第二千百七十一話 ネア・ガンディア(十)
「セツナ殿が仰ったことが事実ならば、ネア・ガンディアの軍事力というのは、恐るべきものであり、仮政府の全戦力をもってしても到底敵うものとは思えません。確かにレオンガンド・レイグナズ=ガンディアなるものは、ガンディア国民を取り込むための方便かもしれませんが、だからといって短絡的な判断を下すのはいささか問題なのではありませんか?」
ナージュ王妃は、そういって、グレイシアと対決姿勢を見せた。王妃が率先してそのようにして自分の意志を発信するのは、初めてのことといってもよく、一同、驚きを禁じ得なかった。一方でセツナは、王妃の気持ちも痛いほどわかる気がした。
レオンガンドという名が、ナージュの心に深く入り込んでいるのではないか。
苦悩に満ちた表情は、最愛の夫と仮政府の間で揺れ動いているようにも見える。
グレイシアは、そんなナージュを愛おしげに見つめ返している。
「ネア・ガンディアに降伏するべき、と、王妃はお考えなのですか?」
「いえ……決してそのようなことは」
ナージュが頭を振る。言葉が揺れている。王妃の本心がどこにあるのか、セツナにもわからない。
「しかし、即座に結論を出し、その結果、ネア・ガンディアによってザルワーン全土を滅ぼされるようなことがあっては、それこそ、陛下への不忠の極みである、と、わたくしのようなものは考えるのです」
そこまでいって、ようやく、ナージュはなにかを見出したようだった。定まらなかった視線が、グレイシアに注がれる。
「思い返してもみてください。わたくしたちがなぜ、仮政府などと名乗り、このザルワーン方面の維持に全力を尽くしてきたのか。なんのために、なにを目的として、この地域を護ってきたのか。ガンディアの再興を目指すためではないのですか? いずれ、レオンガンド陛下率いるガンディア本国と連携するためではないのですか?」
「そのとおりですよ、王妃」
グレイシアは、ナージュの意見を肯定してみせた。
「仮政府の存在意義とは、悲願とは、このザルワーン方面およびクルセルク方面を無事ガンディア本国に還すこと。しかし、ガンディア本国が無事であるとはとても考えられぬ現状、本国への帰属は夢に消えたものと結論するべきです。わたくしたちは為政者。夢ばかり見てはいられないのです」
「しかし……」
「現実を見なさい、ナージュ」
そう言い切ったグレイシアの声音は、しかし、振り絞っているように聞こえた。
「レオンガンドは、もういないのです。レオンガンド・レイグナス=ガンディアは、あなたの心を惑わすためにそう名乗っているに過ぎません。それとも、あなたの中のレオンガンドは、自国の民を平然と殺して回ることのできる心根の持ち主なのですか?」
「そんなことは……!」
「そうでしょう。レオンガンドは、民草を見殺しにできるような、そんな冷酷な人間ではありません。いえ、マルウェールへの仕打ちは冷酷でさえない。残忍で酷烈なだけ。そのようなものが、あなたの愛する夫であるはずがない。違いますか?」
「……お義母様……」
「ですが……確かに、結論を急ぐべきではないのも事実です。わたくしたちには、ネア・ガンディアに対抗する力がない」
ちらり、と、グレイシアはセツナを見てきたが、太后のまなざしはセツナの力を期待するというよりは、配慮するといったものに近かった。セツナのことを気遣ってくれているのだろうが、その気遣いこそが彼の心を締め付けた。グレイシアは、セツナの力を信用してくれてはいる。だが同時に、ネア・ガンディアという大勢力の相手をセツナひとりに押し付けられるものではない、と考えているようなのだ。
もっと力があれば、と想う。
いや、力はある。
十分すぎるほどの力が。
それを完全無欠に制御できるかどうかの問題でしかなく、現状、神々を相手にどの程度戦えるのかさえ判明していない以上、過信は禁物だった。胸を張って、神々の軍勢を撃退して見せるとは言い切れないのだ。それが口惜しくて、たまらない。
「リノンクレアを呼び戻し、彼女を交えた上で改めて今後の方針について話し合いましょう。皆さん、それまでは軽挙は控えるようにお願い致します」
グレイシアのその一言で、この度の会議はお開きとなった。
会議に参加したものたちは、グレイシアの言葉と、様々な想いを胸に会議室を後にした。
セツナの心のなかにも、複雑な感情が渦巻いていた。
「どうするのかしら」
ミリュウがぼんやりとつぶやいたのは、会議を終えたあとの沈黙が耐え難かったからかもしれない。
セツナたちは、天輪宮の中庭に場所を移し、話し合うこともなく夜空を眺めたり、以前となにひとつ変わらない中庭の風景に目を細めたりしていた。頭上には夜空が広がり、星々が音もなく瞬いている。風は穏やかで、気温も決して低くはない。春の夜。リョハンとは大違いだった。
セツナは、ミリュウを横目に見た。ミリュウは中庭の土の上、膝を抱えて座っている。そんな彼女に凭れているのがエリナであり、エリナを見守っているのがファリアだ。シーラは壁に背を預けるようにして立ち、レムがシーラの様子を気遣っている。エリルアルムとダルクスは、少し離れた位置から全体を見渡すようにしていた。
「どうするもこうするもないだろ」
「え?」
「俺は、ネア・ガンディアなんて認めない」
セツナが告げると、ミリュウが少しばかり困ったような顔をした。月光が彼女の赤く染め上げられた髪を引き立たせるようだった。
「セツナが認めなくても、それこそ関係ないでしょ。仮政府が認めたら、降伏したらどうするのよ」
「そのときは、俺はひとりになっても戦うさ。陛下が、あんなことを許すわけがない。そうだろ」
「そうね。陛下があのようなことをなさるわけがないわ。でもね、セツナ」
そういって、セツナの目をじっと見つめてきたのは、ファリアだ。青みがかった髪が星明かりの中で淡く輝いて見える。
「あなたは、ひとりじゃないでしょ」
「そうよ。あたしたちがいるわ」
ミリュウが勢い良く立ち上がると、エリナも彼女に習う。
「そうだぜ、セツナ」
シーラがにかっと笑いかけてくると、その側に控えていたレムが柔らかな微笑を湛えた。
「そうでございます。わたくしと御主人様は切っても切れぬ運命の糸で結ばれているのでございますから、なんの心配もございませぬ」
「ちょっとレム、どさくさに紛れてなにいってんのよ」
「本当のことでございますし」
「わたしも……そうだな。仮政府がネア・ガンディアに降るというようなことがあれば、わたしは騎士団ともどもあなたについていく。セツナ」
「みんな……」
「わたしも、お兄ちゃんから離れないよ」
「エリナまで……」
セツナは、彼女たちの心からの言葉を受けて、感極まった。もちろん、彼女たちならそういってくれるだろうということは、わかっていた。そうでなければ、ここまでついてきてはくれないだろうし、セツナの側こそが居場所だと公言しはすまい。とはいえ、そういってくれることがどれだけセツナにとって心強いのか、改めて理解するのだ。
だからこそ、彼女たちに恩返しをしなければならない、と強く思う。
その恩返しのひとつが、ネア・ガンディアの打倒になるのではないか。
ネア・ガンディアを打倒して、ようやくこの世界に安寧が訪れるのではないか。
セツナは、そんなことを考えながら、彼女たちに感謝を述べた。
「みんな、ありがとう」
セツナの感謝の言葉に、彼女たちは皆、一様に笑顔を浮かべていた。笑っていられるような状況ではないことくらい、皆、百も承知だ。ネア・ガンディアと名乗る勢力の存在は、それほどまでに大きく、強烈だ。だが、こういうときこそ笑っていられる強い意志が必要なのかもしれない、と、彼は考える。それは、ひとりではできないことだ。
孤独では。
と、そんなときだった。
「なんだ、ありゃ……」
シーラが頭上を仰ぎながら、驚嘆の声を上げた。
「銀色の獅子……?」
彼女の呆然たる発言に釣られて空を仰ぐと、確かにそれはいた。
天輪宮の屋上、巨大な月を背後にして、白銀の獅子が鎮座していたのだ。