第二千百六十八話 ネア・ガンディア(七)
方舟がマルウェール付近を飛び立って二時間もしないうちに龍府に辿り着くと、エリルアルムもシーラも驚きを隠さなかった。陸路を馬や馬車を用いて移動するよりも何倍、何十倍も早いのだから、驚愕するのも当然のことだ。
普通、マルウェールから龍府まで移動するのに二、三日はかかる。それが方舟を利用すれば、二時間足らずで辿り着けるのだから、凄まじいとしか言いようがない。しかも、これでも速度を落としているというのだ。
最高速度ならば、数十分で往復さえできるだろうとのことだ。しかし、方舟がそこまでの速度を出したとして、持ちこたえられるものかどうかも不明であり、できるならば負担をかけたくないというのが方舟の支配者たるマユリの考えだった。セツナは、方舟の管理に関してはマユリに一任しているため、どれだけ急いでいたとしても、マユリの考えに従うつもりだった。もし、セツナたちの想いを優先した結果、方舟が空中分解するようなことがあれば目も当てられない。方舟は、ネア・ガンディアが保有するのであろう超技術によって作られたものであり、セツナたちの手で再現できるわけもなかった。マユリの、神の御業を持ってしても、だ。
《わたしにできるのは、船内各所の構造を変えることくらいよ》
マユリは卑下するようにいったものの、それでも十分過ぎるとセツナたちは賞賛したものだ。
実際、マユリの船内構造改革のおかげで住みやすく、そして使いやすくなったのだし、なにもいうことはなかった。なにより、方舟を移動手段として自由に使える事自体、マユリ神の協力のおかげなのだ。女神が手を貸してくれなければ、セツナたちは未だ途方に暮れていた可能性がある。
シーラをもとに戻すことがてきたのも、ザルワーンの緊急事態に間に合ったのも、すべて、マユリのおかげだ。
そのことは、忘れてはならない。
二時間あまりの移動中、セツナたちは、シーラとエリルアルムに現状を掻い摘んで説明した。エリルアルムにはある程度説明していたものの、シーラは、なにも知らないまま衣装室に連れ去られたのだ。十分な説明が必要だった。特に彼女は、エリルアルムのように“大破壊”後の世界の現状について、まったく知らないということもある。
シーラは、セツナたちが話すことにいちいち驚き、衝撃を受けていた。大陸がばらばらに引き裂かれ、大海原によって分け隔てられたということを知ると、しばらく言葉を失うほどだった。本来、世界の激変というのは、筆舌に尽くしがたいほどのことであり、いまを生きるひとびとが受け入れられているのは、時の流れという大きな力の影響にほかならない。大陸がばらばらになった当初は、世界中、だれもがシーラのように衝撃を受け、絶句したに違いない。
ザルワーンが現在、ザルワーン方面とクルセルク方面を合わせ、そこにアバード、ジベルの一部を加えた島になっているということにも、彼女は驚きを隠さなかった。かつて、世界は地続きだったのだ。どこまで大地は続いているものであり、海といえば、大陸の果てであり、世界の果てというような印象さえ抱いていたものだという。
それがいまや、世界中のどこにでもありふれたものとして、見ることが出来た。
「あれが……海」
船首展望室からは、方舟の前方に広がる光景を一望することができた。シーラは、そこで人生で初めて海というものを目の当たりにしたのであり、彼女の驚きっぷりには、ファリアたちも同意するところが多々あったようだ。ファリアにせよ、レムにせよ、エリナにせよ、海を初めて見たのは、“大破壊”以降のことであり、大陸が破壊されるような事態が起きなければ、その生涯を終えるまで、世界を覆う海原について、想像を巡らせることすらなかったかもしれない。海とは、ワーグラーン大陸の内陸部に生きていたひとびとにとって、それほどまでに無縁のものだったのだ。
それがいまやありふれた存在となって、その圧倒的な存在感を主張してくるのだから、世界の激変ぶりがわかろうというものだ。
ちなみに、ミリュウは、セツナの記憶の中で海を見ている。そのため、肉眼で海を確認したときも、ファリアたちほどの驚きはなかったようだ。ただ、記憶の中に見る海と実際の海とでは多少の違いがあるため、驚きはしたようだが。
また、シーラの着替えについてだが、彼女は、ミリュウがシーラのためにと選び抜いた白基調に黒が混じった、動きやすそうな上下を身に着けていた。白はシーラの象徴色だというのがミリュウの意見であり、そのことに異論を唱えるものはいない。そこに黒をいくつか織り交ぜたのは、シーラがかつて黒獣隊の隊長であったことからのようだ。
もっとも、領伯近衛・黒獣隊は、セツナが領伯を返上した時点で解散したも同然であり、シーラの服装に黒を混ぜる必要はなかったといえる。
「いいさ。俺はセツナのものだ。この黒はその証にするまでのこと」
シーラは、衣服に取り入れられた黒を見つめながら、告げた。恥ずかしげもなく、むしろ誇るような口ぶりには、いままでのシーラにはない迫力がある。ミリュウが聞き咎めた。
「ちょっとそれ、どういう意味?」
「どういう意味もなにも、そのままの意味だろ。俺は、セツナに人生を捧げたんだ。これからも、俺のすべてはセツナだけのものさ」
「随分と力強くいい切ったわね……」
「おう」
シーラが、ミリュウに対し、歯を見せて笑った。その屈託のない笑顔はまるで太陽のように眩しく、それでいて清々しい。彼女らしい笑顔といえばそうだが、いままで以上に輝いて見えるのは、セツナの気の所為なおではあるまい。
「あいつらはもういないからな」
「あいつら……って」
「ああ……」
シーラがだれのことを思い返しているのか、即座に想像がつく。シーラがそうやって話題に出すものたちとなれば、彼女を長年に渡って支えてきた元侍女たち以外にはないだろう。ウェリス=クイード、クロナ=スウェン、ミーシャ=カーレル、アンナ=ミード、リザ=ミード。いずれも、シーラへの忠誠心の塊のような女性ばかりだった。アバードを離れるときもシーラに付き従った彼女たちは、シーラがセツナの家臣となったのちも、常に傍にあってシーラを支え続けた。シーラがシーラとして在り続けることができたのは、きっと、彼女たちの支えがあったからだ。
ひとは、ひとりでは生きてはいけない。
それは、シーラのような強い意志の持ち主であっても同じだ。例外など、そうあるものではあるまい。
「皆、俺のことを最後まで心配してくれた。俺のことだけを。だから俺は、あいつらの想いに応えなきゃなんねえ。なんとしてもな」
「それがセツナにすべてを捧げるってこと?」
「ま、そういうことだ。俺の幸せは、セツナの側にある」
シーラが、今度はこちらを見て、微笑んできた。そこに強い意志と純粋な想いを感じる。それが彼女の幸せというのなら、セツナはそれに応えなくてはならない。セツナの幸福は、周囲のひとびとの幸福の実現なのだ。
「……なにかっこつけてんだか」
ミリュウが多少意地悪くいったのは、シーラを恋敵と認識しているからなのかもしれない。歯牙にもかけない相手ならば、そんな言い方はしないはずだ。
「まあ、いいじゃない。わたしだって同じだもの」
「それは、否定しないけど」
「わたしも!」
「わたくしも、でございます」
エリナが元気いっぱいに挙手すると、レムが微笑みながら同調してみせた。船首展望室にいる女性陣がほぼ全員、セツナへの好意を明らかにすると、さすがのセツナもたじろがざるをえない。とはいえ、セツナの想いが揺らぐことはない。彼女たちがそれを望むのであれば、それを叶えるのがセツナの使命といってもよかった。
彼女たちの助けがあってはじめて、セツナは、こうして生きていられるのだ。
と、先程まで傍観者の様相を見せていたエリルアルムがおもむろに口を開いた。
「……わたしも、乗らせてもらおうか」
「エリルアルムも?」
「こうみえても、一度は婚約した身だ。政略とはいえ、わたしは本気でセツナと結婚してもいいと考えていたのだよ」
と、エリルアルムがこちらに視線を送ってきた。その柔らかなまなざしがなにを意味しているのかは不明だったが、好意に満ちていることはわかった。セツナは、他人の悪意には鈍感だが、好意には、ある程度敏感だった。だからこそ、自分に好意を寄せるひとたちを無碍にはできないし、無視できないのだ。
「む……元婚約者まで名乗りを上げるなんて……案外強敵かもね?」
「どうかしらね」
「むむ……」
「ファリア、なんだか余裕だな……?」
シーラが怪訝な表情でファリアを横目に見ると、エリナが手を叩いて喜んだ。
「さっすがお姉ちゃん!」
「あの日々、なにがあったのでございましょう」
「あの日々?」
レムの発言を聞きとがめたのは、エリルアルムだ。
「レム、なにか知っているのか?」
「どういうことなの?」
「え、いや、あの……で、ございますね……?」
助けを求めるようにこちらに視線を送ってきたレムに対し、セツナは、目だけで拒絶すると、そうっと席を立った。見ると、ファリアも同じようにして、席を離れようと画策している。が、ファリアの背後にはシーラが回り込んでいた。彼女の両手でファリアの両肩を押さえ込むと同時に、セツナの両肩にも強烈な圧力がかかる。はっと仰ぎ見ると、エリルアルムの豊かな胸がすぐ真上にあった。その双丘の間から覗く彼女の顔は、無表情に近く、真に迫っているようだった。
セツナは、覚悟を決めた。