第二百十四話 暗躍
酷く、青ざめている。
アルジュ・レイ=ジベルは、手鏡に写る自分の顔を眺めながら、うんざりとした面持ちになった。青ざめた顔が一段と蒼白になった気がするが、きっと気のせいだろう。いつも通りの冴えない中年の男の顔だ。ジベル王家という由緒正しい血筋の人間の容姿とも思えないが、現実は受け入れるしかない。幸い、息子も娘も自分より妻に似て整った顔立ちになってくれた。それだけは天に感謝するのだが、この青ざめた顔を見るたびに運命を呪いたくなるのは仕方がない。
「鏡を見るのはお止めになられよ。一国の王ともあろうお方が、己の顔色を気にするべきではありません」
「そうしたいのはやまやまなのだがな……」
アルジュは、ぶつぶつといいながら、相手がどうやってこちらの行動を知ったのかが気にかかった。王都ル・ベール郊外の訓練施設。その野外訓練場に、アルジュみずから足を運んでいた。近衛兵のひとりも連れていないのは、この訓練施設の警備が厳重なのもあるが、アルジュとともにいるのがジベルの全軍を預かる将軍だからだ。彼自身が武勇に優れた戦士である以上、護衛は不要だというのがアルジュの判断だった。将軍を信頼している証であり、そういう態度でもある。
将軍ハーマイン=セクトルは、アルジュに背を向けて立っている。弓を構え、遥か前方の的に意識を集中しているはずだった。それなのに、アルジュが手鏡を覗いているということを察知したらしい。武人には、気配でわかるものなのだろうか。アルジュも剣を嗜んではいるが、気配だのなんだのという域にまでは達していない。嗜み程度なのだ。身を守れるくらいには強くなったはずだが、それも今は昔の話だ。最近は日課の訓練すら遠ざかっている。
「死神に憑かれているといわれれば、気にもなろう」
「それこそ、馬鹿馬鹿しいのです」
ハーマインが、矢を放った。蒼穹の下、解き放たれた矢は緩やかな放物線を描いていく。アルジュの目では追い切れなくなった。どうやら的を通り越したらしい。
「腕が鈍ったのではないか?」
「どれほど飛ぶのか試したまでのことです」
「ほう。飛ぶか?」
「想像以上に」
そういって、ハーマインは手にした弓を見つめた。アルジュも、彼の弓を見ている。装飾らしい装飾の施されていない大弓には、特殊な機構が組み込まれているらしい。アルジュにはよく理解できないのだが、その機構のおかげで通常の弓よりも長い射程を得ることに成功したのだという。それはいまの試射ではっきりとした。普通の弓ならば、遥か彼方の的に当てることも難しいだろう。ハーマインの技量と膂力があってはじめて狙うことが許される的なのだ。
この新型弓は、ジベルお抱えの武器職人集団が考案したものであり、その試作型が献上されたこともあり、アルジュはハーマインに試射を要請したのだ。新型弓が実用的であれば、すぐにでも量産し、全軍に配備するつもりだった。他国に先んじて強力な新兵器を手に入れるということは、戦略上優位に立つということでもある。クルセルクに奪われた国土を取り戻せるかもしれないし、ザルワーンの領土を掠め取ることができるかもしれない。
いや、後者はすぐにでもできるだろうか。
「……ザルワーン、どうなさるおつもりです?」
「どう、とは?」
ハーマインがまるでこちらの考えを見透かしたように問いかけてきたので、アルジュは言葉をつまらせながら問い返した。ザルワーン。なんとも嫌な響きの言葉だ。耳にするだけで吐き気がする。あの国のおかげで、ジベルはどれほど辛酸を嘗めさせられたのか。考えるだけで頭に血が上りそうになる。いっそ、頭に血を上らせてしまえば、この青ざめた顔ともおさらばできるのではないか、と思わないではないが。
「グレイ=バルゼルグがザルワーンを離反して、二月ほどが経過しております。その間、彼は動く気配もない。メリスオールの旧領を歩き回っているだけで、我々が寄越した食糧を食い潰している。これでは、我々が危険を犯して彼らを支援する意味がない」
「グレイは動かずとも、存在だけで十分に役に立っている」
ハーマインが、弓を構えた。アルジュは、後方から彼の立ち姿を見ている。ジベルの全軍を預かるに足る、堂々とした風格だ。古代の英雄を思わせる、というのは褒め過ぎだろうか。
「それはそうでしょう。彼のおかげで、ザルワーンは軍を動かし難くなったのです。我がジベルも恩恵を受けているのは事実。ザルワーンの動きを考慮せずに済むのですから」
その通りだ。隣国にして小国家群の中でも大国と呼ぶに相応しいザルワーンの動向を気にせず、政略戦略を練られるというのは大きな恩恵だった。
それもこれも、グレイ=バルゼルグというザルワーンきっての猛将がなぜか離反し、ガロン砦に軍を構えてくれたからだ。ガロン砦は、ジベルの北西に位置するメリスオールの砦であり、目と鼻の先といってもいい。そこを拠点としてくれたことで、ザルワーンがジベルに軍勢を差し向けてくる可能性は低くなったといっていい。ジベルに軍を差し向ければ、ガロン砦のグレイ軍に背後を衝かれることになりかねないからだ。
アルジュがザルワーンを気にせずに眠れるようになったのは、ここ一月のことだが、それもグレイ軍がガロン砦を占拠してくれている恩恵だといえた。それだけでも、食糧や物資を提供する価値があった。それでも顔が青ざめたままなのは、寝不足が原因ではないということだろう。
「ならば、よいではないか」
「……ですが、グレイ軍の離反の恩恵をもっとも受けているのが、ガンディア軍というのはどうも気に食いませんな」
ハーマインの言葉で、アルジュは少しだけ安堵を覚えた。彼の個人的な感情ならば、今後の戦略に影響はしないだろう。ハーマインはガンディアを嫌っているのだ。どうやら、ガンディアの先王シウスクラウド・レイ=ガンディアとの間で確執があったらしい。だからといって、政略を見誤ることはないだろうという確信がある。彼は自身の感情で国の行く末を左右するような男ではない。
「だからといって、グレイとの繋がりを断つ必要はあるまい。彼らはいずれ動く。そのときまで生かしておけばよい。我々は、ガンディアが生んでくれた好機こそ利用すべきだな」
ガンディアのザルワーン領土への電撃的な侵攻は、アルジュにとっても寝耳に水の話ではあった。圧倒的な戦力差を鑑みれば、ガンディアに勝ち目はないだろう。だが、ナグラシアを制圧し、勢いに乗るガンディアは、ザルワーンの各地に軍勢を差し向けたようだった。ザルワーン全土が戦禍に包まれようとするいまこそ、ジベルもまた、動くべきなのだ。
「ガンディアは西、北西、北に軍を分けたという話でしたな。スマアダは捨て置いたようで」
ハーマインが矢を解き放つ。
矢は、さっきよりも低い軌道を描き、的に刺さった。
「ガンディア軍が勝っているそうな」
「ナグラシア制圧のみならず、バハンダールも陥落させたとか」
「困ったことになりましたな。これでは、ますます陛下が調子に乗られる」
一同から、嘆息が漏れた。
ガンディアの躍進は喜ぶべきこと、などと思っているのは、王派の人間か、無関係の国民くらいのものだというのが彼らの共通認識だった。王母派、太后派と呼ばれる一派は、ガンディアの王都ガンディオンに潜み、日夜、レオンガンドやその周囲の言動から現状の打開策を練るための会議を開いていた。無論、太后グレイシア・レア=ガンディアの面前などではない。彼らは、太后グレイシアの庇護下にあるがゆえに、彼女を自分たちの策謀に巻き込みたくはなかったのだ。
彼らにも彼らなりの矜持があり、正義がある。だからこそ、いままで直接的な行動に打って出なかったのだ。それが仇になっている。
レオンガンドは、着実に王としての実績を積み重ねている。バルサー要塞の奪還に始まり、ログナー制圧。出来すぎといっても過言ではない。先王シウスクラウドであっても、これだけの結果を上げるには相応の日数を要したであろう。レオンガンドは、それをあっという間に成し遂げている。
彼をシウスクラウドの再来と呼ぶものもいれば、彼こそが獅子王だと宣うものもいる。ガンディアは英邁なる王を失ったが、その子もまた英傑であったのだと、多くの臣民が信じ始めている。ただの“うつけ”風情が、である。
彼らとしては、この常軌を逸した状況をなんとしてでも正常に戻したいのだ。たとえ、レオンガンドがいなくとも、太后グレイシアの名の下に統治は可能なはずだった。シウスクラウドが病に伏せていた二十年の大半は、そうやって国を運営していた。
「それもこれも黒き矛が来てからだ」
だれかが吐き捨てると、別のものが同調した。
「ガンディアにとっての英雄は、我々にとっての疫病神ですな」
「まったく。あのような子供になぜあんな力があるのだ」
レオンガンドがどこからか拾ってきた少年のことだ。セツナ=カミヤという名の少年が、突如としてガンディアの歴史に現れたのは、カラン大火という事件からだ。彼は、カラン大火の犯人ランス=ビレインことランカイン=ビューネルを倒したことでレオンガンドの目に止まり、バルサー要塞奪還の際に雇ったという。バルサー平原での戦いこそ、彼を一躍有名にしたのは間違いない。たったひとりで戦局を塗り替えた少年は、黒き矛のセツナの名でガンディアのみならず、周辺諸国にも知れ渡ることになった。
彼の活躍に国民は沸き立ち、セツナの名は、ガンディアにとって希望となった。いまでは、彼の名を知らぬ国民はいないだろう。ガンディアを絶望の底から押し上げたのは、彼を置いてほかにはないのだ。レオンガンドともども、セツナは、救国の英雄としてガンディアの歴史に名を刻まれるに違いなく、それは太后派の人間も認めるところだ。
ログナーによってバルサー要塞が奪われたのは、彼らとしても苦しくはあったのだ。先王シウスクラウドの喪に服していた期間のことでもあり、レオンガンドを責める口実には使いづらいのも事実だった。そういう意味では、バルサー要塞の奪還による国土の回復は、太后派にとっても嬉しい事ではあったのだ。
太后グレイシアは、息子レオンガンドが王としての最低限の責務を果たしたことに心から喜んでいたし、そういうグレイシアの姿は太后派に属する人間の胸を打つのだが、かといって、彼らがレオンガンドの活躍を素直に喜べないのも事実だった。
彼らはシウスクラウドの信奉者なのだ。先王の英雄性に魅入られた連中であり、病床のシウスクラウドを復帰させるためにあらゆる手段を講じたのも彼らだった。シウスクラウドの復帰が難しいと知れば、“うつけ”と蔑まれたレオンガンドよりも、勇猛にして果敢な王女リノンクレアこそ王位を継ぐべきだと考え、行動を起こしたのが始まりだった。
もっとも、彼らのリノンクレア女王待望論は、リノンクレアがルシオンの王子ハルベルク・レウス=ルシオンに嫁いだことで取り下げざるを得なくなったのだが。
それでも諦めきれなかった彼らは、つぎに王妃グレイシアを担ぎ上げようとした。グレイシアは、彼らの言葉に耳を傾けこそしたが、みずから表舞台に上がるようなことはしなかった。ただ、慈悲深いグレイシアは彼らの身を案じ、側に置くことにしたのだ。彼らは、それをグレイシアの黙認と受け取った。グレイシアもレオンガンド王政を望んではいないのではないかと曲解した。いや、彼女にそういう節がないわけではない。
バルサー要塞を奪還してからのレオンガンドは急ぎすぎているのだ。電撃的なログナー平定は、ガンディアの領土を倍増させ、国力も大幅に増加した。ガンディアは弱小国家から抜け出すことに成功したといっていい。それだけならばまだよかった。太后派も、国が大きくなることに否やはない。しかし、レオンガンドは、ガンディアの体制を変えてしまった。太后派の息のかかったものを国政から遠ざけるだけでなく、ガンディア軍も大きく変わった。特に、ログナー人の流入が激しく、新設された将軍位にログナー人が選ばれるという事態にまで発展している。レオンガンドの改革によって閑職へと追いやられたものも少なくはなく、太后に泣きつくものも多かった。太后派が肥大した一因は、レオンガンドの増長と横暴にあるのだ。
彼が、太后派というガンディアの一大派閥を黙殺した結果、国は本来の姿を失いつつある。
太后派にとっては、シウスクラウド以前のガンディアこそが正常な状態であり、レオンガンド以降のこの国は、得体の知れぬ不気味な化け物の巣窟に成り果ててしまったように思えるのだ。
だからこそ、行動を起こさなければならない。
「英雄は死んでこそ輝くもの」
厳かな声音とともに、円卓の上に一枚の紙が投げ出された。そこに記された計画に、一同は息を呑んだ。
「そうは思わないかね」
太后派の首魁たる人物の声に、一同は言葉もなくうなずいた。
この戦争が終わった暁、あの英雄の人生も終わるのだ。