第二千百四十六話 白毛九尾、再び(一)
凄まじい振動と衝撃に蹴散らされ、吹き飛ばされる感覚の中で、セツナは、白毛の九尾の狐が、白い陽炎のようになって空中に躍り出るのを目の当たりにした。そして、地面に背中から叩きつけられ、激痛に歯を食いしばる。九尾の狐の覚醒と跳躍の衝撃が、防具ひとつ身につけていないセツナを容易く弾き飛ばしたのだ。つまり、九尾の狐の眼中になかったということであり、セツナの声に反応したわけではなかったことは明らかだ。
しかしセツナは、その程度のことでへこたれるような弱い心は持ち合わせていなかった。痛む背中を擦りながら呪文を口ずさみ、メイルオブドーターを召喚する。九尾が飛んでいった方角を見遣り、それから観測所を一瞥する。観測所の小さな建物からは龍宮衛士たちが飛び出し、厩舎に駆け寄るのが見えた。九尾を追いかけるつもりなのだろうが、馬では、間に合うまい。
メイルオブドーターの速度ならば、どうか。
昨日の今日ということもあり、消耗が完全に回復したわけではなかったものの、セツナは、構うことなく飛び立つなり最高速度を出力した。黒き翅を羽撃かせ、大気を支配し、空気を切り裂くように飛翔する。
白毛九尾の狐の姿は、とっくに見えなくなっているものかと想いきや、そんなことはなかった。なぜならば、白毛九尾の巨躯は、丸まっているだけで山のように巨大なのだ。それが立ち上がればどうなるか。低い山ならば軽々と凌駕するほどの巨躯であり、やはり、アバードで見た九尾とは比較にならないほどの巨大さだった。
それだけの巨獣だ。どれだけの速度で移動しようとも、セツナの視界から消えるようなことはなかった。島の外に出ていったというのであればその限りではないが、九尾の活動範囲は、ザルワーン方面内であることはわかりきっている。見逃すことはない。
(どこへ向かっている?)
九尾が、セツナの声にではなく、別のなにかに反応したのは間違いない。九尾のこれまでの活動履歴を鑑みれば、おそらくザルワーン方面に害をなすなんらかの動きがあり、それを察知したからこその覚醒と疾駆なのだろう。そして、その進行方向は、九尾山があった場所から遥か北東のようだった。
(マルウェールか?)
九尾山の北東とはつまり、龍府にとっての北東方面でもあり、ザルワーンにおける北東といえば、城塞都市マルウェール以外にはない。マルウェールまでがザルワーン方面であり、それより北東の領域はかつてクルセルク方面と呼ばれていた地域となる。クルセルク方面も最終戦争以前はガンディアの領土であり、左眼将軍デイオン=ホークロウの領地として知られていた。だが、最終戦争が始まると、北からはヴァシュタリア軍、東からは帝国軍が押し寄せ、大半が帝国軍の支配下に置かれたとのことだった。
それは、“大破壊”後のいまも変わっておらず、クルセルク方面は帝国軍が圧倒的に優勢であり、わずかばかりのヴァシュタリア軍はザルワーン方面に押し出された挙句、九尾によって撃滅されたという話を聞いている。ヴァシュタリア軍が九尾によって殲滅されたのは、やはり、ザルワーン方面への野心を隠さなかったからであり、友好的ではなかったからのようだが、もしヴァシュタリア軍がザルワーン方面を取り戻したガンディアに降ろうとしたのであれば、話は別だっただろう。
現実には、そうはならなかったが。
クルセルク方面を支配している帝国軍は、ザルワーン方面――つまり、ガンディアに対し、敵対的な態度を取り続けているという。それはある種、当然の話ではあるだろう。ザイオン帝国といえば、大陸三大勢力の一角をなし、圧倒的な武装召喚師の数を誇る超大国だった。そんな国の一軍団とはいえ、ガンディア如き小国の、それも生き残り風情と対等な立場になるなど、考えられるはずもない。さん大勢力の人間というのは、一概に小国家群を見下しているのが普通らしい。
故に龍府の仮政府は、マルウェールを最重要拠点と認定しているのであり、戦力を充実させるべく奮闘しているのだ。エリルアルム率いる銀蒼天馬騎士団と龍宮衛士の一部がマルウェールに出向いているのもそのためのようだ。
九尾がそんなマルウェールに向かっているということは、考えられることはふたつにひとつしかない。
(帝国軍が動き出したんだな)
セツナは、内心舌打ちせずにはいられなかった。これからシーラと対話しようというときに邪魔をされては腹が立つのは当然だろう。しかもそれが帝国軍の残党ならばなおさらだ。セツナはここの問題が片付けば、帝国の問題を収めに行こうとしているのだ。無論、帝国本土に戻ることもできず、クルセルク方面に取り残されたものたちにとっては知った話ではないということは、わかってはいるのだが。
だからといって、ザルワーン方面への進出を許すわけにはいかないし、そもそも、クルセルク方面だって帝国軍に支配させたまま放置しておくのも問題だろう。もしシーラと話し合うことができ、彼女を九尾状態から解放した場合、ザルワーンの護りは、仮政府の戦力のみで行わなければならなくなる。
セツナたちは、ここに留まっていることはできないのだ。
そのため、セツナはここを離れる前に仮政府にとって禍根の種となるものを排除しておきたいという気持ちもあった。そのひとつが九尾状態のシーラであることはいうまでもない。九尾は、いまのところ、ザルワーン方面の守護神の如く振る舞い、仮政府の味方のようだが、それもいつまで続くものか。シーラの制御を離れたとき、九尾は仮政府にさえ牙を剥くかもしれない。
そういう可能性が万にひとつもないとは限らないし、これ以上、シーラに無理をさせるわけにはいかないのだ。
故にセツナはシーラを説得し、九尾状態を解除させるべく話しかけたのだが、残念ながら彼女には、彼の声は届いていなかった。
(やっぱり、シーラの意識はないのか)
あれば、二年以上の長きに渡って九尾状態を維持しているはずもないし、できるわけもない。九尾状態は、ハートオブビーストの最大能力。消耗は激しく、負担も絶大だという。いくら鍛錬をツンだからといって、そんなものを長期間発動し続けられるはずもないのだ。シーラの意志によって維持しているわけではなく、ハートオブビーストが、シーラの意識を乗っ取り、九尾状態を維持しているのではないか――というセツナの想像は、どうやら当たってしまったようだ。
当たって欲しくない想像ばかりが当たる現実に苦い顔をしながら、セツナは、純白の巨獣を追い続ける。速度は、圧倒的に白毛九尾のほうが早い。山のような巨躯だ。それが俊敏に動いている。軽く跳躍するだけで、風圧で暴風が巻き起こるほどの速度が出ていた。しかし、その余波が周囲に被害を起こすことはなく、跳躍の際にも着地の際にも大地に与える影響はわずかだった。それだけ九尾が周囲への影響を考慮しているという証明であり、そこにシーラの意志を多少なりとも感じずにはいられないのだが、しかし、シーラの意識があるとは考えにくいのも事実だ。ハートオブビーストがシーラの意を汲んだだけのことだろう。
だからといって、九尾のまま捨て置いていいはずがないのは、当然の結論だ。九尾がシーラの意思や想いを無視するようにならないとは限らないのだ。
いや、九尾がシーラの望み通りに行動し続けようが、放っては置けない。
それこそ、シーラとの約束を破ることそのものだ。
彼女を護ると約束したのであれば、現状から救い出すべきだろう。
白毛九尾は、九つの尾を靡かせながら、山河を越え、マルウェールをも一足飛びに飛び越えて見せた。そして、立ち止まると、巨大で圧倒的な質量を誇る尾のいくつかを鞭のようにしならせ、大地を薙ぎ払う様が見えた。
セツナがマルウェール上空に辿り着いたときには、大勢は決していた。
白毛九尾の尾の一撃で壊滅的被害を受けたのだろう帝国軍が、マルウェール攻略を諦め、撤退を始めていたのだ。九尾は、撤退の意思を見せる敵に追撃を叩き込むことはなく、ただ、マルウェールの北東の戦場に座り込み、帝国軍の撤退が完了するのを待ち続けた。
マルウェール北東の戦場に展開していたガンディア軍は、九尾の到着と一蹴に歓声を上げる以外にはなく、尻尾を巻いて逃散する帝国軍に憐れみの目さえ向けていた。
その中には、龍宮衛士もいれば、ガンディア軍とは異なる鎧兜を身につけた一団がいた。エリルアルム率いる銀蒼天馬騎士団だろう。
白毛九尾は、帝国軍が戦場から立ち去ったあともマルウェール北東部に居座り続けた。帝国軍が完全にマルウェールを諦めるまでは離れない、とでもいいたげな様子であり、セツナもまた、シーラを解放するまではマルウェールに残る必要があった。