第二千百五十二話 白毛九尾、再び(七)
「九尾の狐、マルウェールに向かったって話よ」
部屋に戻ってくるなりそう知らせてきたのは、ミリュウだ。弟子のエリナが彼女の後に続いて部屋に入ってきて、扉を閉めた。
「セツナもそれについていったんでしょうね」
ミリュウはファリアの対面の長椅子に腰を下ろすと、エリナを手招きして隣に座らせた。そして、彼女が掴んだ情報をファリアたちに語りだした。
セツナは、白毛九尾の狐たるシーラとの対話を行うべく、九尾山に向かったのだが、その直後、九尾山は狐へと姿を変えたのだ。そして、マルウェールのある方角へ飛ぶように疾駆していったという。それら九尾山観測所からの報告には、セツナが観測所を訪れ、資料を漁っていったということも記されており、セツナが九尾覚醒時にはその場にいただろうことも判明していた。
ということは、九尾のマルウェール行きをただ見守るわけもないだろう。セツナのことだ。シーラと話し合い、彼自身が納得できる結論がでるまでは、彼女が九尾のままでいることを承知しないはずだ。九尾のままでいるということは、心身に多大な負担がかかり続けるといことであり、命を削り続けるということにほかならない。
セツナは、自分に関わる自分以外の他人の幸福を願い、そのために活動しているといっても過言ではなかった。当初は、そうではなかっただろう。自分のため、自分の居場所のためだったはずだ。それがいつしか、自分の居場所だけでなく、自分に関わるすべてのひとのためへと変わったようだ。
ファリアがセツナに魅了されている理由のひとつが、そこにある。自己犠牲的で利他的、献身的な彼の在り様は、ある種の魔力を帯び、ファリアを魅了して止まないのだ。もちろん、彼が己を犠牲にするようなやり方を望んではいないし、彼が無事であることがなによりも望むことなのだが、彼自身の在り様を変えることはさすがのファリアにもできない。
そんな彼だ。
シーラの幸福も望んでいるだろうし、その幸福とは、彼女が白毛九尾のままでは得られぬものだと想っていることだろう。
「予想通りではあるわね」
「そうね。なんの心配もいらないわよ」
「ええ」
ミリュウが長椅子の背凭れに体を預けきるのを見て、彼女が自分に言い聞かせているのだと理解する。ミリュウは、本当のところ、心配でたまらないのかもしれない。セツナが、だ。もし仮に白毛九尾がセツナと敵対するようなことがあれば、セツナはどのような対応をするか。
セツナにシーラを傷つけることなどできるわけがない。
「でも師匠、シーラさん、だいじょうぶなんですかね?」
「……どうかしらね」
ミリュウは、即答による断定を避けると、難しい顔をした。エリナの疑問は、彼女が武装召喚師故のものだ。武装召喚師ならば、シーラがいま、どのような状態であるのか、ある程度想像がつく。シーラは、二年以上もの間、白毛九尾の狐のまま、この地に君臨していた。さながら守護神としてザルワーン方面を加護し続けたということは、ザルワーンのひとびとにとっては喜ばしいことではあるのだろうが、一武装召喚師としては不安を禁じ得ない出来事だ。
「シーラは、“大破壊”以前から今日まで、あの状態だったということでしょう。それはつまり、シーラが召喚武装の能力を行使し続けているということ。彼女は純粋な武装召喚師じゃないから、召喚の維持に関してはなんの心配もいらないけど、能力の行使とその維持なら話は別」
「シーラ様はご無事なのではないのですか?」
「それもわからないわ。あの狐ちゃんにシーラの意志が残っているかどうか」
レムの心配そうな質問に対し、ミリュウは渋い顔で告げた。武装召喚術に関しては、冷徹な判断を下せるのがミリュウだ。
ファリアもまた、シーラを心配する一方、冷静に状況を見ていた。九尾山に呼びかけたであろうセツナよりもマルウェールの異変に反応したというのなら、シーラの意識が残っている望みは薄いだろう。逆流現象によって、シーラの自我そのものが崩壊していたとしても、なんら不思議ではない。半日やそこらではないのだ。二年以上もの長きに渡り、ハートオブビーストの最大能力を駆使し続けている。その負担、消耗たるや想像を絶するもののはずであり、シーラがいかに屈強な戦士で、召喚武装使いとしても有数の実力者だとしても、さすがに二年以上は持たない。
持つわけがない。
「でも、だからといって、諦めるわけにはいかないでしょう」
「うん。セツナがシーラを諦めるなんて考えられないわ」
「そうでございますね。御主人様ですもの」
レムが心中の不安をかき消すように微笑んだ。無理に笑っているのだろうが、その気遣いがいまのファリアには嬉しい。
「皆様の幸せを願う御主人様ならば、シーラ様だって、きっと……」
きっと、救ってくれるに違いない。
レムの言いたいことは、ファリアにも理解できたし、ファリア自身、そう信じていた。
マルウェールに到着して、一日が過ぎた。
その間、セツナがなにをしていたのかというと、昨夜の夜更けまで九尾に話しかけ続け、朝になればまた呼びかけ続けていた。しかし、九尾は、セツナの呼びかけに一切反応を示さず、明確に黙殺していることがわかっただけだった。
まず間違いなく無視されているのだ。
セツナの声が九尾に聞こえていない、とは、少々考えにくい。九尾は、龍府近郊からマルウェールの騒ぎを聞きつけるだけの聴覚、把握できるだけの超感覚を有している。セツナの声だけが聞こえないというのはおかしいし、そもそも、九尾の耳が聞こえているという反応を示していた。だが、九尾の顔は帝国軍陣地があるのだろう北東方向を向いたままであり、そのまなざしも北東の彼方を見遣るのみだ。セツナに注意が向けられることは一切ない。
それはつまり、九尾が意図的にセツナを無視しているということの現れであり、九尾――ハートオブビーストがセツナのことを嫌っているということを示しているのではないか。
(まあ……そうだよな)
セツナは、落胆するよりもむしろ当然の反応だと想わずにはいられなかった。
九尾ことハートオブビーストは、シーラを過保護なまでに溺愛している様子だった。そんなハートオブビーストを説得してまでシーラを解放したのが、数年前のアバード事変だ。だというのに、シーラに龍府防衛を任せ、それから二年以上もの間、シーラのことを探そうともしていなかったのだ。シーラのことを愛するハートオブビーストにしてみれば、怒り心頭になるのも道理というほかあるまい。シーラを任せたはずなのに、シーラが傷ついたまま放置するなど、何事か。
セツナは、そのことについても九尾を通してシーラ自身に謝罪したが、九尾は聞き入れてもくれなかった。
黙殺は、一日経ったいまも続いている。
昼過ぎ、エリルアルムがセツナの元を訪れたのは、そのせいだろう。九尾の様子が一向に変わらないことは、マルウェール市内からも一目瞭然だ。九尾は、微動だにせず、帝国軍を警戒し続けている。
「九尾様は、なんの反応も示さないようだが……」
「……どうやら嫌われたようだ」
「嫌われた……? 九尾様にか?」
エリルアルムの怪訝な表情は、九尾の正体を知っているからこそのものだろう。九尾がシーラならば、セツナを嫌うわけがないという前提がある。
「九尾が俺の声に反応しないのは、そのせいさ。ほかに考えられない」
シーラを溺愛するハートオブビーストが、セツナの声に耳を貸さないということは、それ以外にはあるまい。セツナのことを嫌っていないのであれば、セツナを黙殺するわけがないのだ。シーラがセツナに好意を寄せていることを知らないハートオブビーストではあるまい。
つまり、ハートオブビーストがセツナを許してくれるまで、シーラを元に戻すどころか、話し合うこともできないということだ。
「二年以上も放置していたも同然なんだ。嫌われるのも無理はないさ」
自嘲気味に告げながらも、セツナは、だからといって諦めるわけにはいかないということもわかりきっていた。シーラを九尾のまま放置するということは、彼女の人生を終わらせるということでもある。九尾のまま、その生命が燃えて尽きるまでザルワーンの守護神で在り続けさせるなど、セツナにしてみれば言語道断も甚だしかった。認められることではない。
シーラにはシーラの幸福があるはずだ。
ザルワーンの守護神化がシーラにとって至上の幸福だというのであれば話は別だが、そんなことはないはずだ。
そこにシーラの意志が介在しているというのなら、セツナの声にだって反応してくれるはずなのだ。
そうではない以上、ハートオブビーストの独断と考えるべきだ。
そして、ハートオブビーストの思い込みがザルワーンの守護神を生んだのであれば、そのままにしておくわけにはいかなかった。その結果、ザルワーン方面の秩序が乱れる可能性は決して低くはない。だが、それは、九尾をこのままにしておいても、いずれ来たることなのだ。シーラの命が尽きれば、九尾は存在を維持できなくなる。そうなれば、ザルワーンの守護神が構築していた秩序もまた、消えて失せることになるだろう。
早いか遅いかの違いしかない。
それならばいっそのこと、早い内に九尾の秩序から人間の秩序に移行させたほうがいいのではないか。
というのは建前に過ぎないが。
「ま、俺はこんなことじゃあへこたれないけどな」
セツナが告げると、エリルアルムは静かに頷いた。
そのときだった。
九尾が突如としてその巨躯を持ち上げたのだ。