第二千百六十一話 交渉、そして(三)
「どういうことなのだ、いったい」
「あんたらに小国家群侵攻を命じた先の皇帝シウェルハインは崩御され、ニーウェハイン陛下が跡を継がれたんだ。帝国はいま、ニーウェハイン陛下の名の下にひとつに纏まろうとしている。そんな状況下で、あんたらはまだここで戦争を続けるつもりか?」
「待て。貴公の話が真実である証拠がない。確かに、ニーウェ殿下が正統後継者であると明言されてはいたが……しかし、陛下が崩御されるなど……そのようなことがあるはずが……」
レングが狼狽するのもわからないではなかったし、彼の受けた衝撃たるや想像を絶するものがあるのだろうことも理解できる。それこそ、天地がひっくり返るくらいの衝撃だったに違いない。帝国の人間にとって、皇帝とはまさに天地を支える柱そのものといっても過言ではないはずだ。リョハンにおける戦女神のような存在だったのだ。それほどの人物が命を落とした、という話だけを聞かされれば、取り乱すのも当然だったし、まず疑いを持つのも当たり前の反応だった。
セツナは、レングの疑念に満ちたまなざしを受けて、まずシーラに話しかけた。
「少しの間、立っていられるか?」
「ん? 少しくらいどうってことないぞ」
「無理だったらすぐにいえよ」
「だから、それくらいなんてことないっての」
セツナが徹底して気遣うことに対し、シーラはどうにも気恥ずかしそうに身をよじらせた。セツナが彼女のことを極端に気遣うのは、彼女が二年以上もの長きに渡って眠り続けていたからだ。それはつまり、二年もの間体を動かさなかったということであり、筋肉が収縮し、まともに体を動かすこともできないのではないかという不安があった。しかし、外見上、シーラは二年前となんら変わっておらず、筋肉が落ちている様子もなければ、栄養が足りていないようにも見えなかった。おそらくは、白毛九尾のおかげなのだろうが、だからといってなんの確証もなく、シーラに無理をさせたくないというのがセツナの本音だった。シーラの足を地面に下ろすと、左腕で肩を抱いたままにした。無論、メイルオブドーターの翼でシーラの全身を包み込んだままだ。仮にシーラが立っていられなくなったとしても、彼女が転倒するようなことはない。
それから、懐を探り、目的のものを見つけ次第、怪訝な顔のレングに向かって掲げてみせた。
「これが、なんだかわかるか?」
「海軍の……記章。なぜそんなものを持っている?」
「帝国海軍のリグフォード将軍閣下が、俺の情報源だという証だよ」
セツナが告げると、さすがのレングも息を呑み、それ以上は疑っては来なかった。
帝国海軍は、最終戦争には参加していない。当然のことだ。帝国海軍は、大陸沿岸部にこそ展開しうるのであり、内陸部に戦力を送り込むことなどできるはずもなかった。大海原を渡る海船では、川を進むことなどできるわけがない。たとえ途中まで行けたとしても、小国家群に辿り着けるかどうかも怪しいのだ。故に、セツナが帝国海軍の記章を持っていること自体、ありえないことだった。どこかで、帝国海軍の人間と接触していなければならない。そしてそれは、最終戦争時ではないことは明らかだ。戦争以前もありえない。帝国海軍と小国家群の人間が接触する機会など、ありはしないのだ。
まさか、このようなときのために備えたものではなかったものの、セツナは、リグフォードから手渡された印章の効力に満足した。
印章がなければ、多少、手間取ったのは間違いない。
「では……陛下が……シウェルハイン皇帝陛下が崩御なされた、というのは本当なのか」
レングは、天を仰いだ。空は相も変わらぬ晴れ模様だ。野放図なまでの青空は、彼の哀しみや苦しみを少しくらいは吸い上げてくれただろうか。
「残念ながら、そういうことだ」
「……ニーウェ殿下が、跡を継がれた、と」
「ああ」
セツナは、自身に満ちた表情で頷いたものの、内心では、多少の罪悪感を覚えていた。ニーウェが皇帝を名乗っているのは事実だし、彼が正当後継者であることも事実だ。しかし、彼の皇位継承が帝国のすべての人間に祝福されたものではないということは、隠した。帝国が四つに分かれ、相争っているという事実もだ。そこを明らかにすれば、まず間違いなく話が拗れることになる。帝国は、後継者争いに基づく派閥抗争が凄まじかったという話も聞いている。レングがニーウェ派ならばまだしも、それ以外の継承権所持者を支持していた場合、ニーウェの皇位継承に憤る場合があるのだ。そして、レングが、支持者の極めて少ないニーウェの派閥に属していない可能性のほうが、属している可能性よりも遥かに高い。
それならばいっそのこと、ニーウェが正式に皇位継承を行ったことにしておいたほうが、話もこじれることなく進むというものだ。帝国人ならば、たとえニーウェの継承に不満があろうとも、それが正式なものであるとなれば納得せざるを得ない。でなければ、非国民となる。さすがに、非国民となってまでニーウェの皇位継承に反発するようなものはいないだろう。後継者争いというのは、そういうものだ。負ければ、それまでのことであり、勝利者に付き従うものなのだ。
問題があるとすれば、レングたちが真実を知ったときのことだが、そのときには帝国の問題もある程度片付き、ニーウェの立場も安定しているはずであり、彼らがたとえ反ニーウェ派閥であったとしても大きな問題にはなるまい。
「それで、貴公は、ニーウェ殿下……いや、皇帝陛下に呼ばれ、帝国本土に向かう、というのか」
「ああ」
「……いや、ま、待て。待ってくれ。では、どういうことだ? 我々のこの二年あまりは、全部無駄だったということか? 世界が変わり果てなお、皇帝陛下の勅命に従い、クルセルクを制圧し、ヴァシュタリアを撃退し、秩序の構築と維持に専念してきたこの二年が、すべて無意味だった……と」
レングがその複雑な胸中を露わにする様からは、先程までの怜悧冷徹な指揮官といった風情は消えてなくなり、ひとりの人間レング=フォーネフェルの本性が見て取れるようだった。彼の苦しみは、多少、わからないではない。彼がこの島に取り残されてからの二年余りを考えれば、想像するに余りある。彼は、帝国のため、皇帝のためにこそ、命を尽くし、働いてきたのだ。それがたったいま、皇帝の崩御によって水泡に化したかもしれないとなれば、狼狽えもしよう。
「それを決めるのは俺じゃない。あんたでもないだろう」
「では、だれが決めるというのだ!」
「皇帝陛下に決まってんだろ」
セツナが告げると、彼は虚を突かれたような顔をした。冷酷な蛇そのものに見えた顔も、いまでは可愛げさえ感じられるほどに力を失っている。この二年余りの気合が、先帝崩御の報せによって一気に霧散したかのようだった。彼のように意気消沈しているのは、先帝崩御を知った帝国軍人全員だった。きっと、彼らにとって、先帝シウェルハインの存在は、心の支えそのものだったに違いない。
「……そう、だったな。我々の二年の成果を評価するのは、新皇帝陛下を置いてほかにはおられぬのだな……貴公のいう通りだ。わたしは考え違いをするところだった」
「あんたらはよくやったよ。二年以上、帝国の名を穢すまいと必死にな。その事実を知れば、皇帝陛下も喜ばれるはずだ」
「……貴公は、我々のありのままを伝えてくれるというのか。皇帝陛下に」
「あんたたちが交渉に応じる、というのならな」
セツナは、意地悪く告げて、口の端を歪めてみせた。ふと思い出し、懐に記章をしまい、シーラを抱え直す。シーラが小声で抗議してきたところをみると、立っているだけならば体力的にも問題はないようだった。やはり、筋力はそれほど落ちていないようだ。人間の筋力というのは、鍛錬を怠ればあっさりと落ちるものだ。故に人間は鍛錬を欠かせないのだが、シーラのこの二年あまりは特別らしかった。とはいえ、セツナはシーラのことが心配であり、彼女の抗議を無視して抱き抱え続けた。そのまま、レングを見遣る。
「それで、どうする? 仮政府との交渉に応じる気にはなったか」
「なった。なったとも。皇帝陛下が崩御なされたということは、皇帝陛下の勅命による小国家群の制圧は、一時取り止めにならざるを得まい。ニーウェハイン陛下が先帝の御遺志を継がれるのであれば話は別だが……それも明言されぬ限り、勝手な真似はできん。だがな」
「ん?」
「仮政府の要請はなんだ? 我々がクルセルクを追い出されたと知っているのならば、いまさらクルセルク方面に帰れなどとはいうまいな」
「まさか」
セツナは、レングの思わぬ言い様に笑うほかなかった。
「あんたたちへの要望ってのは、なんてことはない。ただ、ザルワーン方面への侵攻を辞めて欲しいというだけのことさ」
できれば、クルセルク方面を帝国軍から取り戻したいという想いもないではないが、いまはそこまで求めるべきではない。そも、クルセルク方面の大半は、既に帝国軍の手を離れている様子なのだ。彼らにいったところで、詮無きことだ。
「それで、我々はどうなる? 彼奴らと貴公ら仮政府に挟まれ、滅びを待てというのか」
「だから、さっきもいっただろ。あんたたちが矛を収めるってんなら、ザルワーン方面に受け入れてやってもいいってな」
「小国家の保護下に……か」
「納得出来ないか?」
「……いや、いまは、貴公の言に従うべきだろうな」
レングは、冷静な表情を取り戻しながら、告げてきた。
「先帝が崩御なされ、ニーウェハイン陛下が誕生したというのだろう。我々は、ニーウェハイン陛下の忠実な家臣でなければならん。それがどういうことかわかるか? 我々の一存で死に場所を決めてはならんということだ。我々の死に場所を決めるのは、皇帝陛下ただおひとりのみ」
レングが力強くいい切ったその言葉こそ、彼ら帝国軍人の生き様であり、生き方だったのだろう。それがあるがゆえに、この二年あまりに渡るクルセルク方面の制圧と維持がなせたのだ。
「新皇帝陛下が我々に新たな命を下されるそのときまで、なんとしてでも生き延びねばならんということだ」
「……ニーウェハイン陛下も、きっと喜んでくださるさ」
「そうだといいが……」
レングが微妙な表情をしたのは、新皇帝ニーウェハインが彼らにとって未知に等しい存在だからというのが大きいのだろうか。ニーウェは、元々、後継者争いにおいて最下位どころか圏外に置かれていた身だ。それが、どういうわけか正統後継者に任命されたのだから、帝国全土には凄まじい衝撃と驚愕の嵐が巻き起こったというのだ。帝国におけるニーウェの立場というのは、極めて弱かった。本来ならば正当後継者に任命される可能性など、万にひとつもないくらいだったそうだ。それがどういう理由なのか、任命されたのだから、嵐も起ころう。
ニーウェがどういった人物であるのかを知らないレングにとって、新皇帝が自分たちをどのように評価するのかは気になるところだろうし、不安も大いにあるだろう。後継者争いは、勝者に栄光を与えるが、敗者には滅亡を与えることもある。後継者争いに勝利した結果、反対勢力に属していたものを尽く滅ぼした、という例は、どこの世界、どこの国にも存在するのだ。
帝国だけが特別、ということはあるまい。
とはいえ、ニーウェの事情を考えれば、対立した派閥の人間だからといって気軽に処分できるわけもなく、その点においてセツナはなんら心配していなかった。きっと、ニーウェはレングらを西ザイオン帝国に取り組むべく働きかけるだろうし、そのための努力を惜しむまい。
「ともかく、戦闘態勢を解き、こちらに従ってくれるか?」
「しばし待たれよ。すぐに手配する」
「ああ」
「……交渉、上手くいったな」
「なんとかな」
セツナは、シーラを抱えたまま、後方に向き直った。その際、レングの側近と思しき武装召喚師の女の視線を感じたが、一瞬の出来事であり、また、エリルアルムたちが駆け寄ってきたこともあり、振り返ることはしなかった。そして、すぐに忘れた。ただ、相手の耳に入る可能性を考慮して、帝国の事情についてシーラたちにも話さない程度の警戒はしたが。
エリルアルムは、セツナの目の前で立ち止まると、凛とした笑みを浮かべた。
「帝国軍との交渉は万事うまくいったようだな」
「まあな」
「さすがはセツナだ」
「危なっかしくてひやひやものだったんだけど」
エリルアルムの賞賛に対し、シーラが不満をもらしたそのときだった。
突如として頭上が白く染まったかと思うと、閃光と爆音が大気を震撼させた。