第二千百五十一話 白毛九尾、再び(六)
「先程の会議、セツナは、九尾様のことを甚く気にしていたようだが、どうしたのだ?」
「エリルアルムだから話すんだが」
「九尾は、シーラだ」
「……やはり」
エリルアルムは、驚くことはなく、むしろ確信を得たというような顔をした。
「驚かないんだな」
「ええ。わたしは、シーラと同じ戦場にいたのでな」
「シーラが九尾に変わる瞬間を目の当たりにした、と?」
「いや。そうではなく」
エリルアルムは、龍府戦役における自分自身の戦いとシーラたちの戦いについて、セツナに説明してくれた。
最終戦争も中盤、ガンディア領土を巡る三大勢力の争奪戦ともいえるような激戦が始まったばかりのことだ。アバード領をその圧倒的物量によって踏み潰し、その余勢を駆ってザルワーン方面へと至ったヴァシュタリア軍を食い止めるべく、龍府の混成軍が立ち向かったのが、龍府戦役だ。その戦いにおいて、エリルアルムは戦場後方にあってエトセア将兵の指揮を取っていたという。前線の様子はよくわからなかったものの、ヴァシュタリア軍に押されているという手応えはなく、むしろ押しているらしいという空気感があったという。
数の上では、ヴァシュタリア軍のほうが圧倒的に上だったのだが、どうやらシーラたちの力量は、物量さえねじ伏せるほどのものだったのだろう。だが、それもいつまでも続かなかった。ヴァシュタリア軍の飛竜が龍府を急襲し、戦況は一変する。龍府を防衛することが要だったのだ。ガンディア軍の士気は大いに落ち、ヴァシュタリア軍は盛り返した。絶体絶命の窮地が訪れたときだった。
「あれが、現れたのだ」
と、エリルアルムは、セツナの横に並び、九尾を見やった。
エリルアルムたちの窮地に突如として出現した巨獣は、ヴァシュタリア軍を撃退すると、ガンディア軍の将兵のうち、生存者全員を龍府へと運びこんだ。そして、その巨躯と九つの尾によって龍府を包み込む結界を構築したという。以降、龍府は外界との連絡を取ることもできない状況が長らく続き、九尾が結界を解いたのは、“大破壊”が世界を激変させてからのことだった。世界が変わり果て、大陸がばらばらに引き裂かれたという事実を龍府のひとびとが知ったのは、それからさらに後のことであり、そのときの衝撃は推して知るべしといったところだろう。
ともかくも、九尾の出現とその行動は、ガンディアに属する人間のみを加護するものであり、エリルアルムは、シーラたちのいずれかがあの巨獣に変じたのだろうと察したという。話を聞く限りでは、エリルアルムは、シーラがアバードにおいて九尾の狐に変身したことを知らないようだ。そして、そのことはナージュやグレイシアからも知らされていないらしい。グレイシアたちとしても、確信が持てない以上、迂闊にはいえなかったのだろうが。
「それで、セツナはなにを悩んでいるのだ? 九尾様がシーラなら、セツナが呼びかければそれで解決するのではないのか? 彼女は、セツナを唯一無二の主君として仰いでいたぞ」
「呼びかけたさ」
彼方を見遣る白毛九尾の美しい後ろ姿を眺めながら、いった。九尾の狐は、やはり、セツナになど関心がなさそうだった。
「でも、九尾が反応したのは、マルウェールの騒ぎだった」
「なるほど。だからセツナは九尾様と一緒にいたのだな」
「ああ。九尾は、俺の声にはなんの興味も示さなかった。まるで山のようにさ、微動だにしなかったよ」
「……しかし、シーラがセツナを黙殺するはずがない」
「だからさ。だから、考えている」
セツナは頭を振って、黙り込んだ。考えている。考え続けている。どうすれば、シーラをもとに戻すことができるのか。本当にそんなことができるのか。そもそも、九尾が話を聞いてくれなければ、どうにもならないのではないか。
不意に、エリルアルムがつぶやいた。
「逆流現象……」
「……そういえば、エリルアルムの配下にも武装召喚師がいたんだったな」
エリルアルム率いる軍団には総勢二十名の武装召喚師が所属しているという話を、かつて聞いたことがある。
「ああ。逆流現象についても、彼らから聞いたことがあるのだ。武装召喚術の習得というのは、常に死と隣合わせの危険極まるものだとな。故に王族がするものではないと諌められたよ」
「武装召喚術の修めようと?」
「国のためになると想ったのだ。だが、王女たるもの、指揮官たるもの、危険極まる武装召喚術の習得など試みるべきではないと諭された。食い下がったが、最後には諦めたよ。そしてそれで正しかったのだといまならわかる。もちろん、武装召喚術を修めていれば、と思うことも少なくはないが」
「正しい判断をしたよ、エリルアルムはさ」
セツナは、どこか後悔しているらしいエリルアルムを素直に褒め称えた。エリルアルムは、彼女がいうように王族であり、気軽に自分を危険に晒せる立場ではないのだ。武装召喚術習得に挑んだ結果、逆流現象や別の事故に遭遇するようなことがあっては、目も当てられない。実際、武装召喚術の有用性を知りながらも率先して武装召喚術を学ぼうとする王族というのは、極めて稀であり、皆無に近いといってよかった。
「武装召喚術なんて小難しい技術はさ、専門家に任せておけばいい」
「たとえばセツナのような?」
「俺は……いうほど専門家じゃあないよ。まあ、自信がないといえば嘘になるけどな」
「ふふ……」
「ん?」
「いや、こっちの話だ。気にしないでくれ」
そういうと、彼女は話題を戻すためか、軽く咳払いをした。
「セツナとしては、シーラを元に戻したいのだな?」
「もちろんだ。あいつには、散々苦労をかけた。これ以上、心身に負担がかかるようなことを続けさせるつもりはない。なんとしても、九尾から解放しなけりゃならねえ」
「ふむ……」
「だが、さっきもいったように、シーラには俺の声は届かなかった。おそらく、九尾はシーラの意思で動いているわけじゃあないんだろう。九尾の、ハートオブビーストの意思が、あれを動かしている」
「だとしたらなぜ、ザルワーン方面を?」
「いや、だからこそザルワーン方面だけなんだ」
「どういうことだ?」
「シーラなら、ザルワーン方面だけじゃなく、クルセルク方面だって、アバードのセンティアだって、護ろうとしただろうさ」
シーラは、王女として生まれた。王族としての教育は、彼女を責任感と使命感の強すぎるきらいのある人間へと育て上げたのだ。その責任感の強さは、彼女が九尾の狐となれば、ザルワーン方面のみならず、かつてのガンディア領土から敵を排除し、護り続けるだろうと確信させるにたるほどのものだ。
「だが、シーラは意識を失い、九尾がその代わりを果たしている。だから、シーラにとって印象深い龍府を最優先に護り、ザルワーン方面を守護しているんだろう」
想像に過ぎないが、当たらずも遠からずといったところだろうとセツナは考えている。
かつて、九尾ことハートオブビーストは、シーラを溺愛さえしているようなことを発言していた。シーラを想い、シーラのため、シーラの望みを叶えようとするのであれば、九尾の現在の活動にも納得がいくというものだ。九尾にとって印象の薄いクルセルク方面を黙殺に近い形で放置しているのも理解できるし、アバードに手を付けないもわからないではない。アバードは、シーラの心の傷といっても過言ではないからだ。もちろん、シーラはいまもアバードを愛しているだろうが、そこには複雑な想いが入り混じっているのは疑いようがない。
「では、九尾様はシーラの意思とは無縁だと?」
「完全に無関係とはいえないだろうが……シーラの意識はないと想う」
だからこそ、なんとしてでもシーラの意識を取り戻させ、元に戻す必要があるのだが。
でなければ、シーラはその生命活動を終えるまで、白毛九尾の狐としてあり続けることになる。