第二千百五十八話 二年以上のときを超えて
「二年だ」
セツナは、白毛九尾の消え去った虚空からシーラに視線を戻して、告げた。
「二年以上も、待たせた」
「二年以上……か。俺の実感としては、そんなに経ってないんだけどな」
「済まなかった」
「だから、なんでそう謝るんだよ。セツナが悪いことなんてひとつもないだろ」
「そんなことは……」
「あるよ」
シーラの青い虹彩は、いつも以上に輝いてみえた。それはきっと、間違いなくこの純白の世界の輝きに照らされているからなのだが、シーラ自身の生命力そのもののように感じもした。
「こうして迎えに来てくれたんだ。それを邪険にするだなんてとんでもないことだし、嬉しくないわけがないだろ」
「ありがとう……」
「な、今度は急になんだよ」
「生きていてくれて」
「それは……白毛九尾のやつにいってくれよ」
シーラが少しばかり照れくさそうにしながらも、同時に誇らしげな表情でいった。
「あいつが、俺を生かすために気張ってくれてたんだ。でなきゃ、とっくに命を使い果たして、死んでいてもおかしくねえからな」
「ああ。感謝してるよ、もちろんな」
「そういってくれると、あいつもきっと喜ぶよ。なあ、白毛九尾」
そういって、シーラがハートオブビーストを軽く掲げた。装飾の多い斧槍は、彼女の意思に反応するかのように波紋を浮かべる。
すると、その瞬間、彼女の全身が淡い光に包まれたかと思うと、彼女の身を包み込んでいた装束、狐耳や九つの尾が光の粒子となって散っていき、同時に九つの尾で形成されていた白い世界が音もなく崩れ去った。そして視界に広がるのは晴れ渡る空と広大な荒野であり、戦場であり、対峙する二勢力の陣容だ。なにもかも一瞬の出来事であり、同時にシーラの姿にも変化が起きている。
彼女の肉体に起きていた変化が消えてなくなり、一糸まとわぬ姿になったのだ。が、その姿が衆目に晒されることはなかった。狐耳や九つの尾、装束が消滅する瞬間、メイルオブドーターの翼が彼女の全身を包み込んだからだ。まるでシーラが黒い衣を身に纏ったかのようになる。これならば、彼女が恥ずかしがることもないだろう。そして、そのままの彼女を両腕で抱きかかえる。
白毛九尾の巨躯が消滅したのだ。中にいたセツナたちは、上空高く放り出されたも同然だった。片方の翼だけでは安定して飛行することはできないが、その場に降下するだけならばなんの問題もない。セツナは、妙にどぎまぎしているシーラのことを気遣いながら、ゆっくりと地上への降下を始めた。その間、周囲の反応が様々な声となってセツナの耳に飛び込んできている。
セツナが白毛九尾に飲み込まれている間、状況に多少の変化が生じていた。そのひとつが、マルウェール側の動きだろう。仮政府軍とでもいうべき軍勢が、九尾の立っていた地点を挟んで、帝国軍と対峙していた。ガンディア軍ザルワーン方面軍第一軍団、龍宮衛士一番隊に加え、エリルアルム率いる銀蒼天馬騎士団の面々だ。兵数は二千程度。帝国軍との兵力差は明らかだ。しかも、彼らが頼みにしていた九尾が消滅したことが生む動揺は計り知れない。
「九尾様が……消えた!?」
「いったい、これは!?」
「そんな……!?」
ザルワーンの将兵たちの悲鳴にも似た声が聞こえれば、
「九尾が消えたぞ!」
「いまが好機では!?」
「いや、止めておくべきだ。先程の警告、忘れたか」
帝国軍将兵の反応もまた、セツナの耳朶を震わせた。
九尾の怪獣が消滅したことに驚愕しているのは両軍共通の反応として、ザルワーンのひとびとにとっては守護神を失ったも同然であり、その悲痛な反応たるや、シーラを取り戻したことへの喜びを薄めるものとなった。だが、シーラをあのまま放っておくわけにはいかなかったし、九尾はいずれ消滅するものだったのも事実だ。気に病むことはないはずだ。
一方、帝国軍は、これまで散々ザルワーン方面への侵攻を食い止められた対象である九尾の消滅に対し、当然のように好機を見出した。帝国軍の戦力からすれば、仮政府軍など取るに足らぬ存在であり、九尾に邪魔さえされなければマルウェール以西などとっくに制圧している心づもりだったはずだ。それを食い止めていただけでなく、帝国軍を蹂躙さえしていた九尾が消えたのだ。好機に湧くのは当然だが、指揮官らしき人物の一声が、逸る兵士たちを押さえ込んだようだった。
先程のセツナの牽制は、無意味ではなかったということだ。
地上に降り立つと、マルウェール側から駆け寄ってくる騎馬があった。
「セツナ! 無事か!」
鋭く勇ましい声は、エリルアルムのものであり、セツナはシーラを抱きかかえたまま、彼女を振り返った。馬上のエリルアルムは銀と蒼の甲冑を身に纏っており、まさに騎士公の肩書に相応しい威容の持ち主だった。
「ああ、シーラも、無事だよ」
「そうか! シーラも!」
「エリルアルム殿か」
「ああ。シーラのこと、随分心配していたぞ」
「そうか……エリルアルム殿が……」
エリルアルムは、部下を連れ立ってセツナたちの目の前で馬を止めると、飛び降りてきた。セツナよりも余程上背のある彼女は、シーラの顔を覗き込み、無事を確認してはにかんだ。シーラもそんなエリルアルムの反応が嬉しかったのか、口元をほころばせた。
「無事で……なによりだ。シーラ」
「心配をかけたようで……」
「いや、よいのだ。無事ならばそれで」
胸をなでおろすようなエリルアルムの表情は、彼女がシーラをどの程度信頼しているのか見て取れるようだった。
「そうだ、エリルアルム。シーラに着るものを用意してやってくれないか」
「着るもの……? あ、ああ、わかった。すぐに手配しよう」
エリルアルムは、セツナの腕の中のシーラの様子を一瞥しただけで、セツナがなにをいわんとしているのかを察したようだった。部下を呼びつけ、なにやら命令する。その様子を眺めながら、セツナはシーラにいった。
「それまではこのまま我慢してくれよ」
「いやまあ、不満はないけどよ……ちょっと、恥ずかしい」
「我慢してくれ。さすがに着替えの用意なんて思いつかなかったんだ」
「うう……」
セツナは、シーラが腕の中で恥ずかしそうに身動ぎするのを気の毒には想ったものの、これ以上、彼女のためにしてやれることも思いつかなかった。メイルオブドーターを着せるという手もあるが、残念ながらメイルオブドーターは軽装鎧であり、上半身しか隠せない。メイルオブドーターを使ったこともないシーラには、翅の制御などできるわけもなく、下半身丸出しとならざるを得ない。それならば、セツナがメイルオブドーターの翅を制御して、シーラを包み込んであげたほうが、確実だろう。翅は、蝶の羽のように薄く、透けているが、幾重にも折り重ねることで透き通ることはなくなる。
「さて。帝国軍の指揮官はどこのどいつだ」
「帝国軍? あいつらが?」
シーラが訝しげな目で、こちらに警戒したまま動く気配を見せない軍勢を見やった。雲霞の如き、などというほどにはないにせよ、自軍に比べれば遥かに多い数の将兵の群れには、やはり、多少なりとも緊張を覚えるものだ。大地に空いた大穴より後ろに布陣したまま動いていないのは、セツナの警告が余程脅威に感じたからであり、第三勢力に追いやられているだろう状況にありながらも冷静な判断を下せる指揮官がいるということだろう。
つまり、その指揮官が帝国軍の全権を握っているというのなら、交渉の余地はあるということだ。
「っていうか、ここはどこなんだ? それにいったい……なにがどうなって?」
「詳しい話は後だ。長くなる」
「あ、ああ……わかった」
不承不承うなずいてから、シーラは、はたとなにかに感づいたようだった。セツナを上目使に睨んでくる。その視線の鋭さたるや、かつて獣姫と謳われたシーラの勇猛さを表すものといえるだろう。
「ってか、このまま交渉に行くつもりじゃねえだろうな?」
「そのつもりだけど?」
「おい、冗談だろ」
「なにが」
「俺」
シーラが、黒い羽衣の中から右手を出し、人差し指で自分の顔を示した。すぐに手を懐に戻したのは、肌を晒しているような感覚があって恥ずかしかったからだろう。
「ああ?」
「恥ずかしいっていったばかりなんだけど」
「エリルアルムが着るものを用意してくれるまで時間がかかるだろ。帝国軍がいつまでも待ってくれるとも限らないし、できるだけ早いうちに交渉しておかないといけない」
「そりゃあわかるけどよお……」
「それとも、エリルアルムと一緒にここで待っているか?」
「裸でかよ」
「待つなら、そうなるな」
「セツナは、俺の裸がほかの連中に見られてもいいってのか」
「んなわけないだろ」
シーラが冗談半分にいってきたことに対し、セツナは、わざとらしいまでの物言いをした。
「おまえは俺のものだ」
「……うん」
(あれ?)
シーラが笑いもしなければ力強く否定することもなく、静かにうなずいてきたことは、セツナにとって想定外の反応だった。しかし、それ以後、セツナの腕の中でシーラが黙り込んでくれたおかげで、セツナはようやく帝国軍との交渉に乗り出せるのだから、間違いではなかったのだろう。