第二千百八十二話 行軍
大陸暦五百六年四月三十日。
ガンディア・ザルワーン方面仮政府軍と帝国軍残党からなる同盟軍は、開戦予定地となるマルウェール付近を目指し、龍府を出発した。
仮政府軍五千、帝国軍一万からなる総勢一万五千の軍勢が土煙を上げながら荒れ果てた大地を駆け出したのは、雨雲も分厚い朝方のことだった。いまにも降り出しそうな空模様に吹き荒ぶ風の強さは、立ち込める暗雲の如くではあったが、同盟軍の士気は、いまにも限界を突破しそうなほどに高まっていた。それもこれも、太后グレイシアの檄文が仮政府軍将兵の戦意を昂揚させ、帝国軍大佐レング=フォーネフェルの激励が帝国軍将兵を発奮させたからだろう。
セツナたちも、同盟軍と行動をともにしており、同盟軍総大将エリルアルム率いる銀蒼天馬騎士団の陣中にあった。陣中には、当然ファリアもいれば、シーラもいた。シーラには無理をして欲しくはなかったが、彼女の体調は万全だという軍医の保証もあり、仕方なく従軍を認めることとした。戦力は少しでも欲しいのだ。そして、戦力としてのシーラは、少しどころではない。彼女とハートオブビーストが戦線に加わるだけで、戦況は大きく変わりうるだろう。
ミリュウを隊長とする別働隊は、方舟に乗り込み、いつ発進してもいいように待機している。方舟の出撃は、同盟軍がマルウェール付近に到着し、布陣を完成させてからのこととなるからだ。マルウェールへの先制攻撃と同盟軍の開戦時機を合わせなければ意味がないのだ。
翌五月一日には、行程の三分の二に達し、マルウェールが見えそうな距離にまで至ったというのは、驚異的な行軍速度といえるだろう。しかし、あまりに急ぎすぎて行軍だけで体力を使い果たしては意味がない、ということもあり、総大将エリルアルムは全軍にしっかりと休憩を取るようにと厳命した。いくら一日も早くネア・ガンディア軍を撃退したいとはいえ、戦地についたはいいが、その途端力尽きてはなんの意味もない。
そんな中、セツナは、各地で休憩を挟みながら、久々の行軍の空気感に懐かしさを覚えていた。
「昔は、こんな風にして行軍中に休むのが普通だったな」
五月一日、昼休みの真っ只中のことだ。昼食を終え、ややゆったりめの休憩時間が与えられたこともあり、セツナたちは、木陰でのんびりとした時間を過ごしていた。
「あのころに戻りたい?」
「……そうだな」
セツナは、隣に腰を下ろすファリアの問いに、少し考え込んだ。ファリアもセツナもガンディアの軍服に袖を通している。ガンディアの宮廷召喚師であり、ガンディアの軍事行動に従軍する以上は、当然のことだった。
「あのころに戻れたら、どれだけいいんだろうな」
「世界はあのままで、ガンディアは小国家群統一を目指して邁進し続ける……そんな風だったら、ね」
「あいつらもいて、毎日毎日くだらないこといいあってさ。俺ひとり怒って、笑われて、でも、それが楽しくて……」
とは、シーラだ。彼女は、黒獣隊の隊服を身に纏っており、黒衣に長い白髪が映えていたし、その物憂げな表情を際立たせてもいた。彼女のその言葉によって、セツナの脳裏には、シーラの周りでいつも騒がしくしている元侍女たちの情景が浮かぶ。いつだってシーラのことを大切に想い、だからといって腫れ物扱いするでもなく、からかったり喧嘩したりする彼女たちの存在がいかにシーラにとって重要だったのか、いまならばわかる。
「でも、ま……もう戻らない過去にばかり想いを馳せていても、仕方がねえよ」
「……ああ」
「……そうね」
セツナは、ファリアともども、シーラにかけてやる言葉が見当たらず、肩を落とすほかなかった。広々とした荒野の一角に広がる雑木林。その木陰で座り込む三人の姿は、傍目には奇異に見えたのかもしれない。
「どうしたのだ。三人揃って辛気臭い顔をして。まさか昼食が口に合わなかったか?」
ぼんやりと顔を上げると、同盟軍総大将のエリルアルムがそこに立っていた。ガンディアの将軍が身につけるような立派な軍服に袖を通した彼女の姿は、かつての大将軍アスタル=ラナディースを彷彿とさせた。どちらも女傑という点では似ているかもしれない。
エリルアルムは、即座になにも言い返してこないセツナたちを見て、バツが悪くなったのか、頭を振った。
「冗談だ。気を悪くしたなら、済まない」
「いや……気を使っていただき、申し訳ない」
「なんだ、どうした。改まった言い方だな」
「従軍中ですから」
セツナが冗談めかしていうと、エリルアルムは、柔らかな笑みを浮かべてきた。
「気にすることはないだろう。あなたは、この同盟軍の要。総大将に偉そうな口を聞いたところで、だれも聞きとがめないよ」
「そういうわけにはいきませんよ。後のことがある」
「後のこと?」
「あなたは、仮政府の要となる器がある」
将器、というものだろうか。
エリルアルムには、上に立つ人間にとってもっとも重要ともいえる人心を掌握する才能があるようであり、その才能は、先日の会議でまざまざと見せつけられた。会議中、エリルアルムが発言するだけで室内の空気が締まり、彼女が口を開くたびに首脳陣の覚悟が定まっていく、そんな会議だった。グレイシアが彼女に全幅の信頼を置き、知り合ったばかりの帝国軍将校が小国家の元王女に過ぎない彼女に敬服する素振りを見せたのも、その才能の現れだろう。
彼女ならば、と、ふと想ったことがある。
彼女ならば、セツナがいなくなったあとの仮政府軍を上手く纏め上げ、仕切ってくれるだろう。
もちろん、セツナの勝手な思い込みであり、仮政府首脳陣の意向など考慮していないが、このたびの戦いでネア・ガンディア軍の撃退に成功すれば、総大将であるエリルアルムの立場について、首脳陣も考え直さなければならなくなるのはいうまでもない。同盟軍ではなく、仮政府軍の総大将として任命されるのは、まず間違いなかった。そして彼女ならば、首脳陣の期待に応える働きをして見せるだろう。
「仮政府の要……」
「まあ、すべてはこの戦いが終わった後のことですが」
「セツナは、ここに残らないのか?」
「こことログナーの無事が確認でき次第、帝国本土に向かわなければなりません」
「帝国本土……」
エリルアルムが遠い目をしたのには、どういう想いがあったのか、セツナには少々わからない。
「……セツナが不在の間は、わたしに任せる、と。そういうのだな? わかった。安心して、帝国本土まで行ってくるといい。そして、事を済ませたのなら、必ず戻ってくるのだぞ?」
「ああ、約束する」
また、約束が増えた。
もちろんのことだが、軽はずみに約束したわけではなかった。エリルアルムに仮政府のことを任せるのだ。任せる以上は、彼女の望みもまた、叶えなければならないだろう。エリルアルムにだって夢や願望があるはずだ。それが仮政府で軍の総指揮官になることとは、到底思えない。彼女は元々エトセアの人間であり、ガンディアへの思い入れは多少はあっても、彼女の未来を決定づけるほどのものではあるまい。
エリルアルムがセツナに好意を寄せてくれていることも、わかっている。
もしかしたら、彼女もまた、セツナたちと行動をともにしたいのではないか。
それがわかっていながら、仮政府のことを任せるというのだから、セツナは、彼女との再会を約束しなければならない。
そして、約束を護らなければならないのだ。
でなければ、すべてが嘘になる。
何事も嘘にしてはいけない。