただけでも儲けものだった。そこに、マルウェールの数万の神兵が加われば、さらなる戦力増強を期待できたのだが、マルウェールの神兵は全滅させられたため、総勢六千で一万以上の仮政府軍・帝国軍と戦わなければならないということになる。
とはいえ、兵力差が戦力差に直結しないことは、明らかであり、ネア・ガンディア軍の優勢は揺るがないだろう。
なぜならば、仮政府軍にせよ、帝国軍にせよ、基本的にはなんの特異な能力も持たない常人が兵力のほとんどであり、神兵ともある程度戦えるだろう武装召喚師の数など、数えるほどしかいない。その点、ネア・ガンディア軍は、圧倒的な戦闘力と生命力を誇る神兵と、神の加護を受けた聖軍によって成り立っており、その戦力差は、比べ物にならないほどのものだ。
唯一、脅威となりうるのは、一級神イルトリをも圧倒した黒き矛のセツナの存在であり、また、二級神モナナでさえ近寄ることを躊躇った白毛九尾の存在だ。白毛九尾は突如として消え去ったが、いまもどこかにその身を潜めている可能性は高く、戦いの最中、突如として出現することだってありうるのだ。その場合、白毛九尾がどちらに味方するかは考えるまでもない。
仮政府軍、帝国軍の一般兵など、赤子の手をひねるよりも容易く蹴散らせるものの、黒き矛のセツナと白毛九尾の横槍にだけは細心の注意を払わなければならないのだ。
特にセツナは、ヴィシュタルの盾を破壊するほどの力を見せている。
あのときの光景は、ミズトリスの網膜にいまも焼き付いていた。
猛り狂う黒き悪魔が如きその姿、威容は、獅徒たる彼女に胸騒ぎを覚えさせた。獅徒への転生によって、身も心も変わり果てたはずであり、あらゆるしがらみから解き放たれたはずだというのに。
ミズトリスは、ワルカら聖軍幹部とともに飛翔船に乗り込むなり、ひとり機関室に向かった。機関室に入ると、巨大な水晶球そのものといっても過言ではない神威同調機関の上に、モナナ神が寝そべっていた。モナナ神は、ミズトリスの姿を目視すると、驚くこともなければ、さして慌てる様子もなく、ゆっくりと口を開いた。
「もう、準備が整ったのですか?」
「いや、もう少しかかる。何分、急なことなのでな」
「では、なにか別の用事でも?」
「ログナーの状況を知っておこうと思ったのだ」
「……ああ、なるほど。ウェゼルニルがあなたのようにしくじっているかどうか、確認を取りたいと、そういうことなのですね」
「なぜそう捉える」
ミズトリスは、モナナ神の嫌味たっぷりな受け取り方に憮然とするほかなかった。ウェゼルニルよりも早く成果を上げたい、結果を出したいという気持ちがないとはいわないし、競争心があることも否定はしないが、だからといって、彼の失態を期待しようなどという想いは一切ない。そもそも、そんなことのためにモナナの協力を仰ぐなど、憤死ものの屈辱だろう。恥部を晒すようなものだ。
「わたしはただ、状況次第では、ウェゼルニルに応援を仰ぐことも視野に入れたまでのこと」
「ほう……ミズトリスにしては殊勝な心がけですね。恥も外聞も捨てるということですか」
「援軍を要請することを恥だとは想わん」
ミズトリスが告げると、モナナは、目を細めて感じ入ったような顔をした。
「敗北し、主命を果たせなかった場合のほうが余程恥ずべきことだ」
「確かにその通りです。主命の、勅命の結実こそが最も重要であり、なによりも優先するべきこと。さすがは獅徒、といっておくべきでしょうか」
「そんなことはどうでもいい。ログナーの状況は、わかるのか?」
「ハストスが飛翔船に乗っていれば、応じてくれるでしょう」
そういうとモナナは、神威同調機関に触れた手から力を流し込んだようだ。飛翔船は、神の力、すなわち神威によって稼働する。飛翔船内のあらゆる機構が神威を動力源としており、船間通信と呼ばれる超長距離通信機能も神威あってこそその力を発揮するのだ。
なにもかも神の御業のおかげであり、その点においては、神々の協力に感謝するしかないのがミズトリスには苦しいところだった。獅徒には真似のできないことなのだ。獅徒がどれだけの力を持ち、神々にさえ匹敵するほどの膂力を誇ったところで、それではこの神の船を動かすことはできない。それが彼女には歯がゆく、口惜しい。
もっとも、もし仮に獅徒の力で動く飛翔船が開発されたところで、実際に運用されるかどうかは難しいだろう。
飛翔船の動力になるということは、飛翔船のすべての機構や機能を制御し、船を操縦することに全力を注がなければならないということなのだ。
獅徒は、確かに神々にも匹敵する力を与えられたものの、その力は主に戦闘に特化したものであり、飛翔船のような複雑な機構を制御するための能力は乏しい。そんなものが飛翔船の制御を行えばどうなるか。いざ戦闘というときには役立たずに成り果てているのではないか、という懸念がある。
その点、神々は違う。
飛翔船の複雑怪奇な機構を瞬時に把握するだけでなく、制御も完璧にこなし、その上、飛翔船を動かしながら戦闘さえもこなすことができるのだ。万能に極めて近い存在というのは、冗談でもなんでもないということだ。
「……反応がありませんね」
モナナの唐突な一言に、ミズトリスは急激に現実に引き戻される感覚を抱いた。見上げる。水晶球の上の台座に寝そべったままの女神は、どこか気だるげなまなざしをこちらに向けている。
「もうしばらく呼びかけて見ますが、この様子では、応答は期待できそうにありませんよ」
「飛翔船にいないということならば仕方がない。船は、無事なのだろう?」
「ええ。セツナの手に渡った船のように、何者かに乗っ取られている形跡もありませんよ」
などと冗談めかしていってきたものの、モナナの発言は、笑い話で済むようなことではなかった。セツナの手に渡った船とは無論、マルウェールを去る際に確認した参型飛翔船のことだ。参型飛翔船は、弐型飛翔船に比べれば規模の小さな飛翔船だが、その分数多く建造され、各地の戦場に投入された。その一隻がリョハンへの第二次侵攻の際、ドラゴンの手によって奪われ、鹵獲されたのだが、その事実に疑念を抱いているのがモナナだった。
なにものかの手引きでもない限り、搭乗する神が飛翔船を手放すとは考えにくい、というモナナの推論はもっともだが、しかし、だれがなんの目的で飛翔船をドラゴンに明け渡すというのか。ドラゴンの手に渡ったところで、ドラゴンの力では動かないのだ。なんの意味もない。ただのガラクタになるだけのことだ。
モナナの推論はただの邪推に過ぎないと考えるのが自然だろう。
確かにリョハンには守護神がおり、竜属とリョハンには深い繋がりがあるのも事実だ。しかし、竜属が手に入れた飛翔船をリョハンに提供した上、リョハンの守護神が飛翔船に乗り込むことは万一にもありえないだろう。リョハンの守護神がリョハンを離れることなど、考えられないことだ。
では、セツナたちが手に入れた飛翔船には、どのような神が乗っているのか。
こればかりは、神々の皇ならぬミズトリスにはまったく想像もつかなかった。
ヴァシュタラの離反者か、あるいは二大神か。
それとも、ベノアガルドの救世神やリョハンの守護神のような、別種の神か。
いずれにせよ、ネア・ガンディアの敵であることに違いはあるまい。
「それなら、ログナーの制圧は万事うまく行っているということだろう」
「だと、いいのですが」
モナナが多少心配そうにしたのは、誰に対しても皮肉屋だからだ。
ミズトリスはそう思うことにして、ウェゼルニルが失敗することはないだろうとも考えていた。