第二千百六十三話 ネア・ガンディア(二)
「なにを……いいやがる」
セツナは、方舟が消え去った方角を睨み据えていた。
「ネア……ガンディア?」
「レオンガンド陛下が生きておられたのか……。いや、そこが問題ではないな」
「そこも問題だよ」
「どういうことだ?」
エリルアルムとシーラの苦渋に満ちた表情を見比べ、頭を振る。方舟が、この場にいるすべてのものに対して告げたことは、ザルワーン仮政府軍、帝国軍両者に多大な影響を与えていた。ネア・ガンディアに追われ、ザルワーンに居場所を求めていた帝国軍はまだしも、仮政府軍内の動揺の広がり方は凄まじいものがある。
当然だろう。
まず、守るべきマルウェールが灰燼に帰したことは、仮政府軍の士気を極限まで低下させた。都市の壊滅によってどれほどの死傷者が出たのかまでは把握していないにせよ、都市がこの地上から消滅したことは、常人の目を持ってしても明らかだ。炎に包まれた都市。生存者は絶望的だ。戦意が激減するのもやむなしといったところへ、ネア・ガンディアという名称と、その国家元首としてのレオンガンド・レイグナス=ガンディアの名が明らかにされれば、動揺もしよう。混乱が起きていることも、セツナにはわかっている。そして、その混乱を収める術などないということも。
仮政府軍の軍人たちは皆、ガンディア国民なのだ。仮政府自体が、ガンディアに帰属するものであるという考えのもと、ザルワーン方面の秩序の維持と安定のために作られたものだ。敵と思しき軍勢が、その帰属するべき国の軍勢であると判明したとなれば、だれであれ混乱しよう。
セツナ自身、混乱しかけている。
「本当に陛下が生きておられるのであれば、それほど喜ばしいことはないさ。でもな、陛下は、ただの人間だったんだ。俺達のような召喚武装の使い手でもなければ武装召喚師でもない、ただの人間。そこが陛下の陛下たる所以であり……」
そしてそれが、レオンガンドがセツナを惹きつけてやまない部分だった。
レオンガンド・レイ=ガンディア。ガンディアの“うつけ”と呼ばれたひとりの青年王は、最初から最後までただの人間だった。人間は決して強い存在ではない。どれだけ肉体を鍛え上げても、怪物にはなれない。超人になどなれはしないのだ。だが、だからといって、人外の力を求めるなど論外である、と、レオンガンドは考えていた節がある。
英雄に憧れ、英雄になることを夢見た彼は、しかし、英雄になるためとはいえ、人外の力に手を出さなかった。
それはおそらく、彼が怪物と化した実の父の醜悪な姿を目の当たりにし、その生命をみずからの手で終わらせたことに起因するのだろうが。
いずれにせよ、人間レオンガンドにこそ、セツナが惹かれたのは間違いなかった、
「だからこそ陛下が生きておられるはずがないんだ」
「どういうことだ? 現に彼らは……」
「ああ。だから、おかしいのさ。“大破壊”の爆心地にいて、無事であるはずがないというのに、奴らは陛下が生きておられるといったんだ。しかも神々の真なる王だと……ふざけやがって」
セツナは、胸中に湧き上がる不可解さを吐き捨てるようにして、いった。
「セツナ……」
「その神皇陛下とやらが、レオンガンド陛下そのひとなら、あんなことはしないはずだ」
「……確かにな」
「敵国への侵攻ならばわからくもないが……ここは、ザルワーンだぞ。ガンディアの領土なんだ。自国民を犠牲にするような所業を陛下が望むはずが――」
そういいながら、マルウェールを見遣った瞬間だった。
セツナは、思考が停止する感覚に襲われた。
「どうした? セツナ」
「マルウェールがどうかしたのか?」
「……そういうことかよ」
セツナは、マルウェールを包み込む炎の壁の向こう側を睨み据えた。
爆炎逆巻くマルウェールの内側には、生体反応こそ消失していたが、別種の反応が生じていたのだ。それは、セツナがこれまで何度となく対峙してきた存在の発する波長であり、黒き矛が怒りよりも侮蔑と冷笑を浮かべるものたちがそこに発生したことの現れだった。
つまりは、神人だ。
それも数え切れないほどの数が出現している。
おそらく、先程の神威砲は、マルウェールを壊滅させることによってザルワーン仮政府の意気を挫くだけでなく、ネア・ガンディア側の戦力の充実のために発射されたものなのだ。神人の発生原理は、ある程度判明している。神威に毒された人間が白化症を経、神人化するというものであり、神威砲が高密度の神威を放出するものである以上、直撃を受けた人間が白化症を発症するのは必然といってもいい。ただし、神威砲の威力は凄まじく、通常ならば発症以前に蒸発するように消滅するしかないはずだ。つまり、先程の神威砲は、神人化を促すため、威力を調整していたということになる。そのわりには城壁や建造物が軒並み壊滅しているのが奇妙だが、神の為すことに疑問を差し挟むことはできない。神は、万能に極めて近い存在なのだ。たとえば、建物は破壊して、人間は神人化を促す、といったことくらい、朝飯前に違いないのだ。
「エリルアルム、マルウェールは放棄しよう」
「なにをいいだすんだ、いきなり。全滅と決まったわけじゃ――」
「全滅ならまだましだ」
「なに?」
「どういうことだよ、全滅のほうがましっていったい」
「奴ら、とんでもないことをしやがった」
セツナが厳しい顔でつぶやくのを、シーラたちは固唾を呑んで見守っていたが、彼は彼女たちが望むような説明をしようとは思わなかった。いまは、なによりもこの場を離れるほうが先決だ。いまでこそマルウェールの神人たちは動きを見せていないが、もし神人たちが動き出せば、仮政府軍に被害が及ぶのは避けられない。
「説明は後だ。いまは仮政府軍を纏め、龍府に引き上げることに注力するべきだ」
「わ、わかった」
セツナがそこまでいうなら、と、エリルアルムはすぐさま仮政府軍の首脳陣に話を通すため、馬を走らせた。仮政府軍の指揮官は、ガンディア軍ザルワーン方面軍第一軍団長ミルヴィ=ハボックであり、エリルアルムではない。
一方、セツナは帝国軍陣地に赴くと、レング=フォーネフェルを探し、事情を説明した。レングは、当初こそネア・ガンディアと名乗った方舟の勢力と仮政府の繋がりを疑ったものの、マルウェールの現状を思い返し、疑念を撤回した。もし、ネア・ガンディアと仮政府に繋がりがあるのであれば、わざわざマルウェールを滅ぼさず、帝国軍をこの地より排除するだけでいいはずだからだ。
レングの理性的な判断のおかげで交渉が拗れることがなく、セツナは、彼に感謝を示した。もっとも、レングは感謝するのは自分たちであるといい、ザルワーンに身の置き場を確保できるだけで十分だといった。彼らは、ネア・ガンディア軍によって、クルセルク方面を追われたのだ。
「しかし、彼奴らめ……なぜいまさらになってネア・ガンディアなとと名乗ったのだ? 我々に対しては名乗りもせず、攻撃してきたというのに」
「おそらく、奴らの目的がザルワーン方面の制圧だからでは?」
「どういうことだ?」
「うん、きっと……そういうことだ」
「なにひとりで納得してんだよ」
シーラに頬を引っ張られながらも、セツナは自分の納得を優先した。ネア・ガンディアの方舟が出現してからというもの、疑問に想っていたことがあったのだ。
「奴らはなぜ、いまになってザルワーン方面に進出してきたのか、よくよく考えてみればすぐに思い当たることだったんだ」
「はあ?」
「クルセルク方面から我々を追い出すだけ追い出し、籠もっていた理由か……ふむ、確かに考えればわかることだ」
「だからなんなんだ、それは」
レングまでもが納得し、ひとり取り残されたシーラが不満げに頬をふくらませる。
「シーラだよ」
「俺!?」
「白毛九尾がザルワーン方面を護っていたから、奴らはクルセルク方面で様子見していたんだ。だから、白毛九尾が消え去ったいまになって、こっちに踏み込んできた。白毛九尾が存在していれば、害意あるものは撃退されるからな」
「でもよお、あいつらには神々がついてるんだろ? だったらおかしかねえか? 神々がなんで白毛九尾を恐れるんだ?」
「さてな。それは、あいつらに聞いてみないことには」
「だったら、セツナの思い違いなんじゃないのか?」
「いや、白毛九尾を脅威と認識していないというのは、考えにくい。脅威に値しないのなら、わざわざクルセルク方面に籠もっている必要がないんだ。さっきの攻撃、見ただろ。神の力なら、街ひとつ滅ぼすくらいたやすいんだ。それほどの力を持ちながら、奴らは、白毛九尾がいる間は手出ししてこなかった。ご丁寧にもクルセルク方面に籠もりっきりでな」
「そこまで……」
「シーラには実感がないんだろうが、あの白毛九尾は、神に匹敵する力を持っていたんだ。俺の感覚も、そういっている。俺を信じろよ」
セツナは、納得し難い表情をしているシーラを見つめながら、いい切った。
「そりゃセツナを疑いはしないけど」
「そいつはありがたい」
セツナがいうと、シーラは微笑んだ。
「ま、奴らがどうしていまになってザルワーン方面に攻めてきたのかわかったところで、状況が変わるわけでもないんだがな」
「そうだな……」
「いまはとにかく、龍府に戻ることだ。仮政府の判断を仰がなきゃならん。あんたたちも、龍府に向かってくれるな」
「ああ。すぐさま後方の連中にも知らせ、龍府に向かわせることとしよう。我々も、ネア・ガンディアなる連中に投降するつもりはない。いかに彼奴らが圧倒的な戦力を有していようと、勝てる見込みがなかろうとな」
それが帝国軍人の誇りである、と、レングは言外にいった。
部下たちに指示を飛ばし始めたレングから離れようとすると、シーラが話しかけてきた。
「さっきから疑問だったんだが、仮政府ってのはなんなんだ? ここは、ザルワーン方面だよな? ガンディアの」
「それについては、道すがら説明するよ」
「そうしてもらえると嬉しいな。なんだか、頭がこんがらがってんだ」
シーラが困り果てたような顔でいった。
彼女が頭を抱えたくなるのも無理はあるまい。シーラは、最終戦争の真っ只中、白毛九尾となり、それ以来二年以上もの長きに渡って意識不明の状態だったのだ。この世になにが起こったのかなど、わかるはずもない。さっきのネア・ガンディアに関する話だって、話題についてくることさえできていなかっただろう。彼女に現状を理解してもらうためには、一から説明しなければなるまい。
などと、セツナが考えているときだった。
『セエエエエエツナアアアアアアアアアアア!』
大音声が上空から降ってきて、セツナの頭の中を真っ白に染め上げた。それは、どこか怒りに満ちたミリュウの声だったのだ。




