第二千百五十六話 白毛九尾、再び(十一)
「シーラ」
セツナは、毛玉そのものといって差し支えないそれに触れながら、話しかけた。大きな毛玉の中には、シーラがいるに違いない。それは、毛玉を通じて伝わる心音からもわかる。生きているのだ。この毛玉の中で、眠っているのだ。
「聞いているなら返事をしてくれよ。なんでもいい。どんなことでもいい」
罵倒でもいい。侮蔑でもいい。怒声でも、嘲笑でも、なんでも、どんな言葉であっても、構わない。
「声を聞かせてくれよ。お願いだ……」
セツナは、懇願するようにいった。乞い願う以外になかった。ただ、一言、シーラの声が聞きたかった。声さえ聞くことができれば、彼女が生きていて、意識があることさえわかれば、それでいい。その結果、彼女の怒りが吹き荒れ、セツナがどのような目に遭おうが構いはしない。彼女がもとに戻ってくれるなら、この身がどうなろうと知ったことではないのだ。
「シーラ」
だが、ナインテイルによって作られた毛玉に反応はなかった。
何度呼びかけても、どれだけ心の底から呼びかけても、なんの反応もなかった。ただ周期的な拍動があるだけで、なんの変化も起きないのだ。だからといって諦めるわけにはいかなかったし、絶望に暮れるわけにもいかない。しかし、こうまでなんの反応もないというのは、セツナとしても辛いものがあった。
「シーラ……」
「無駄じゃ」
声が、頭上から降ってきた。気高くもどことなく可憐な響きを持った女の声。冷ややかで、突き放すような声音は、セツナを責めているようでもあった。実際、セツナの責任を問うているのは間違いない。
「いうたはずじゃ。シーラの心は、壊れた。壊れてしもうた。それもこれも、そなたがシーラを見離したからじゃ」
見上げると、白い空からひとりの少女が静かに降下してきていた。少女。そう、少女だ。見た目には十代半ばくらいの少女にしか見えなかった。だが、決して見た目通りの年齢などではないことは、想像がつく。ただの少女ではない。人間によく似た外見をしているが、身体的特徴は、ハートオブビースト・ナインテイルを発動したシーラにこそ酷似していた。つまり、純白の長い髪の間から狐耳が飛び出し、背後には九つの尾が揺れているのだ。身につけているのは、和服に見えなくもない装束であり、その上から羽衣を纏っている。素肌も透き通るように白く、気の強そうな顔つきは、セツナを責めているからのようだ。白い顔に金色の虹彩がよく映えていた。なにものなのか、想像がつく。それ以外には考えられない。
「ハートオブビースト……」
「そなたならばシーラの心を元に戻せるやもしれぬと期待したが、どうやら無意味だったようじゃな」
「だから俺をここに……」
「わらわはシーラのためならば、どのようなこともする。そう決めた。そなたは千千に引き裂き、滅ぼさねば気がすまぬ相手じゃが、シーラのためならば致し方無しと招き入れたのじゃがな」
ハートオブビーストは、白くしなやかな手を軽く掲げてみせた。その手の先に光が収斂し、一振りの槍が形成されていく。形状は、召喚武装ハートオブビーストそのものだ。ハートオブビーストの鋭い眼差しがセツナを突き刺す。
「しかし、それもここまで」
「俺を殺すか」
「殺されたくなくば、抵抗するがよい。じゃが、抵抗するということは、シーラを蔑ろにするも同じと心得よ」
「……わかってるさ」
セツナは、それ以上はなにもいわなかったし、なにもしなかった。覚悟は、とうに決めていた。シーラを救えなかったのだ。護れなかった。約束を破ったも同じだ。ならば、殺されたとしてもなんら文句はない。文句などいえるわけもない。護ると約束したのは、セツナだ。それを破ったのもまた、セツナにほかならない。恨まれ、憎まれこそすれ、受け入れられるべき事象ではない。
「良い心がけじゃ。しかし、その心がけも、あまりに遅い。もっと早く、シーラのために行動しておればな」
ハートオブビーストが憐れむような目をしたのは、どういう意図があったのか。彼女は、虚空を蹴るようにして翔ぶと、セツナの眼前へと飛来した。振りかぶった槍の穂先が淡く輝く。強大な力の流れを感じる。セツナは抵抗しようともしない。黒き矛は、唸っている。反撃しろ、迎撃しろ、と、うるさくいってくる。だが、セツナはそれを黙殺した。
(殺されるべきだろ、ここは)
それでは、多くの約束を破ることになる。
わかっている。そんなことは。
だが、シーラとの約束ひとつ護れない男が、これから先、皆の約束を守り抜けるとでもいうのか。
だが、銀光が閃いたかと想った瞬間、白い奔流がハートオブビーストを包み込み、その細腕から槍を弾き飛ばした。驚愕したのは、セツナだけではない。ハートオブビーストも、なにが起こったのかわからないまま、白い奔流から抜け出していた。奔流は、上天から降り注いでいた。
「なんじゃ……!?」
「俺のためなら、なんだってしてくれるんじゃなかったのかよ」
突如、聞こえてきた声は、セツナもよく知る人物の声だった。彼女の声だった。待ち望み続けた声だった。ハートオブビーストが素っ頓狂な声を上げる。
「シ、シーラ!?」
「なんだよ、面食らった顔をしてさ。俺が生きてるのがそんなにおかしいことかよ?」
「い、いや、そ、そそそ、そういうわけじゃないんだが……」
ハートオブビーストが狼狽する中、セツナの見ている前で白い毛玉に変化が生じた。繭状になっていたそれが瞬く間に解かれ、この白い天地を形成する九つの尾の源が明らかになる。つまり、ナインテイル発動状態のシーラが、その姿を現したのだ。ハートオブビーストとよく似ている。膨大な量の白髪に飛び出た狐耳、臀部から生えた九つの尾は、四方八方に伸びてこの世界を作り上げている。身につけているものも、和服によく似た装束であり、羽衣を纏っているのもハートオブビーストと同じだった。それがハートオブビースト・ナインテイルの正しい状態なのかもしれない。ただ、シーラはハートオブビーストほどの血色の良さはなかった。やせ細ってもいる。それはそうだろう。二年以上、ナインテイルを発動していたのだ。生命活動が続いているだけでも奇跡というべき状況だった。
「シーラ!」
セツナは、思わず彼女の名を叫び、その手を取った。反応がある。体温がある。生きている。その事実を確認し、ますます感動がセツナの全身を駆け巡った。その感激ぶりが表情に現れていたのだろう。シーラが面食らったような顔をした。
「な、なんだよ、おい。どいつもこいつも」
「シーラシーラシーラシーラ!」
ハートオブビーストがシーラに抱きつき、頬ずりをした。その動作のひとつを取っても、ハートオブビーストがいかにシーラを愛しているのかが窺い知れる。故にこそ、ハートオブビーストがセツナに対し、あそこまで怒り心頭だったのも理解できるというものだ。
「だ、だから、話を聞けってんだよ」
「目を覚ましたのじゃな? 生きておるのじゃな? 夢などではないのかえ? ほんに、シーラなのかえ?」
「おいおい、どうしたんだよ、九尾よぉ……」
「なにをいうておる。そなたが目覚めぬのが悪いのではないか……!」
目に涙さえ浮かべるハートオブビーストの感激ぶりに、セツナももらい泣きしそうになりながら、シーラが憮然とする様を見ていた。同じような格好をしたふたりは、さながら姉妹のようだ。もちろん、この場合、シーラのほうが年上に見えるのだが、実際の年齢はハートオブビーストのほうが遥かに上なのだろう。異世界の意思持つ武器であるハートオブビーストの年齢が、シーラ以下ということはあるまい。
「俺のせいかよ」
「当たり前じゃ! わらわがどれほど心配し、どれほど呼びかけたと想うておる! それをこの色惚け娘め……想い人の呼びかけならば一発で目を覚ましおってからに……!」
「だ、だだだ、だれが色惚け娘だって!?」
「そなたに決まっておろう!」
「ななななななにを根拠に!?」
声を裏返らせるシーラとそんなシーラに抱きついたままの九尾を見つめながら、セツナは、ただただ嬉しくて仕方がなかった。シーラが、生きている。さも当然のように、ごく当たり前のように、そこにいる。その事実がセツナの心を震わせ、熱を帯びさせる。シーラが生きていた。
「根拠もなにも、そなたの振る舞いを見ておればわかることではないか。まったくもって心配をかけおって……心配するだけ損だったではないか」
「……心配、してくれたんだな、俺のこと」
「当たり前じゃ。わらわをだれと心得ておる」
「白毛九尾……」
「そなたは、わらわにとって心許せる唯一無二のものぞ。そなたの無事を望むのは、当然のことじゃろう」
「ありがとう。ずっと、見守っててくれて」
「そう、あらためて感謝されると、照れるのう」
ハートオブビーストは、相好を崩して、緩みきった表情を見せていた。余程、シーラのことが大切なのだ。召喚武装とそれほどまでに心を通わせ合えるシーラは、やはり優れた召喚武装使いなのは間違いないし、もし、武装召喚術を学んでいれば、優秀な武装召喚師になれただろう。
シーラが、こちらを見た。青い瞳。あの頃となにひとつ変わらない、澄んだ、そして情熱的なまなざしがそこにあった。
「……セツナも」
「俺は、感謝されるいわれなんてない」
セツナは、シーラの目を見つめながら、本心を告げた。
「むしろ、おまえに責められて当然のことをしたんだ」
「なにいってんだか」
シーラが呆れ果てたような顔をした。彼女のそんな表情さえも嬉しく想うのは、要するに彼女の存在がセツナにとって重要だということなのだろう。
そんな当たり前のことを再確認するのは、悪い気分ではなかった。