第二千百六十五話 ネア・ガンディア(四)
「え?」
「さっきからずうっとよね? なに、シーラの抱き心地がなによりも代えがたいってわけ? 愛しのミリュウちゃんよりずっといいってわけ? そりゃまあ確かにシーラの肉付きはいいし、なんか二年前となにひとつ変わっていないっぽいけど、あまりにあんまりじゃない?」
セツナがシーラともどもきょとんとすると、彼女は一方的にまくし立ててきた。
「ミリュウ、少し落ち着いてくれ」
「落ち着いてますけど?」
「どこかだよ」
セツナは、ミリュウの怒気を噛み殺したような言い方を見抜けないわけがなかた。ミリュウとは長い付き合いだ。彼女が考えていることは、ある程度、手に取るようにわかる。時折、まったく理解できないこともあるが、いまのように感情があらわになっているときなど、その想いがどこに向かっているのか、わからないはずがなかった。
「こうしてるのにはわけがあるんだよ。な、シーラ」
「あ、ああ、ちゃんとした理由があるんだ」
「なによ、その理由って」
ミリュウが、ずい、とシーラに詰め寄る。シーラは気恥ずかしそうに、セツナの腕の中で体を縮ませた。
「は……裸、なんだよ」
「裸……? はだか……はだか!?」
「それは一体全体どういうことにございますか!?」
「そうね、それは由々しき問題ね」
「そうです、お兄ちゃん!」
「いや、おい、ちょっ」
セツナは、女性陣の剣幕の凄まじさに気圧され、シーラを抱えたまま壁際まで後退した。そして、気づく。みずから逃げ場を失うよう立ち回っていることに。ミリュウたちがじりじりと詰め寄ってくるのだが、どうしようもない。通路の壁際。逃げ場をミリュウたちに防がれている以上、観念するしかないのだ。
《皆、随分能天気だが、良いのか?》
マユリ神の呆れきった聲が脳内に響いたのは、そのときだ。
「な、なにがだよ。ってだれが能天気だって?」
セツナは、思わず反論しながらも、マユリの助け舟に感謝した。マユリのこのような発言には、ミリュウが食いつかないわけがない。
「そうよ、マユリん。能天気なのはセツナとシーラだけよ」
「おい」
「ひでえな、相変わらず」
シーラが苦笑を交えつつ、いった。しかし、その表情はどうにも嬉しそうだ。
「でも、なんだか安心したよ、本当に」
「ふふ、でしょ」
「ああ……」
シーラとファリアのやり取りを聞きながら、セツナ自身、どうしようもない安堵に包まれていた。
ひとり、またひとりと、かつての仲間が集っている。
それこそ、セツナの数少ない願いが叶いつつあるということだ。
皆の幸せこそ、セツナの幸せなのだから。
「……なんだか拍子抜けしたな」
エリルアルムがそんな感想をもらしたのは、シーラが着替えのためミリュウたちに連行されてからのことだ。レムとエリナが面白そうだとついていき、その場には、セツナとエリルアルム、ファリアの三名が取り残された。
エリルアルムが拍子抜けしたのは、ミリュウたちとの再会からいまに至るまで、凄まじい勢いで話が進み、その勢いのまま、ミリュウたちが走り去っていったからだろう。エリルアルムだけ、話から取り残されている。ファリアが、そんな彼女を気遣って、話しかけた。
「エリルアルム様もご無事で何よりです」
「様はいらないよ、ファリア殿。わたしはもう王女でもなんでもないんだからな」
エリルアルムは、少し陰のあるような表情をした。エトセアは、最終戦争の最初期に神聖ディール王国によって蹂躙され、滅び去ったという。本当に滅亡したのかどうかを確かめる術はなく、伝わってきた情報によれば、そうだということだ。それからというもの、エリルアルムはエトセアの王女という立場を捨てている。彼女自身の部下であるエトセアの遺臣たちとともにガンディアの一戦力となったのは、そうするほか身の置き場がなかったからだ。
エトセアが健在だったらば、いまごろ、彼女はセツナの伴侶としてあったのだろうが。ふたりの、政略上の婚約は、エトセアの滅亡によって解消された。
「でしたら、わたくしのこともファリアと呼んでくださいな」
「ああ。そうさせてもらうよ」
エリルアルムが、ファリアの気遣いに感謝するように微笑んだ。彼女も、皆との再会で少しは安堵しているようだった。ガンディア内でのエリルアルムの知り合いといえば、セツナの周囲の人物となるのだから、彼女が安心するのも無理のない話だ。いまでは仮政府内にある程度の立場を築いているようだし、ナージュたちの信頼も厚いようだが、それとこれとは別の話だ。
「皆が無事でなによりだし、元気そうなのもわかって良かった」
「本当に元気過ぎて困るよ」
「あら、困ってるの?」
「たまにな」
「ふふ……いいじゃない。元気すぎるくらいで」
「そうかな」
「そうよ」
ファリアが目を伏せるようにして、いった。
「こんな世の中だもの」
「こんな世の中……か」
彼女の言葉を反芻して、考え込む。こんな世の中。彼女の言いたいことはわかる。世界は、変わり果てた。“大破壊”によってかつての平穏は遥かに遠ざかり、いまや世界全土が終末に向かっているかのような空気感に包まれている。実際、終末に向かっているのだから、その空気を払いのけることは困難を極めるだろう。世界そのものを変えない限り、不可能かもしれない。
世界は、滅びに向かっている。
世に満ちた神威がこの天地に生きとし生けるものを蝕み続ける限り、待ち受けるのは、すべてのものが神と化した世界であり、それは生きとし生けるものの死滅した世界といっても過言ではないだろう。少なくとも、人間が人間らしく生きられるような世界ではない。
神の徒と化すことを幸福と考え、受け入れることができるものにとっては、望むべくもない未来には違いないが、セツナやファリアたちがそんなことを望むはずもなかった。神威に毒され、神人と化したものには自我はない。生物を超越した生命力を得ることと引き換えに失うものが多すぎる。神人になりたいと想うものなど、そうはいまい。
そんな世界だ。
呆れるくらい元気な方がいいのかもしれない。
「ひとつ疑問なんだが、セツナたちはこの船を使って旅をしているのか? それで、龍府に立ち寄った、と?」
「まあ、そういうことだ。この船を手に入れるまでは紆余曲折あったし、龍府に立ち寄ったのも偶然みたいなもんだが」
「そうか……この船でな」
「大陸がばらばらになった現状、陸路で行ける範囲には限りがあるし、かといって海路を自由に行き来できるわけもない。方舟が手に入ったのは僥倖としか言い様がないのさ」
「そうね。これがあれば、どこへだっていける。なんだったら、リョハンにだって飛んで帰れるものね」
「ああ。いつなんどき、なにが起こったとしてもな」
「リョハン……?」
エリルアルムがまたしても怪訝な顔をした。彼女は、セツナたちの旅路について、なんら知らないのだ。混乱しかけるのも無理のない話だ。
セツナは、エリルアルムにここに至るまでの出来事をかいつまんで説明した。
「なるほど。色々、あったのだな。まあしかし、無事でよかった」
「エリルアルムこそ」
「わたしがこうして何不自由なく生きていられるのは、すべてシーラのおかげだよ。シーラがああやって護ってくれていなければ、ザルワーンはいまごろどうなっていたものか」
エリルアルムが、シーラの連れて行かれた方向を見遣り、嘆息を漏らした。帝国軍に蹂躙されていたか、あるいは、ヴァシュタリア軍の支配地となっていたか。帝国軍とヴァシュタリア軍が支配地を巡って相争い、ザルワーンのひとびともクルセルクのひとびとも、平穏とは程遠い日々を送ることになっていたのは疑うまでもない。そこに仮政府の戦力がどの程度食い込めるものか。
《ところで、セツナよ》
不意に脳内に響いたのは、涼やかな女神の聲だった。唐突ではあったが、一切の不快感がないのは、もはや疑念を抱いてもいないからだろう。セツナたちは、マユリ神に絶大な信頼を置いている。
「いきなりなんだ?」
《いきなりとは失礼な。わたしがなぜミリュウらを連れて、おまえを迎えに来たのか、不思議に思わんのか?》
「……そういえば、そうだな」
ファリアに目を向けると、彼女は首を横に振った。彼女も理由を聞かされていないらしい。おそらく、ミリュウも知るまい。知らせれば騒ぎになると踏んだのか、それとも、セツナを交えて知らせたかったのか。いずれにせよ、なにやら重要な案件のようだということは、想像がつく。
「どういう理由だ?」
《機関室に来よ。見せたいものがある》
「すぐに行く」
セツナは、マユリの言い様になにやら胸騒ぎがして、は即答と同時に歩き出していた。




