第二千百六十六話 ネア・ガンディア(五)
「それにしても、あんたってあの頃となにも変わってないんじゃないの?」
「うぇ?」
「うぇじゃないわよ、うぇじゃ」
ミリュウがじろじろと見てきたのは、シーラの半裸の体だ。
着替えのためにと方舟の一室に連れ込まれたシーラは、そこでミリュウがてきぱきと取り出してきた下着をすぐさま身に着けている。いまのいままで下着さえ身につけていなかったのだから、思い出すだけで顔から火が吹き出しそうになるが、しかし、セツナが護ってくれたこともあり、彼女の裸が他人に見られるようなことはなかった。それは、いい。問題はそこからだ。シーラが下着を身につけている最中から、ミリュウがなにやら考え込み出したのだ。
シーラが連れ込まれた部屋は、どうやら衣装室だったらしく、ずらっと並んだ衣装箪笥には多種多様な衣服が収められていた。それら衣装箪笥からいくつもの衣装を引っ張り出してきては、ああでもないこうでもないと悩むミリュウの様子には、シーラも言葉を失うしかなかった。
ミリュウが、他人に自分が選び抜いた衣装を着せることに情熱を燃やす人種であるということをエリナから聞き、諦めが肝心である、などと教わりもした。どうやらエリナは、ミリュウの衣装合わせに数え切れないくらい付き合わされており、悟りの境地に至っているような風格があった。
そうしてようやく選び抜かれた衣装に着替えている最中のこと、ミリュウがシーラの体を舐めるように見つめてきたのだ。
「二年以上もあんなでっかい狐になってて、なんでまったく小さくなってないのかしら」
などといいながらミリュウが伸ばした手は、思い切りシーラの乳房を掴んでいた。胸がしぼんでいないことがおかしい、とでもいうつもりなのか、はともかく。
「ちょっ、おい、どこ触ってんだよ!」
「どこって、おっぱい」
「おまえな!」
シーラは、バカ正直に告白してきたミリュウに呆れる想いがした。胸を掴まれたのはわかりきっているが、もう少し、こう、恥ずかしさのようなものはないのか、と思わないではない。しかし、ミリュウは胸を庇うシーラを見て、平然とした顔で言ってくるのだ。
「いいじゃない、減るもんじゃないし」
「そういう問題じゃねえ!」
「セツナには触らせてたくせに」
「いつだよ!」
「ついさっきまで」
「触ってねえよ!」
「……ふうん」
半眼になって胸を注視してくるミリュウに、シーラはどう対処するべきなのかと考えあぐねた。セツナは、ああいう状況でどさくさに紛れてシーラの胸を触ろうというような考え方の持ち主ではない。むしろ、もっと積極的になってもいいのではないかと想うほどに消極的であり、紳士的だ。そんな彼だからこそ、シーラも安心してナインテイルを解除できたのだが、しかし、ミリュウがいうようなことをしてくれても悪くはなかったのに、と、思わないではない。無論、時と場合によるが。
と、そのとき、シーラは、臀部に冷ややかな感触を覚えた。振り向かずとも、だれがなにをしたのか、想像がつく。
「っておいレム!」
「なんでございましょう?」
「てめえ、尻触りやがったな!」
「相変わらずの肉付きで安心いたしました」
すっくと立ち上がったレムは、まったく悪びれもせず、にこやかに告げてくる。ここまで自信満々にいってのけられると、そういうものかと納得しそうになるほどの清々しさだった。しかし、当然のことだが、シーラはミリュウとレムを叱ろうとしたところ、エリナが溜息をつくようにいった。
「いいなあ……羨ましいなあ……」
「エリナまで、なにいってんだよ」
「胸もお尻も大きいのは、憧れですよー」
そういって自分の胸を見下ろすエリナではあったが、彼女の胸は必ずしも小さいわけではない。年相応といっていいくらいのものはあったし、成長すればもっと大きくなる可能性だって大いにあるのだ。なにも嘆く必要はない、と、いおうとして、シーラははたとエリナの容姿に息を止めた。大きな変化のないミリュウやレムと違って、エリナは、二年前、最後に逢ったときと比べて、格段に成長していたのだ。
「……そういえばエリナ、随分成長したな」
シーラは、思わずエリナの頭を撫でようとして手を伸ばしたが、成長した彼女には失礼になるかもしれない、と、肩に置いた。シーラにとってのエリナの印象といえば、セツナを兄のように慕う幼い少女のまま、変わっていなかった。しかし、いま目の前にいるエリナは、十代半ばを経て大人への階段を昇っている最中の少女であり、あの頃よりも格段に成長していたのだ。
「はい! エリナは成長期です!」
「可愛くなりやがって」
シーラが彼女を抱きしめたくなったのは、よくエリナを抱きかかえたりしていたからだろう。エリナは、セツナを取り巻くひとびとの中で、妖精のように愛らしく、可憐だった。だれからも愛され、だれもが彼女に魅了されていたといっていい。そんな彼女が少しずつ成長していく様は、嬉しいものだ。
「元々可愛いわよ」
「そりゃあそうだ」
「なんだか照れます!」
「照れなくていいのよ。本当のことなんだから」
「師匠……」
ミリュウは本心からそういっているのだろうが、それがエリナには照れくさすぎるのだろうということはシーラにもわかったが、なにもいわなかった。エリナとミリュウの間に入るのは野暮というものだ。ふたりの絆は、他人の入り込む余地などありはしない。
「まあ、エリナ様が可愛らしく成長したことが事実ですが」
などとつぶやいたのは、レムだ。見遣る。彼女は、相も変わらぬ女給服を身に纏っている。かつてはエリナよりも年上に見えた彼女も、いまやエリナよりも年下の少女にしか見えなくなってしまっている。それは、レムの特性によるものだ。
「おまえは相変わら――」
「それ以上仰りますと、口を針と糸で縫い合わせますでございますですわよ」
「……わ、悪かったよ」
シーラは、レムの口調が怪しくなってきたことがなにやら悪いことの起こる前触れのように想えて、即座に謝罪した。レムが自身の成長のなさについて気にしていたということも、思い出す。レムが十代の少女のままなのは、無関係な他人から見ればただただ可憐で羨ましいとさえ思えるのだが、本人は違う。
レムは、不老不滅の存在だ。
不老とはつまり、肉体的な変化も起きないということだ。彼女は、その命が終わるときまで、少女のままで在り続けなければならない。それは、確かに地獄のような苦しみを伴うことなのかもしれない。
周囲の人間は成長し、成長しきれば老いていくというのに、彼女だけはその生命を終えるまで老いることもなければ、成長することもできないのだ。他人にはわからない苦しみが彼女にはある。余計なことはいわないことだ。
シーラは肝に銘じると、レムが怒っていない様子にほっとした。
そして、こういう風にして、また皆と再会できたことを心の底から喜んでいた。
それもこれも、白毛九尾のおかげだ。
彼女がシーラを生かし続けてくれたのだ。
シーラの肉体が二年以上に渡って、消耗することも、変化することもなく保持され続けていたのも、白毛九尾の加護によるものにほかならない。
ハートオブビーストの最大能力ナインテイルを発動したのは、シーラだ。シーラの意志がナインテイルを発動させ、ついには白毛九尾と化したのも、シーラの一存によるものだ。だが、それ以降のことは、白毛九尾の意志によるものだった。
シーラは、白毛九尾を顕現させるだけで力を使い果たした。意識が失われゆく中で、あとのことはすべて、白毛九尾に任せたのだ。白毛九尾は、シーラの想像以上の働きをしながら、シーラが死なないようにと護り続けてくれていた。シーラの命が尽きれば、白毛九尾の活動も終わる。故に白毛九尾がシーラを護るのはある意味当然ではあるのだが、白毛九尾のシーラへの気遣いは、その程度で済むようなことではなかった。もっと深く、強く護ってくれていたのだ。
故にシーラは、二年以上前の状態のまま、まさに時を越えたかのようにここにあることができている。
皆との再会、セツナと再び巡り合うことができたのだ。
シーラは、壁に立てかけたハートオブビーストを見遣り、心の底から感謝したのだった。




