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第二百十五話 昔日の彼方

『父上、どうかご無事で』

 王都メリス・エリスを発つ朝、彼の息子クローシュは、いつになく真剣な表情を浮かべていた。クローシュ=バルゼルグは、グレイ自慢の息子であった。まだ年若いにも関わらず、メリスオールの親衛隊長に抜擢され、王からの評価も高かった。グレイともども、バルゼルグの家名をメリスオールに知らしめている。

 クローシュは、妻に似ている。気の強そうなまなざしも、尖った耳も、彼女そっくりだった。しかし、他人にいわせるとグレイによく似ているということであり、両親の特徴をよく受け継いでいるということなのだろう。しかし、人格はまるで違う。クローシュはグレイほどの重みはなく、かといって軽薄というわけでもない。軽すぎず、重すぎず。熱すぎず、冷めすぎず。側に置くにはちょうどいいのだ、というのは王の言だった。

 メリスオールの王ニルグ・レイ=メリスオールは、評価に厳しい人物だった。長年、彼の側に仕えてきたグレイですら、ニルグから褒められたことは数えるほどしかない。それでも彼ほどの主君はこの地上には存在しないのだと、グレイは確信していた。

『おまえこそ、く務めよ』

『わかっております。身命を賭してでも陛下の身を御護りするのが、親衛隊の務め』

 それが、クローシュと交わした最後の会話だった。

 クローシュは死んだ。どのようにして死んだのかはわからない。抵抗できたのだろうか。ちゃんと、死ねたのだろうか。王の御身を護る盾として、死ぬことができたのだろうか。有無をいわさず殺されたのならば無念だろう。なにもできぬまま、ものいわぬ屍と成り果てることほど悔しいことはない。死ぬのならば、やれるだけのことをやって死にたいものだ。

 グレイ=バルゼルグは、月に照らされた廃城を見遣っていた。

 メリスオールの王都メリス・エリス。かつて栄華を誇った都市も、いまや廃墟そのものだ。幽鬼が漂い、魍魎が跋扈してもおかしくはないような景色だ。長年放置されていた街には雑草が伸び放題で、昼間の地面は、ほとんど緑色に染まっているといっても過言ではない。いまは、月明かりに照らされて、青々と輝いているだけだが。

 風が、冷ややかに流れていく。まるで、生き残ってしまったグレイたちを嘲笑うかのようであり、これから死に行こうとする彼らを歓迎するかのようでもある。

 王都は死都と化したのだ。

(陛下……)

 グレイの脳裏に浮かぶのは、若き日のニルグの姿だ。

ニルグ・レイ=メリスオールは、グレイが仕えるべき主君と見定めた唯一の人物だった。彼以外の主は存在しないのだ。ザルワーンに降った後も、彼の主は国主ミレルバス=ライバーンではなく、ニルグであり続けた。無論、ミレルバスに言い放ったことはない。が、態度でわかっただろう。ミレルバスはグレイの支配者ではあったが、忠誠を誓うべき主君ではなかった。

 瞑目すると、瞼の裏にあの日の夕焼けが燃え上がる。数十年の昔。グレイがまだ若造であった時代。小国家群が躍動し、各地で毎日のように小競り合いが起きていた頃。黄金時代。

『はははっ、今日も負けたなあっ!』

 夕日の下に響くのは、野放図なニルグの声だ。馬鹿みたいな大声で敗戦の陰鬱とした空気を吹き飛ばしていく。馬上の若き王は、惨憺たる姿を夕焼けに曝していた。鎧はずたぼろで、肩に担いだ剣の刀身も折れている。惨敗。そんな言葉がよく似合った。

『やはりジベルは強いですなあ』

『勝てる気がしないんだが、どうすればいいんだろうな』

『こちらも兵を鍛えあげるしかありませんか』

『つってもよ、そういって鍛えてきた兵が勝てないんだぜ?』

 何度目かもわからないジベルへの侵攻は、大敗によって幕を閉じた。しかし、ニルグは勝敗の見切りがいいのか、死者の数はそれほど多くはなかった。一度の戦いで死者を百人以上出すことはほとんどなく、だからこそ、度々外征を起こすこともできたのだろうが。とはいえ、度重なる出征は、国庫を空にするに等しく、今回の敗戦によって、しばらくは戦いもなくなるだろうというのが、敗走中の兵士たちの足を軽くしていた。

『陛下!』

 そんな中、グレイは隊列を抜け出し、ニルグの元に駆け寄った。無礼を承知で声を上げたのには、理由があった。

『なんだ貴様?』

 ニルグがグレイの姿を一瞥して、怪訝な顔をしたのは当然の反応だっただろう。一部隊長の顔など覚えているはずもない。

『グレイ=バルゼルグですな。バルゼルグ家の長男で、今回から隊を率いさせておりましたが』

『あー、あの爺のところのガキか。大きくなったなあ! 懐かしい!』

『はっ……?』

 グレイは、ニルグの表情が一変したことに驚き、唖然とした。グレイの頭の中には、ニルグとの思い出などほとんどなかったからだ。拝謁した記憶もなければ、声をかけてもらったという思い出さえなかった。ニルグはまさしく雲上人であり、本来なら、こうして声をかけることすら憚られたのだ。

 そう、教育を受けてきた。

『おまえが爺について王宮にきたときのことを思い出したのさ。ま、あのころは俺もガキだったがな』

『陛下はいまでもそのころの気分が抜けないようですがね』

『いうな』

 将軍が笑うと、ニルグは憮然としたようだった。それにしても、王に対して遠慮のない将軍だったが、それもそのはずである。将軍は、ニルグの叔父であり、ニルグの父である先王亡き後、ニルグの後見人として長年見守り続けてきたのだ。言葉に容赦がないのも、当たり前なのかもしれない。そして、それを平然と受け入れているのは、ニルグの度量の広さゆえなのか、どうか。

『で、バルゼルグのガキがなんのようだ?』

 ニルグの目が、グレイを見据えていた。当然、隊列は止まっている。ことの成り行きを、だれもが固唾を呑んで見守っているのがわかる。視線が自分に集中しているのを、グレイは感じていた。緊張よりも、悔恨の念が強い。戦場の風景が蘇る。敗戦のきっかけ。

 空気が乾いていた。風は冷ややかで、敗軍の列を嘲笑するように吹き抜けていく。

『此度の敗戦、我が隊が持ち堪えられなかった故。どうか、厳正な処分を!』

 グレイは、ついにいった。彼は与えられた部下を御しきれなかった自分の無能を悔いていた。指揮官としての才能もなければ、経験もない。隊に纏まりはなく、迫り来る敵兵を前にして、陣形が瞬く間に崩れてしまった。そこから、メリスオール軍の敗北は始まったといってよかった。グレイがもう少し持ち堪えていれば、戦況は変わったかもしれない。失態だった。

『処分……ねえ』

 ニルグは、気乗りがしないといった顔でこちらを見ている。夕日の紅い輝きを帯びた表情は、物憂げで、退屈そうですらあった。たかだか部隊長の処分如き、王直々に判断するものではないと思っているのかもしれない。事実、その通りだ。グレイも、なぜニルグに直接処断を求めたのか、自分でもわかっていなかった。

 衝動、だろう。

 だれもが陰鬱な敗軍の隊列の中で、ニルグの声だけが明るく響いていた。それが許せなかったのかもしれない。冷水を浴びせたかったのかもしれない。浅はかで、愚かな考えだ。それでもグレイは真剣だったし、どのような処分が下されても構わなかった。不敬罪で切り捨てられても、文句をいうつもりもなかった。

 ニルグが、ふと、なにかを思いついたのか、少し笑った。そして口を開く。

『貴様、いま俺が死ねといえば死ぬつもりか?』

『はっ』

『たとえ一時の感情で下した理不尽な命令でもか?』

『それが王に仕えるものの務め』

 逡巡もなく即答すると、ニルグは、あからさまに失望したような表情を見せた。グレイには、彼の反応がわからない。王命に従うことのなにがいけないのか。王のために生き、王のために死ぬ。それがバルゼルグ家の人間のさだめなのだと、祖父や父から教わってきた。それだけがこの世の理なのだと、祖父も父も信じていたし、彼も信じていた。そこに疑念を挟む余地はないのだ。メリスオールが彼の生きる世界であり、その天地を支える柱がメリスオールの王なのだから。

『馬鹿か。王が間違ってりゃ間違ってると剣を突きつけるのが臣民の務めだ。王が常に正しいことを行うと考えているとすりゃ、大きな勘違いだぜ』

 ニルグは、折れた剣の切っ先をこちらに向けてくる。彼は、本気で怒っているようだった。グレイには彼の理屈が全く理解できなかったが、それは立場が違うからだろうということはなんとなくわかった。立ち位置が違えば、見えてくる風景も変わってくるものだ。グレイも、兵士から隊長になって、目に映る景色は変わった。戦場を広く見るようになったのだ。もっとも、結果はついてこなかったが。

『王も人間、臣民も人間。だれもが過ちを犯し、罪を負うものだ。王が道を間違ったとき、貴様は見て見ぬふりをするつもりか?』

『それは……』

 グレイが返答に窮すると、ニルグは大きくため息をついた。興を削いだのだろう。

『じゃあ、死ねよ。いますぐ死ね。貴様のような能なしに用はない。ほら、これで腹切ってみせな』

 ニルグが投げて寄越してきたのは、王家の刻印が入った短剣だった。グレイは、足下に投げつけられたそれを拾うと、すかさず鞘から抜いた。銀の刀身が夕日に輝く。躊躇はなかった。王の不興を買い、死を賜ったのだ。バルゼルグ家の人間としては、ここで死ぬことになんの迷いもない。

『では!』

 グレイは、短剣を逆手に持つと、即座に自分の腹に刺した。だが、凄まじい痛みのせいで、腹を切り裂くということはできなかった。

『馬鹿野郎! 本気にする奴があるか! だれでもいい! このガキを助けろ! 死なすんじゃねえぞ、いいな!』

 激痛の中で、グレイは、ニルグの怒号を聞いた。この王のためになら死ねる。若く、青かったグレイは、薄れゆく意識の中でそう確信したのだ。なぜかはわからない。人間の感情とは、そのようなものかもしれない。

 暴力的な痛みの中で、彼は確かに感じたのだ。

 王の愛を。

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