第二千百五十話 白毛九尾、再び(五)
「帝国領へ、ですか?」
「ああ。話せば長くなるから割愛するが、ともかく、俺は帝国領へ行って、そこで新皇帝ニーウェハイン陛下にお会いするつもりなんだ。それを交渉材料とする」
「どう、するのです?」
「簡単な話さ」
セツナは、帝国軍がクルセルクを掌握しているという話を聞いたときから考えていたことをはじめて口にした。なにも戦うばかりが脳ではないのだ。ときには、戦いを避ける方法を考えるべきであり、そのことは、セツナはガンディア時代、軍師たちの活躍から学んだことだった。頭を使う、という当たり前のことも、だ。
「考えても見ろ。帝国軍の将兵は、望んでクルセルクを支配しているわけじゃあない。最終戦争が明確に終わっていないから、終わらない戦いを続けているだけなんだ。ザルワーン島を制圧すれば、つぎは別の島、大陸に漕ぎ出す手段を考えるだろうよ」
「つまり、彼らの戦いを終わらせてあげようというのですか?」
「そういうこと。戦争を終わらせるには、彼らの指導者がそう命令すればいい。つまり、皇帝だな」
「で、セツナ殿は、新皇帝陛下に会いに行く、と」
「それで、皇帝からの勅命が出るまで戦闘行動を止めてくれるように交渉するのさ。彼らだって、無駄に消耗するだけの戦いを続けたくはないだろうしさ」
「確かに」
「問題は相手が応じてくれるかどうかですが」
「応じてくれなければ、そのときはそのときだ」
「といいますと?」
「ぶっ倒す」
「……セツナ様はさすがに心強いですな」
「セツナ様なら、帝国軍など一蹴なされるでしょうし、なんの心配もありませんなあ」
「いっておくが、無駄に血を流すつもりはないぞ」
セツナが一言注意したのは、ケイオンやミルディがまるでセツナにガンディアの英雄らしい血みどろの戦いを求めているような口ぶりだったからだ。セツナは、度重なる殺戮の如き戦いや様々な経験を経て、命の尊さを思い知ったのだ。圧倒的な暴力で理不尽に命を奪うことにいったいどんな意味があるのか。そんなことで得た勝利にどれほどの価値があるのか。ただいたずらに血を流し、ただひたすらに命を奪っているだけではないのか。
そんな考えがセツナを戒めている。
「問題は、だ」
「はい」
「帝国軍は、交渉に応じてくれる可能性は低くないし、たとえ応じてくれなくとも、俺たちでどうにでもなる。だが、帝国軍を追い立てるほどの力をもった第三勢力は未知数だ。もちろん、負けてやるつもりはないし、ザルワーンを明け渡すなんざ以ての外だが……」
「全容が見えてこない以上、なんともいいようがありませんな。降って湧いたような話でもありますし」
「ああ……」
「島の外からやってきたのでしょうか?」
「それ以外には考えられないな」
「だとしたら……」
神軍による侵攻の可能性を認めて、セツナは苦い顔をした。だが、神軍ならば帝国軍二万を追い立てるくらい容易いだろう。神軍の戦力というのは、リョハンが誇る武装召喚師軍団でもどうしようもないくらいに圧倒的であり、強力無比だった。しかも、神々が後ろ盾として、ついている。通常戦力では到底勝てるわけもない。
ザイオン帝国は、総勢二万名を超える武装召喚師を抱えていたという。そのうちのどれほどがクルセルクの帝国軍にいるのかは不明だが、いたところで数十人程度だろう。それでは、神軍に太刀打ち出来ないのも道理であり、彼らがクルセルクから追い立てられるのも必定だった。
「だとしたら?」
「いや、可能性の話だ。確信があるわけじゃあない」
「心あたりがあるのであれば、是非、お聞かせ願いたい」
「……わかった」
情報共有は重要だということを思い出して、セツナはうなずいた。そして、神軍とセツナたちが呼称している軍事組織について、知っている限りのことを説明した。説明している最中、エリルアルムたちは皆、固唾を呑んで、セツナの声に耳を傾けていた。神軍の存在を、彼らは認知していなかったのだ。
セツナが聞いた話によれば、神軍は世界各地に侵攻しているということだったが、どうやらザルワーン島はこれまで神軍の魔の手が及んでいなかったようだ。
「神軍……ですか」
「そのような組織が存在していたとは……」
「つまり、クルセルクを襲ったのも神軍の可能性が高い、と」
「ほかに海を自由に渡れる組織が存在していても、不思議じゃあないんだがな」
とはいえ、西ザイオン帝国ですら大海原によって隔絶された世界を行き来するのは簡単なことではないのだ。方舟のような移動手段を保持する組織など、そうあるものでもないだろう。
「もしクルセルクを襲った連中が神軍だった場合、交渉の余地はない。奴らはただ蹂躙するだけだ。撃退する以外に道はない」
「ふむ……」
「なに、どのような相手であれ、セツナ様と九尾様がおられる限り、我々が負けることはありますまいて」
「……九尾様、か」
「なにか懸念がおありで?」
「九尾様はザルワーンの守護神。懸念材料など、ありましょうか」
「いや……な」
ケイオンの言い分ももっともだということはわかっている。実際、今日に至るまでザルワーン方面が平穏無事だったのは、白毛九尾のおかげなのだ。九尾信仰が自然発生的に生まれ、多くの人々に支持されるほどだ。そういう点においての懸念は一切なかったし、もし、九尾と共闘できるのであれば、たとえ神軍が相手であっても遅れを取ることなど万一にもないのではないかと思えた。しかし。
「少し、気になることがあるのさ」
セツナはそれだけをいって、話を打ち切った。ケイオンは納得できないというような表情をしたものの、セツナが黙り込んだこともあり、会議は終了となった。
今後の方針としては、ケイオン=オード主導の元、対帝国軍の戦術が練られることとなり、セツナはそれに従うことに決まった。もちろん、セツナとしては帝国軍との交渉を行うことが大前提だが、交渉の席を設けるためには、相手が話し合いに応じる心構えにならなければどうにもならない。ケイオンは、帝国軍に交渉に応じるよう打診するが、色好い返事は期待はできないだろうといった。そこをなんとかするのが軍師の役割だが、帝国軍としても追い立てられている以上、交渉に応じている余裕などないということかもしれない。
セツナは、帝国軍のことに関してはケイオンたちに任せ、自分にできることを考えようとしていた。
作戦本部は、都市の中心にそびえる大きな塔であり、以前は天に至るほどに長大だったという。しかし、“大破壊”の余波が塔を半ばで叩き折り、倒壊。いまは、その下半分を補修して使っているという話を聞いている。やはり、龍府以外の都市は“大破壊”の影響を大きく受けているのだろう。
町並み自体、完全に復興しているとは言い切れない状態だった。
作戦本部の屋上、つまりかつての塔の中層辺りから、セツナはマルウェールの様子を見渡していた。廃墟同然の区画もあれば、工事中の建物が林立する区画もある。また、すでに改修工事を終え、復興しきった区画もあった。被害は、なにも“大破壊”によるものだけではあるまい。とても、“大破壊”の余波とは思えないような破壊跡があり、それが神人による被害であることは容易に想像できた。龍府には一切見られなかったものだ。やはり、龍府は九尾によって手厚く守られているのだ。
「ここにおられましたか」
エリルアルムの声が安堵に満ちていて、セツナは、振り返るのを多少躊躇った。そんな優しい声を出されたら、泣いてしまいそうになる。それくらい、いま、セツナの心中は穏やかではなかった。
街の彼方、ひび割れた城壁の向こう側に白毛の巨獣が座り込んでいる。座り込んでいても、うず高く積み上げられた城壁など軽々と追い越すほどの巨躯を誇る九尾の狐は、その神秘的な美しさで見るものを魅了するかのようだ。実際、マルウェールの住人たちは、突如現れ、帝国軍を一蹴した守護神を一目見ようと列をなして町の外へと向かっており、中には感動のあまり涙を流すものもいるようだった。九尾信仰は、この二年でザルワーンの地に根付いているという。
それが、セツナには堪らない。
シーラの意思がどの程度介在しているのかわからないこともあるが、それ以上に彼女がこのように崇め奉られることを極端に嫌うことをよく知っているからだ。そして、シーラが自分を取り戻し、九尾でなくなったときのことを考えると、空恐ろしくもある。九尾に頼ってきたひとびとは、そこから先、なにに寄りかかっていくのか。
「……エリルアルム殿か」
振り向くと、思った通りエリルアルムがいた。部下も従者も連れていないところをみると、セツナのことを気遣ってくれていることがわかる。ひとりで探してくれたのだろう。彼女は、少し表情をこわばらせながら、妙な提案をしてきた。
「呼び捨てで構いませんよ、セツナ殿」
「……だったら、俺のことも自由に呼んでください。あなたは俺の部下じゃあありませんし、俺はもう領伯でもない」
「領伯を辞められたと?」
エリルアルムが怪訝な表情になった。当然だろう。領伯を辞めるということは、並大抵のことではない。
「ええ。色々想うところがありましてね。いまはただの宮廷召喚師セツナ・ゼノン=カミヤです」
そう名乗れば、エリルアルムは胸を撫で下ろしたようだった。ガンディアの官職についていることがわかれば、ガンディアから離別したわけではないことがわかるのだ。
「では……えーと……セツナ、と呼び捨ててよろしいか?」
「もちろん。ああ、かしこまる必要もありませんからね」
「セ、セツナも、その、普通で頼む」
「じゃあ、そうさせてもらうよ、エリルアルム」
セツナが望み通り名を呼び捨てにすると、彼女は、少しばかりはにかんだように笑った。




