第二千百五十三話 白毛九尾、再び(八)
それまで長時間鎮座していた九尾が突如として動き出したことで、セツナは帝国軍がマルウェールへの攻撃を再開したのだと察した。帝国軍が九尾に撃退されたのは昨日のことだ。再侵攻にしてはあまりにも間隔が短すぎるが、帝国軍の総兵力を考えれば、不可能なことではない。投入する戦力を総入れ替えすれば、なんの問題もないのだ。なにより、九尾は帝国軍の兵士を一兵たりとも殺してはいないことも大きいだろう。
ヴァシュタリア軍に対しては苛烈を極めるほどの猛攻を行ったという九尾が、帝国軍に対しては大した損害も出さないほどに手を緩めているのは、シーラの記憶とその影響以外には考えにくい。シーラにとってヴァシュタリア軍は殲滅したいほどに憎んでいるが、帝国軍に関してはそこまでの感情を抱いていないからだ。
天を衝くほどの巨体から伸びた九つの尾が、セツナたちの頭上を純白で埋め尽くす。美しくも圧倒的な九尾の巨体は、ただそれだけで絶対的な勝利を確信できるほどの力強さと神秘性、幻想性を有している。
その異様なほどの美しさは、セツナでさえ、ふと見とれてしまうほどだった。
故に九尾が地を蹴るのを目視するまで、彼は反応ひとつできなかった。九尾がその巨躯からは想像もつかないほどの素早さで大地を蹴り、翔ぶのを目の当たりにしたときには、マルウェール北東に白い嵐が巻き起こっていた。
セツナは即座に呪文を唱え、メイルオブドーターとエッジオブサーストを立て続けに召喚すると、エリルアルムに協力を要請し、その場を飛び離れた。ケイオン=オードの対帝国軍戦術が出来上がるのを待っている暇などはない。
既に九尾が動き出したのだ。
九尾が帝国軍を軽く撃退したのはつい昨日のことであり、そのことを覚えているであろう九尾は、度重なる帝国軍のマルウェール侵攻に怒りさえ覚えているのではないか。逆立つ毛並みに走る無数の電光が、九尾の感情を表しているように見えた。まるで白い雷の奔流だ。大気を焼き尽くすかの如く駆け抜け、帝国軍の進軍経路へと到達する。
それもこれもあっという間の出来事であり、セツナが九尾に追いすがることができたのは、メイルオブドーターにエッジオブサーストを同化させ、飛行速度を極限に引き上げたからだ。そしてセツナは、九尾が怒っている様子なのは、なにも帝国軍の立て続けの侵攻によるものだけではないことを把握する。帝国軍が本気でマルウェールを落とすべく、軍を進めてきたことが判明したからだ。
クルセルク方面南西端に築かれた帝国軍陣地からマルウェールへ向かって、帝国軍の将兵が地を埋め尽くすが如く進軍中だったのだ。その数、およそ一万以上。つまり、クルセルク帝国軍の総兵力の半数がマルウェール攻略のために繰り出されているということだ。そしてそれは、九尾をも撃破した上でのものであるということは、昨日、九尾の存在を認知しただろうことからも明らかだ。
(恐れ知らずというか、なんというか)
帝国軍も後に引けない状況にあるということなのだろうが、それにしても、九尾の圧倒的な力を目の当たりにしながらも邁進する帝国軍将兵たちの覚悟には、なんともいえない哀れみを覚えざるを得ない。彼らの立場になって考える必要などないのだが、つい、考えてしまう。それは、セツナが帝国軍と関わりを持ってしまったから、というのが大きい。もし、帝国と無関係のままならば、マルウェールに迫りくる帝国軍に対し、九尾と一緒になって一掃しようとしただろうし、九尾との共闘を楽しもうとさえしたかもしれない。
しかし、いまのセツナには、そのような感情は沸かなかった。むしろ、クルセルクに取り残された帝国将兵たちが哀れでならないのだ。もちろん、彼らがクルセルク方面の都市を制圧し、支配してきたという事実から目を背けるつもりはないが、話によれば、クルセルク方面における帝国軍の支配というのは極めて秩序だったものであり、決して悪いものではないということだった。ザイオン帝国軍人としての誇りがそうさせたのか、それが帝国軍法のなせることなのかは知る由もないが、それも、彼らへの同情心を生む原因となったのは間違いない。彼らが理不尽かつ暴力的な支配を行っているという情報があれば、さすがのセツナも同情などしなかっただろう。
帝国軍の進路上に降り立った九尾は、全身に雷光を帯びながら天を睨んだ。そして、咆哮が天地を震撼させる。電熱が嵐のように渦を巻き、九尾の周囲に吹き荒れる。危うくセツナも巻き込まれそうなほどの広範囲への牽制は、帝国軍将兵を恐れお戦かせたようだった。帝国軍の進軍が止まる。同時に警戒態勢から迎撃態勢へと急速に切り替わり、盾兵がつぎつぎと大盾を構え始め、弓兵が矢を番え出した。
九尾は、そういった帝国軍の反応を肌で感じたのか、地上を睥睨した。その青く美しい瞳に光が走る。セツナは、漆黒の翼を羽撃かせ、瞬時に九尾と帝国軍の間に割って入った。
鼻先だけでセツナの身長ほどはありそうな九尾の顔面の目の前に飛び込むと、さすがの彼も肝が冷えた。光を帯びた両目が、今度こそセツナを見据える。激しい怒りに満ちた視線が突き刺さり、皮膚が焼けるような感覚を抱く。それほどまでの熱量を帯びた視線など、そう感じるものではない。それだけ、九尾が感情を露わにしているということであり、その怒りが帝国軍ではなくセツナに向けられた証拠でもあった。
そしてそれは、セツナにとっては多少、喜ぶべきことだった。ようやく、九尾の注意を引くことができたのだ。
(最悪に近い興味の引き方だがな)
セツナは、内心自嘲しながら、九尾の目の前で翼を広げた。メイルオブドーターとエッジオブサーストの同化によって顕現した漆黒の飛膜を最大限に広げ、九尾と帝国軍の間に巨大な障壁を形成して見せたのだ。すると、九尾が低い唸りを上げた。
「なんのつもりじゃ、セツナ……!」
九尾の怒声が大気を激しく震わせ、セツナを吹き飛ばすほどの勢いで吹き荒れた。が、セツナは、九尾の眼前で、まっすぐにその目を見つめ続けた。シーラの白髪を思わせる白い体毛に、シーラの澄んだ青い瞳を思い出させる双眸。凛々しくも美しい顔立ちも、どこか彼女に似ていた。
アバードの獣姫シーラ。
白毛九尾の狐は、シーラが獣と化した姿そのもののように想えた。だから、だろう。畏れや恐怖よりも、哀しみがセツナの胸を埋め尽くす。その哀しみは、帝国軍に抱いた同情とはまったく異なる感情だ。シーラをこのような状況へと追いやってしまったことの怒りと哀しみ、そして、贖罪。
「やっと、口を聞いてくれたな。ハートオブビースト」
セツナが質問とはまったく関係のない言葉を口にすると、九尾は、目を細めた。怒りがその睫毛に電光を走らせている。
「なんのつもりなのかと聞いておる。答えぬというのであれば」
「どうする?」
「そなたを千千に引き裂き、この世より消し去ってくれようぞ」
「……それは困るな」
「なんじゃと」
九尾が怪訝に表情を歪めるとともに、怒りを露わにした。九尾周囲の大気が逆巻き、熱風が電光を帯びて舞い上がる。セツナの頬がちりちりと焼けるように熱い。
「そのような覚悟もなく、わらわの前に立ちはだかったというのか。なんと愚かな……!」
「シーラに約束したんだ。死なないって」
セツナがその名を口にしただけで、九尾が色めきだつのがわかる。九尾のセツナへの怒りは、極めて深くとてつもなく激しいもののようだ。九尾――つまりハートオブビーストは、シーラを溺愛していたのだ。セツナのシーラへの仕打ちを考えれば、そうもなろう。だからこそ、セツナは、九尾と話し合わなければならない。
でなければ、シーラに直接謝ることもできないのだ。
「だから、殺されるのは困る」
「……そなたは、なにもわかっておらぬようじゃ」
「ああ。わかんねえな。なんで、シーラじゃない。ハートオブビースト。シーラは、どうなっているんだ?」
セツナは、九尾を問い質した瞬間、後方から無数の殺気が押し寄せてくるのを認めた。矢だ。数え切れない量の矢が、殺到したのだ。それは、間違いなく帝国軍からのセツナへの攻撃であり、帝国軍がセツナも敵と認識していることの現れだった。セツナは、振り向きもせず、翼を羽撃かせた。黒い嵐が飛来した矢の尽くを叩き落とす。
九尾が嘲笑う。
「ふはは……そなたのおせっかいは、あやつらに通じておらぬな」
「……ったく、ひとがせっかく得た機会を邪魔すんじゃねえっての」
セツナは、透かさず呪文を唱え、黒き矛を呼び出すと、背後を振り返った。すると、今度は漆黒の飛膜が白毛九尾の巨体を保護するような形になるが、セツナとしては、どちらでも同じことだった。帝国軍にも、九尾にも、攻撃をやめさせることに意味がある。帝国軍としては、マルウェール侵攻は死活問題なのだろうが、その結果、九尾に殲滅されることなど望んではいまい。後がないということは、玉砕も覚悟しているのかもしれないが。
「てめえら! こっちの話が終わるまで手出しすんじゃねえ!」
セツナは怒声を張り上げるとともに、黒き矛の切っ先を帝国軍陣地前方に向けた。