第二千百四十七話 白毛九尾、再び(二)
白毛九尾は、マルウェールのすぐ北東に座り込むと、そのまま北東に睨みを効かせ続けた。
帝国軍が北東――つまりクルセルク方面に逃げ帰ったからであり、マルウェールの近辺に前線基地なりなんなりがあるからなのだろう。帝国軍がマルウェール攻略に当たって、なんの準備もしていないわけがないのだ。帝国軍が逃げ帰ったのは、クルセルク方面そのものではなく、マルウェール攻略のための前線基地と考えるべきだ。そして、それはつまりどういうことかというと、帝国軍がマルウェールへの侵攻および制圧を諦めてはいないということだ。
帝国軍残党は、クルセルク方面のみならず、このザルワーン島全土を支配することを目標に掲げているようなのだ。どれだけ白毛九尾に蹴散らされようとマルウェール以西への侵攻を度々計画しては実行に移しているところを見れば、間違いあるまい。クルセルク方面だけで満足できない理由がなにかあるのか、セツナには皆目見当もつかなかった。
しかし、当然のことながら、セツナ自身も、帝国軍残党のザルワーン方面侵攻を許すつもりはなく、マルウェール侵攻を諦めないのであれば、徹底的に戦うつもりでいた。九尾に頼るまでもない。いや、頼る訳にはいかないのだ。
白毛九尾の巨躯を眺めながら、地上に降りる。
マルウェール北東部の平野に展開していたガンディア軍は、九尾の到着と圧倒的な活躍に沸きに沸いていた。大勝利も大勝利だ。沸かないわけがないのだが、セツナはなんとも複雑な気分だった。ガンディア軍の勝利は喜ぶべきだが、シーラの無事が確認できない手前、素直には喜べないのが現状なのだ。
と、そのとき、ガンディア軍が騒然とし始めたのは、もちろん、
「空からなにものかが!」
「帝国軍の武装召喚師ではないか!?」
セツナは、バツの悪い顔になるのを自覚しながら、かといって、慌てふためくガンディアの兵士たちにどう説明すればいいのかわからず、ただ降下速度を緩めるに留まった。ここでガンディア軍を刺激しては、攻撃されかねない。
「な、なら、銀蒼天馬騎士団に協力を――」
「慌てるな馬鹿者ども」
突如響いた冷ややかな声により、兵士たちの視線が一斉にそちらに集まる。セツナも声の主を見遣ったが、龍宮衛士の軍服の上から軽装の鎧を身につけた男は、一見ではなにものかわからなかった。兜のせいで顔がよく見えないのだ。しかし、龍宮衛士であり、兵士たちに対し発言力があるということから、ある程度の想像はできる。
「シリュウ様!? しかし……!」
「あの方をどなたと心得る。あの方こそ、我がガンディアが救国の英雄セツナ=カミヤ様だ」
「はっ!?」
「セツナ様……!?」
「セツナ様、セツナ様が舞い戻られた……!」
「おおおおおっ!」
「セツナ様だと!」
「九尾様だけでなく、英雄様までか!」
兵士たちの反応の様変わりぶりに多少の気後れを覚えたものの、熱狂的な歓迎ぶりを見せる彼らを見ていると、こっちまで嬉しくなってくるから不思議だった。兵士たちにしてみれば、かつての英雄が姿を見せてくれることほど心強いことはない、ということなのだろうし、その気持ちもわからないではない。しかし、英雄、英雄と持て囃されることには、複雑な想いがあるのがいまのセツナだった。最終雨戦争以前ならば、むしろ胸を張り、彼ら兵士たちの前で英雄らしく演じてみせたものだろうが。
セツナは地上に降り立つなり、多少遠巻きでこちらを見、興奮する兵士たちの様子になんともいえない表情になった。
「なんだかな」
「騒ぐのも当然でありましょう」
そういって兜を脱いだのは、先程、兵士たちを一喝した龍宮衛士だ。兜の下から現れたのは、白金色の頭髪と秀麗な貴公子の顔立ちであり、その髪色から何者なのかすぐに理解できた。白金色の髪色は、オリアス=リヴァイアの血筋であることの現れなのだ。つまり、
「シリュウか」
「ご無沙汰しております。セツナ様。このシリュウ=リバイエン、現在は龍宮衛士の一番隊長を勤めさせて頂いております」
「ああ、聞いている。活躍もな」
セツナは、彼が差し出してきた手を握りながら笑いかけた。見たところ、ガンディア側に死傷者はいないようだった。九尾の迅速な対応のおかげで、戦闘が始まるより早く撃退することができたのかもしれない。
「それに随分と久しぶりだ」
「セツナ様が無事で、本当に良かった。太后殿下や王妃殿下、兄上を含め皆、セツナ様を心配していたのです。無論、姉上や皆様方も、ですが」
「済まない。心配をかけた」
セツナが謝るのをシリュウは制した。
「いえ。無事な姿を見せてくださったのです。それだけで十分ですよ」
それから彼は、九尾を見やった。マルウェール北東の平野に鎮座する巨獣の存在感たるや凄まじいとしか言い様のないものであり、だれもが畏敬の念を込めて見守っているようだった。そんな兵士たちの様子を見れば、九尾信仰がザルワーンの大地に根付いているという話も嘘ではないということがわかる。九尾は、ザルワーンの守護神なのだ。帝国軍を一蹴した瞬間を目の当たりにした将兵は、ますます九尾への信仰や畏敬を強めるのだろうが、果たして、その信仰の源である九尾が突如として消え去るような事態になった場合、彼らへの影響はどのようなものになるのか、セツナには計り知れないものだった。
「九尾様とともに参られたということは、龍府にも立ち寄られたようですな?」
「ああ。お三方の無事を確認できたことにはほっとしている。ザルワーン方面の無事もな」
「それもこれも九尾様のおかげではあるのですが」
「龍宮衛士の活躍も聞いている」
“大破壊”後、ザルワーン方面がヴァシュタリア軍の支配から脱却できたのは、すべて白毛九尾のおかげであるということは事実なのだろう。しかし、ザルワーン方面が龍府に根拠を置く仮政府の名の下に秩序を取り戻すことができたのは、リュウイらを始めとする龍宮衛士やエリルアルム率いるエトセア遺臣団の活躍があってこそのものだというのもまた、事実に違いない。九尾は、敵を排除することはできても、混乱を収め、秩序を形成することはできまい。
しかし、シリュウはただ頭を振り、九尾に畏敬の目を向ける。
「我々など、九尾様の足元にも及びませんよ。九尾様がヴァシュタリア軍を排除してくださらなければ、ザルワーンは未だヴァシュタリア軍の支配下にあったでしょう」
だからこそ、ザルワーンのひとびとは九尾を神の如く崇め、讃え、心の拠り所にさえしている。
それは理解しているし、シリュウのいいたいこともわからないではない。だが、九尾だけではどうにもならなかったということも、しっかりと認識しておくべきだ、とセツナはいいたいのだ。もちろん、九尾の存在を軽視しているわけではない。シリュウのいうことには一言一句同意だし、異議を挟む余地はなかった。
「して、セツナ様はなぜマルウェールに?」
「マルウェールの様子が気になったのも確かだが、九尾に用事があってな」
「九尾様に?」
「ああ……話せば長くなるが」
どこからどう説明するべきか、などと考え始めようとしたちょうどそのときだった。セツナたちを取り囲む兵士の人垣を掻き分けながら、なにものかが近づいてくるのがわかったのだ。
「セツナ殿! セツナ殿が来られたとは真か!」
「あれは……」
「エリルアルム殿ですな」
「ああ、覚えているよ」
セツナは、兵士たち大の男よりも上背のある女性がきらびやかな鎧を身に纏い、兵士たちを押しのけるようにして駆け寄ってくるのを見て、安堵の笑みをこぼすほかなかった。エリルアルム・ザナール・ラーズ=バレルウォルン。かつて、小国家群有数の国として知られたエトセアの王女であり、バレルウォルン領主にして騎士公――というのが、以前の肩書だが、最終戦争によってエトセアが滅ぼされてからというもの、エリルアルム=エトセアと名乗るようになっていた。セツナとは、ガンディアとエトセアの将来のための政略結婚により、伴侶となるはずの関係だった。それもまた、エトセアが滅びたことで破断となったのだが、だからといってセツナと彼女の関係が険悪化するようなことはなかった。
むしろ、より一層、セツナは彼女の幸福を願うようになっていたし、そのために自分ができることがあればなんでもしようという心構えがあった。
セツナは、自分に関わった人間が不幸になるようなことを望まない。
「ああ、セツナ殿……本当に、セツナ殿……」
彼女は、セツナの無事な姿を確認した瞬間、感極まったらしく、言葉を飲み込んでしまったようだ。目に涙さえ溜めているのが見て取れて、その反応にこそ、セツナは感動した。無論、エリルアルムの無事な姿をこの目で見て、嬉しくないはずがないのだが、彼女が自分のことをそこまで心配してくれていたという事実のほうが重要に想えた。
「お、覚えておられるだろうか……わ、わたしは」
エリルアルムは、慌てて兜を脱ぎ、素顔を衆目に晒した。女傑と呼ぶに相応しい経歴と実力の持ち主だが、整った顔立ちに茶褐色の髪、緑柱玉のような瞳は、いつだって美しい。普段は凛とした佇まいで、いかにも武人気質といった風情を漂わせているが、いまは、セツナとの再会が予期せぬものだった驚きに染まっている。そんな普段見せない素顔こそが愛おしい。
「もちろん、忘れてなどいないよ、エリルアルム殿」
「セツナ殿……」
「積もる話もあるでしょう。一先ず、中へ入られてはいかがですか?」
シリュウの提案を受けて、セツナは、一瞬考え込んだ。白毛九尾を見遣り、九尾の狐がその美しい顔を北東に向けているのを確認してから、シリュウに視線を戻す。九尾がその場から動こうが動かまいが、セツナはしばらくマルウェールに滞在しなければならないのは事実だ。まずは、帝国軍問題を解決しなければ、うかうかシーラとの話し合いを進めることもできない。
「……ああ、そうさせてもらおうか」
「では、こちらへ」
シリュウはにこりと微笑むと、マルウェールに向かってセツナを先導した。シリュウは、リュウイやリュウガとも異なる落ち着いた雰囲気の持ち主であり、話しやすさでは三兄弟の中で一番かもしれない、などと思いながら、セツナは彼の後についていった。




