第二千百四十八話 白毛九尾、再び(三)
マルウェール。
ザルワーン方面北東の都市であり、ザルワーン戦争の際には、カイン=ヴィーヴルとウルの活躍によって制圧することができたということは、セツナもよく知っている話だ。当然、ザルワーン戦争後はガンディア政府によって統治運営され、のちにクルセルク方面との行き来に重用された都市でもある。セツナ自身、三つ目の領地であるセイドロックに赴く際に利用した記憶がある。
最終戦争の折には、アバードから雪崩込んできたヴァシュタリア軍に制圧されていたものの、“大破壊”直後、帝国軍との間に生じた小競り合いによって、一時的に帝国軍の支配下に置かれていたという。しかし、帝国軍の支配も長持ちはしなかった。
九尾が、帝国軍を蹂躙したからだ。
白毛九尾の狐は、“大破壊”直後こそ龍府から一歩も離れなかったものの、ある程度状況が落ち着いたと見るや、電光石火の如くザルワーン方面全土を縦横無尽に駆け巡ったという。そして、ザルワーン方面の統治国であったはずのガンディアの敵対者を尽く攻撃し始めた。ヴァシュタリア共同体の残党など、影も形もなくなるくらい苛烈に攻め立て、ついにはザルワーン方面から完全に消え去ることになったということだ。
マルウェールを支配していた帝国軍も、例外にはならない。
九尾の圧倒的な力の前に、さしもの帝国軍も為す術もなく撃退され、マルウェールの放棄を余儀なくされた。果たしてマルウェールのみならず、島内のザルワーン方面の全都市がガンディア領土として復帰した。
エリルアルム=エトセア率いる銀蒼天馬騎士団と龍宮衛士一番隊がマルウェールに入ったのは、つい先ごろのことであり、クルセルク方面での異変を察知した仮政府が、不測の事態に備えるべく仮政府の最高戦力である銀蒼天馬騎士団に出撃を依頼、銀蒼天馬騎士団だけでは不安が残るということもあり、龍宮衛士一番隊が同行する運びになったとのことだ。
先程の戦闘――とも呼べない代物だが――は、彼女たちがマルウェールに到着して最初の戦闘であり、クルセルク方面でなにが起こっているのかは未だ掴めていない状態だという。しかし、なにがしか不測の事態が起きているらしいということは、帝国軍の焦り方から見て間違いないらしい。
「クルセルク方面でなにかしらの問題が起きているというのは、本当なんだな?」
「ええ。それは間違いないかと」
シリュウが茶器を卓に戻しながらうなずく。
マルウェールのガンディア軍作戦本部の一室。室内には、セツナとシリュウ、エリルアルムのほか、ガンディア軍ザルワーン方面軍第一軍団量ミルディ=ハボック、同副長ケイオン=オードが同席していた。ふたりとも、最終戦争の激戦を生き抜いた猛者であり、以前あったときよりも精悍な顔つきになっていた。
「マルウェールを預かる我々は、クルセルク方面を支配する帝国軍の動きを常に監視しております。ここが、帝国軍との戦いにおける最接近地点であり、我々がガンディアの目とならねばなりませんから」
といったのは、ケイオン=オードだ。ミルディともども元々ザルワーン人である彼は、軍師を目指し、ナーレスやエイン=ラジャールに弟子入りを試みたこともあるようだ。しかし、ナーレスには素気無く断られ、エインにも弟子を取るつもりはないと拒まれたらしく、仕方なく独学で勉強をしているとのことだが。
「その監視の目に帝国軍の動きが引っかかった、と」
「はい。どうも、帝国の連中、こちら側に押し寄せている気配があるのです」
「ザルワーン方面に?」
「まずはこちらを御覧ください」
シリュウが、自身の懐から取り出した紙片を卓の上に広げた。紙片は、正方形の大きな紙であり、見れば大陸図の一部を切り取ったものであることがわかる。切り取った部分には、ザルワーン方面、クルセルク方面に加え、アバードの一部が入っている。
「これがこの“島”の全容か」
「クルセルク方面については、あちらから逃げてきたものたちの証言を元にしておりまして、確定情報ではありませんが、ザルワーン方面に関してはこれで間違いありません」
ザルワーン方面というのは地図上で見れば歪な台形であり、北西部に龍府が、北東部にマルウェールが位置しており、南西にバハンダール、南東にスマアダ、というのがザルワーン方面の完全な状態だ。しかしザルワーンの現在を示す地図上では、龍府の南西にあったルベン、バハンダールといった都市が斜線で消されており、“大破壊”によって切り離されてしまっていることがわかる。同様に南東ぶのスマアタ一帯も斜線でかき消されている。
マルウェールの北に目を向ければ、アバード南東の都市センティアのみが地図上に明記されており、それいがいのアバードの都市は、この島には存在しないようだ。
おぼろげな情報から判明したクルセルクの現状はというと、ほぼまるまるこの島内に存在しているらしいことがわかる。中心都市クルセール、ゼノキス要塞、ランシード、ゴードヴァン、セイドロックに至るまで、すべての都市があるのだ。ザルワーン島というよりは、クルセルク島といったほうが現実に即しているのではないか、と思わなくもない。もちろん、ザルワーン側が主体と考えれば、ザルワーン島と呼ぶのは必然であり、問題もない。
「大戦の折、帝国軍は、クルセルク方面を制圧すると、その軍勢の大半をガンディア本土に向けて進発させました。クルセルクに残ったのは、二万あまりの軍勢であり、帝国軍の全戦力からすれば微々たるものに過ぎません」
「まあ、そうだろうな」
二万でも小国家群の一国以上に相当するのだが、ザイオン帝国を始めとする三大勢力というのは、各々総勢二百万を越す大軍勢を要していた。二百万からすれば二万など百分の一に過ぎず、微々たるものといって差し支えない。しかし、その二万あまりがなぜクルセルク方面に残ったのかは疑問の残るところだ。
最終決戦最終盤、三大勢力は“約束の地”たる王都ガンディオン地下遺跡を巡り、全戦力をぶつけ合うが如き大決戦へと至ろうとしていた。その最中、二万程度とはいえ、戦力の一部をクルセルクに残しておくという判断は理解しにくい。
「しかしながら、我々仮政府の総戦力は六千前後。九尾様の御力がなければザルワーン全土の奪還すら難しかったほどです。クルセルクの帝国軍と戦争状態を維持するには、あまりにも戦力が足りないのが現実です」
「セツナ殿の領地であるセイドロックの奪還も試みたのだがな……」
エリルアルムが口惜しそうに視線を落とした。セイドロックの奪還を提案したのは、案外、彼女なのかもしれない。それが失敗したから、悔しがっているように思える。なぜ真っ先にセイドロックなのかは、彼女がいったようにセツナの領地だったから、なのだろう。そういう彼女の想いが、セツナにも伝わってくる。
「残念ながら、帝国軍の戦力はあまりにも強大であり、ザルワーン方面を護るのがやっとのことなのです。それも、九尾様の加護あってのはじめて可能といえるくらいです」
「ふむ……」
「とはいえ、です。帝国軍は、ここ一年余り、マルウェール以西への侵攻を諦めているかのような素振りさえ見せていたのですよ」
「なんでまた」
「先程のように、どれだけマルウェールに急襲をしかけようと、九尾様があまりにも迅速に対応されるので、帝国軍もお手上げとなったのでしょうな」
シリュウが畏怖にも似た感情を声に乗せて、低く唸った。彼が唸りたくなるのもわからないではなかったし、帝国軍が諦観を抱くのも無理のない話だとセツナは想う。九尾の迅速過ぎる反応と圧倒的な力の前では、帝国軍の強大な戦力も意味を成さないのだ。あれだけの巨躯から繰り出される尾の一撃は、数多の武装召喚師を保有する帝国軍であってもひとたまりもあるまい。対応する前に吹き飛ばされるしかない。
「故にここ一年余り、ザルワーン方面は平穏そのものでした」
「まるで嵐の前の静けさだと想っていたのが一年も続いたもんだから、拍子抜けしましたよ」
頭の後ろで手を組みながら、ミルディがいった。
「その平穏がいつまでも続くとは思いもしませんでしたがね」
彼の皮肉げな物言いは、自身への嘲笑という意味もあるのかもしれない。なぜ彼が自嘲しているのかは、さっぱりわからないが。
最終戦争と“大破壊”を乗り越えたものにしかわからないなにかがあるのではないか。
なぜそう想ったかといえば、ベノアガルドの騎士たちのことが脳裏をよぎったからだ。十三騎士のロウファ・ザン=セイヴァスにせよ、ベイン・ベルバイル・ザン=ラナコートにせよ、ルヴェリス・ザン=ラナコートにせよ、だれもがなにかしら複雑なものを抱えていた。
この場にいるセツナ以外のだれもかれも、騎士たちと同じような痛みを抱えているのかもしれない。
“大破壊”を経験しなかったセツナには、わからないことだった。