第二千百五十七話 白毛九尾、再び(十二)
「セツナ。あなたはなにも悪くないだろ。俺はあなたの部下で、あなたは俺たちに命じただけのことだ。そして、その命令に従うのは当然のことなんだ。理不尽な命令だとか、死にたくないってんなら、部下をやめればいい。そうする自由くらいあったんだからな。でも、俺や皆は、あなたの部下を辞めなかった。それはつまり、あなたの命令で死ぬことも受け入れたってことなんだよ」
「シーラ……」
セツナは、彼女の青い瞳を見つめながら、その名を呼んだ。シーラ。彼女には散々辛い目に遭わせたはずだ。最終戦争における龍府防衛の任は、ある種の自殺行為にほかならない。北から迫りくるヴァシュタリア軍の圧倒的物量を受け止めるのだから、死ねといっているようなものだ。それでも、シーラたちはなにひとつ不服を漏らさず、反発もしなかった。彼女がいったとおり、死ぬことさえ受け入れていたということなのだろうが、だからといって、かの戦いのすべてを肯定できるわけもない。
彼女は、多くを失った。
少なくとも、彼女とともにガンディアに下り、黒獣隊の一員となった元侍女たちは皆、命を散らせたようだ。故にこそ彼女は力を暴走させ、白毛九尾となって荒れ狂ったのだ。それほどの哀しみと怒り、そして絶望があった。
責められて当然のことをしたのだ。
しかし、シーラの表情にも声にも、セツナの責任を追求しようという想いが一切なかった。むしろ、そんなセツナをいたわり、慈しむような優しさがあった。
「そりゃあ、皆を失ったのは辛かったさ。絶望もした。でも、その責任をセツナに問うのは筋違いにも程があるってもんだ。そんなこと、あいつらだって望んじゃいねえ」
あいつらとはもちろん、シーラの元侍女であり、黒獣隊の主要人員だったものたちのことだ。ウェリス=クイード、クロナ=スウェン、ミーシャ=カーレル、アンナ=ミード、リザ=ミード。皆、気のいい女性ばかりだった。シーラの幸福だけを望み、シーラのためだけにその人生を捧げてきたものたち。シーラは、そんな彼女たちのことを心の底から信じ、頼みにしていたのだ。だからこそ、その喪失の痛みは大きく、絶望的だったに違いない。
セツナにしてみれば、ファリアたちを失うようなものだろうか。
だとすれば、到底、耐えられるようなことではなく、セツナは、シーラの心痛を想った。そして、そんな彼女のためになにができるのかと考えた。
「あいつらの望みは……もっと別のところにあったからな」
「皆の望み……」
「ふむ……そうであったな。つい、忘れておったが」
「忘れないでくれよ、白毛九尾。あなたも俺にとって大切な仲間なんだからな」
「……うむ。忘れぬようにせねばな」
ハートオブビーストこと白毛九尾が、少し、嬉しそうに微笑んだ。そして、セツナに視線を移してくる。長い睫毛に縁取られた金色の瞳にセツナの顔が映り込んでいた。
「よし、ではセツナよ。改めて約束せよ」
「ん? 約束?」
「これからシーラを決して離しはせぬ。添い遂げる、とな」
「はあ!?」
真っ先に素っ頓狂な声を上げたのはもちろん、シーラだ。そのシーラのあまりにも激しい反応のせいで、セツナが反応できなかったのは当然のことといっていい。白毛九尾の発言に取り乱したシーラが、彼女の胸ぐらを掴んだ。シーラの顔がこれまでにないくらい真っ赤に染まっていた。
「白毛九尾、て、てめえなにいってんだよ!」
「なにとはなんじゃ。皆の望みをいうたまでのこと。シーラよ、そなたはなにを恥ずかしがっておる」
白毛九尾は、シーラに凄まれても涼しい顔だった。むしろ、そんなシーラをこそ愛おしいとでも想っているような表情であり、態度だ。シーラが唸る。
「はああ!?」
「そなたも、セツナと添い遂げたいと想っておったではないか。まさか、心変わりしたわけではあるまいな?」
「……そ、そんなわけがあるかよ!」
シーラが一拍の間を置いて白毛九尾に言い返すと、白毛九尾は静かに微笑んだ。そして、シーラが我に返ったのは、数秒後のことだ。自分がなにを大声で宣言したのかを冷静に考えた結果なのか、彼女は顔を真っ赤にしながらセツナに向き直ってきた。
「って、あああ、あーその、セツナ、違う、違うんだ! いや、違わないけど、その、なんていうか……!」
激しく狼狽するシーラの表情、言動は、彼女の本心を隠そうともしていない。凄まじいまでの熱を帯びた愛情を感じる。だから、というわけではないが、セツナは、そんな彼女を見つめながら、静かにうなずいた。
「ああ。約束するよ、白毛九尾」
「本当じゃな? 今度こそ、約束を破ったら承知せぬぞ」
「わかっている。今度こそ、約束は護る」
今度こそ、と念を押されるまでもない。
約束を一度破ってしまった。それはもはや取り返しのつかない過ちとなった。多くのものを失い、多くのひとを傷つける結果になった。だれひとりとして傷つかなかったものはいないだろうし、失ったものの多くは二度と取り戻せまい。約束を破るとは、そういうことだ。取り返しのつかないことになるのだ。それが嫌なら、最初から約束しなければいい。そうすれば、少なくとも約束の反故による喪失はない。ただし、その場合、約束を結ぶことによる絆も生まれ得ないが。
もちろん、セツナが約束を結ぶとき、そんなことを考えているわけではない。そんな深く考えるようなことではないのだ。ただ、約束を結んだ以上、破るようなことだけは決してしたくないというだけの話であり、だからこそ、自責の念があり、自戒が生まれるのだ。
もう二度と、と。
「って、おい、セツナ、おまえまでなにいって……!」
シーラが絶句するのを見て、セツナは、彼女に向かって質問した。
「シーラは、俺の側は嫌か?」
「そ、そんなわけねえだろ! なにいってんだよ!」
「だったらそれでいいじゃないか」
「いや、そりゃあ、まあ、そうだけどよお……」
不承不承といった様子ではなく、なんとも気恥ずかしそうにしながらも肯定するシーラの姿を見て、だろう。白毛九尾は至極満足げにうなずいた。
「うむ。これで万事うまくいったのう」
「なにがだよ、馬鹿」
「色惚け娘にはいわれたくないわ」
「くっ……」
白毛九尾の発言に対し口惜しげなシーラだったが、そんな風に好き放題いえる間柄だということが見て取れて、セツナは心底安堵していた。シーラとハートオブビーストの間に結ばれた絆というのは、召喚武装とただの召喚武装使いが持ちうるものではあるまい。余程波長があったのだろうし、ハートオブビーストがシーラを気に入ったのだろう。シーラの気性、性格、精神性ならば、どのような召喚武装でも気にいるように思えなくもないが、ともかく、稀有なことではあった。
少なくとも、ここまで心を通わせあった召喚武装と召喚武装使いの話は、聞いたことがなかった。
「さあ、戻ろう、シーラ。まだやらなきゃならないことが残っているんだ」
「そうじゃ、セツナよ。あやつらをどうするつもりじゃ?」
あやつらとは無論、帝国軍のことだろう。白毛九尾には、帝国軍がどういった意図でマルウェールに押し寄せたのか、まるで理解できていないのだ。彼女はただ、ザルワーン方面に押し寄せた敵としか認識しているに過ぎない。故に圧倒的な力でもって蹂躙しようとしたのであり、セツナの制止に怒り狂ったのだ。
「説得するつもりだ」
「説得か。無駄じゃと想うがな」
「そのときはそのときさ」
「セツナ……」
「なにを惚れ直しておるのじゃ、この色惚け娘が。さっさとナインテイルを解かぬか。でないとそなたの身が持たぬぞ。愛しいセツナを堪能できぬぞ」
「うっ、うっさいわ!」
白毛九尾に食って掛かったシーラだったが、召喚武装のハートオブビーストを掲げると、はたと思い出したように顔を赤らめた。
「……いや、でも、その……」
「どうした?」
「そうじゃ、なにを恥ずかしがっておる。さっさとせぬか。あまり待たせてはろくなことにならぬぞ」
「だ、だから、これを解いたら、だな」
シーラがもじもじとしているのを見て、セツナは、あのときのことを思い出した。アバード動乱の際、シーラはセツナの説得によって白毛九尾を解除したのだが、そのとき、シーラは身につけているものすべてを失い、全裸のまま外に放り出されるということになってしまったのだ。そのときのことを思い出し、恥ずかしくなってしまうのは無理のないことだ。白毛九尾の外がどうなっているのかは、彼女も知っているだろう。
「ああ、そういうことか。だいじょうぶだ、俺がなんとかする」
「……信じて、いいんだな?」
「信じろ、俺を」
「うん……わかった」
シーラはセツナの目を見て、うなずいた。
「ようわからぬが……まあ、よい。セツナよ」
「ん?」
「シーラを幸せにせねば承知せぬぞ」
白毛九尾の金色の瞳が、強く輝いていた。そこには裏切りを許さないという強い意思があった。強く、激しい想い。それこそ、シーラへの愛情の片鱗だろう。だから、というわけではないが、セツナは、彼女の目を見つめたまま、うなずいた。
「ああ、わかっているよ、白毛九尾」
「その言葉、信じておる。ではな」
そういうが早いか、白毛九尾の全身が淡い光を帯びたかと想うと、虚空に溶けて消えた。余韻さえ残さないほどの早業だった。それでもセツナもシーラも、しばらく虚空を見つめ続けた。白毛九尾の加護あってこその今現在であることは、明白だ。
「……俺にできることならなんだってするさ。それが俺の望みだからな」
周囲のひとたちには、自分に関わるひとたちには幸せになってもらいたい。それがせめてもの恩返しであり、セツナの心からの願いだ。それは、変わらない。