第二千百四十五話 九尾山へ(五)
九尾山。
白毛九尾の狐、あるいは九尾と称される巨獣が丸まることによって現出したそれは、遠目に見ればただの山にしか見えない。しかし、ある程度近づき、懸命に目を凝らして見れば、常にわずかながらも上下していることがわかるだろう。それだけでは、常に九尾山だけが地震でも起きているかのようだが、実際は違う。九尾山そのものが呼吸していることの証明なのだ。
九尾山は生きている。
白毛九尾の狐――ハートオブビースト・ナインテイルは、生きて、呼吸しているのだ。
つまり、シーラもまた、生きているはずだ。ハートオブビーストは、召喚武装だ。シーラを主と認め、彼女に力を貸していたのだ。シーラが望まない限り、ナインテイルを発動することはなく、また、維持することもないだろう。現状はシーラが望んだ通りの状況だと考えていい。
しかし、だからといって、現状シーラがまったくもって無事であるかどうかは不明なままだ。召喚武装には逆流現象と呼ばれるものがある。召喚武装の持つ膨大な力が使用者に逆流し、そのまま意識を焼き尽くし、廃人同然にしてしまうというものであり、かつてミリュウが経験し、自分を見失いかけたことがある。
逆流現象は、実力に合わない召喚武装を使おうとした場合に起こりうる現象であり、ミリュウの場合は黒き矛の力があまりにも強大過ぎただけでなく、セツナ以外には制御しきれないという特性があったために遭遇している。シーラほどの技量の持ち主ならば心配はないはずだが、とはいえ、安心していいわけでもない。
感情の昂りは、ときに制御を超え、暴発を招きかねない。
ヴァシュタリア軍との戦いの最中、シーラの精神状態がどうだったかなど、セツナには想像しようもないのだ。もしかすると、激情のあまり、制御すら手放した可能性も低くはない。だからこそ、シーラは逆流現象に飲まれ、我を忘れてしまったのではないか。
でなければ、二年以上に渡ってナインテイルのままで在り続けるなど、考えにくい。シーラの心身にかかる負担を考慮しても、ありえないことだ。
セツナは、九尾山に接近するに従い、シーラのことを心配する気持ちが増大していくのを認めた。
(無事でいてくれよ、シーラ)
強く願いながら、九尾山の麓に降り立つ。快晴の空のちょうど中心に太陽が位置する時間帯だった。春。荒涼たる大地には、穏やかな風が吹き抜けていて、とても“大破壊”によって蹂躙され、変わり果てた光景には似つかわしくない陽気だった。
山のように丸まり、呼吸をする以外では微動だにしないそれへと接近を試み、なんの反応もないことを確認して、さらに近づく。九尾があらゆる呼びかけに応答しないことは、グレイシアたちの話からも、観測所から得た情報からもわかっている。セツナが近づいたところで、同じことだ。
おそらく、なにものかが接近していることは把握しているはずだ。そこにシーラの意識があろうとなかろうと、召喚武装の最大能力を駆使しているいま、ハートオブビーストの使い手の五感は通常以上に研ぎ澄まされ、鋭敏化している。大地を踏みしめる靴音を聞けば、大気の流れから、接近物の大きさや形状さえも把握しているかもしれない。それくらいは、容易だろう。
召喚武装による五感の強化は、圧倒的だ。
しかし、やはりというべきかどうか、九尾山の反応はなかった。
セツナは多少の落胆を禁じ得なかった。もしシーラが、九尾山の中で生きているのであれば、意識を保っているのであれば、セツナの接近になんらかの反応を示してもいいはずだったからだ。ナインテイルほどにもなれば、観測所でのやり取りくらい把握しているだろうし、セツナが観測所から九尾山に向かったことも理解していてもなんら不思議ではなかった。それなのに、九尾山は身じろぎ一つしない。
山のように静まり返ったまま、ただ、呼吸を続けている。
見つめ、仰ぎ見る。
山肌は、純白の体毛に覆われている。山肌というよりは、九尾の体躯なのだが、その巨躯を覆う白い毛並みは、真昼の陽光を浴びて目に痛いほどあざやかに輝いていた。風に揺れる体毛は、風になぶられる稲穂のようであり、白波のようでもあった。それが遥か高度まで続いている。あまりにも巨大であり、かつてアバードで顕現したナインテイルとも比較しようがないほどだった。
それほどの力を引き出したのだ。
シーラの意識が無事である可能性がますます薄くなり、セツナは、厳しい表情になった。シーラの意識が無事でなければ、この九尾と話し合うことができるかどうかもあやしい。
召喚武装は意志を持つ。
故に九尾が言葉を発することができるのであれば交渉の余地はあるといえるのだが、しかし、ハートオブビーストはシーラをこそ主と認め、溺愛さえしている有様だったのだ。そんなハートオブビーストが果たして、セツナとの交渉に応じてくれるかどうか。
(あーもうっ、考えてたって仕方がねえだろ)
セツナは自身を叱咤すると、さらに九尾に近づき、呼びかけた。
「シーラ」
日光を浴びてあざやかに輝く純白の巨躯は、すぐには反応を示さない。白い山のままに、ただ泰然自若とそびえ立っているだけだ。もう一度、呼ぶ。
「シーラ、聞こえていないのか?」
やはり、反応はない。
いや、少し違う。
地上から見れば、天を衝くほどに巨大な山は、不自然なほど微動だにしなかった。まるで呼吸さえ忘れたかのように、だ。それはつまり、反応したということにほかならないのではないか。セツナの呼びかけを聞いて、息を潜めたかのような印象を受ける。
「俺がわからないってことは、ないよな。俺だよ。セツナだ」
セツナの三度の呼びかけにも、大きな変化はなかった。九尾の巨躯は、丸くなったまま、呼吸さえも止めてしまっている。それではまるで、セツナの呼びかけに対し、ある種の感情を露わにしているようではないか。それはつまるところ。
「……もしかして、怒ってる……よな。うん」
セツナは、シーラが自分に対している抱いているであろう心情を想像して、深い痛みを覚えた。どういう理由で胸が痛んだのか、深々と考えるまでもない。すべて、セツナのせいだ。セツナの紡いだ言葉、成した行動が、刃の如く自分自身を切り裂いている。
「済まなかった」
ただ、謝るしかない。全身全霊で、謝罪するしかない。
「これだけ長い間、待たせてしまった。約束したのにな。シーラのことは俺が護るって、いったのに。なのに、今日までずっと、ひとりにさせてしまった」
約束は、護るためにあるものだ。
セツナ自身、そう信じていたし、そう公言してもいた。そして、これまでそう標榜して生きてきたからこそ、皆がセツナを信じ、ついてきてくれたのだということも、わかっている。だからこそ、セツナはこれからも約束を護り続けなければならないし、約束を破るようなことがあってはならないのだ。それこそ、自分の存在意義に関わることだ。一度結んだ約束を破るということは、自分自身への裏切りそのものといってもよかった。
セツナは、シーラとの間に結んだ約束を忘れたことはない。いつだって頭の中にあったし、常に行動原理のひとつとして息づいていた。
しかし、最終戦争が起きたことで、セツナの約束は、宙に浮いた。シーラを護ることも、ファリアやミリュウ、レムたちとの約束さえも、果たすことを忘れてしまった。
セツナは、己の想うままに戦い、そして敗れた。
それがセツナにとっての最終戦争のすべてであり、その結果、セツナは地獄に堕ちることになったのだが、そのためにシーラとの約束を果たせなかったことは、心残りだった。
「許してくれ、なんて、恥知らずなことをいうつもりはない。ただ、謝らせてくれ。そして、聞いてほしいんだ。俺の謝罪を」
セツナは、九尾の巨躯の前で跪き、真剣に思いの丈をぶつけた。
そのとき、突如として白い山が鳴動した。
「シーラ……!」
セツナは、彼女が反応してくれたものだと想い、歓喜の中で顔を上げた。
震える山が白い炎に包まれたかのような輝きを帯び、巨大な無数の尾が天地をかき回すように渦を巻いて虚空に踊る。
そして、白い山は、全長数百メートルでは足りないほどの巨躯を誇る九尾の狐へとその形を変え、美しい青い眼は、セツナを黙殺した。
白毛九尾の狐は、大地を蹴った。