第二千百四十一話 獅子姫
レオナ・レーウェ=ガンディアは、大陸暦五百二年九月二十二日、この世に生を受けた。
当時、ガンディアはアバード動乱の後始末、同盟国ルシオンへの援軍派遣を終えたばかりであり、セツナにとっても極めて重要な事件が終わったばかりのことだった。いまも強く覚えている。なぜならばそれは、ニーウェとの最初の対決の直後のことだったのだ。鏡写しのような容姿をした敵との遭遇、そしてわけもわからぬままの敗北は、セツナ自身、この上なく衝撃的な出来事だった。もしあのとき、ウルクの介入がなければ、セツナは殺されていた可能性が高い。そして、ニーウェと合一を果たし、ニーウェの一部となっていただろう。そうならなかったのは偶然にほかならず、故にこそ、セツナの意識の片隅に常にあの日の出来事が漂っているのだ。
レオナ王女が誕生したのは、それからすぐのことだった。
忘れもしないあの日。
王家に跡継ぎが誕生したことで王都中が祝福と歓喜に満ち溢れ、だれもがガンディアの未来は輝けるものだと信じた。ガンディアはなにからなにまで順風満帆であり、これから先も同じように進めるものだと、疑問を抱くものもいなかった。セツナだって、そう信じていた。ジゼルコートの叛乱を鎮圧した後ですら、そう想っていたのだ。
まさか、あのような結末を迎えるなど、想像できるわけがない。
セツナがレオナ王女の誕生日を覚えているということを告げると、グレイシアは手を叩いて喜んだ。
「レオナちゃんも喜ぶわ。セツナちゃんの英雄譚が、あの子の子守り歌だったのよ」
「へ……?」
「レオナちゃんは女の子でお姫様だけど、たったひとりの後継者ですもの。ガンディアのつぎの王位継承者はあの子になるわ。ほかに候補者がいるなら話は別だけれど、そうではないから」
グレイシアが顔を俯け気味にいったのは、レオンガンドの生存が絶望的であるということを思い出したからなのかもしれない。
グレイシアもナージュも、龍府に住む、いや、ザルワーン島に住むもの全員が全員、ガンディア本土がどのような事態に陥ったのかを知らなかった。故に、世界がこのように変わり果てたいまも、ガンディオンは無事だと信じることができたし、ガンディオンに残ったものたちの生存を夢見ることができていた。
しかし、“大破壊”の発生を見届けたファリアたちの証言が、ガンディオンの無事は絶望的であることがはっきりとわかってしまったのだ。ファリアたちも、言葉を濁そうとはしたが、グレイシアらの追及を逃れることはできなかった。
“大破壊”は、王都ガンディオンを貫く光の柱の出現によって、始まったという。そして、その光が四方八方へと伸びていき、大陸を引き裂いていく破滅的な光景を目の当たりにしたのだと、ファリアたちはいった。まさに世界の終わりというに相応しい光景であり、口にするのも恐ろしいほどだったらしく、ファリアもミリュウも青ざめた顔をしていた。
大陸をばらばらに引き裂いた“大破壊”の中心地点である王都ガンディオンが、無事で済むわけがなかった。当然、その場に残っていたであろうものたちは皆、命を落としたと考えるべきだ。奇跡でも起きていない限り、王都のひとびとが無事なはずがない。
ではなぜ、クオンが生きていたのか、という話になるのだが、それはいま考えるべきことではなかった。
グレイシアもナージュも、知りたくはなかっただろう事実を知り、しかし、気丈に振る舞い続けた。グレイシアにとっては最愛の息子であり、ナージュにとっては最愛の夫であるレオンガンドの死、そして多くの家臣、親族の死は、ふたりにとってとてつもない衝撃をもたらしたはずだが、ふたりは、まるでなにごともないかのように受け入れ、話を続けたのだ。その気丈さは、さすがは王家の人間として常に政争の中に身をおいてきただけのことはある、ということなのだろうが、やはり、精神的に無理をしていたのだろうことは想像に難くない。
そんなグレイシアのことが心配になったが、セツナがそのようなことを口にすれば、差し出がましい真似と受け取られかねない。
「あの子には、将来、この国を背負って立ってならないのよ。そのためにも、身も心も強く、たくましく育って欲しいの」
「だからって、俺の話ですか」
「そうよ。だって、英雄セツナのお話ほど、あの子の食いつきがいいものはないもの。ナーレスちゃんが将来王子王女が生まれたときのために、って用意してくれていた読物もたくさんあるんだけどね。あの子には受けが悪くて」
「受けで決めるのはどうかと」
「でも、レオナちゃん、英雄セツナみたいになるんだって息巻いてるわよ」
「それこそおすすめできませんよ」
「あら、どうして?」
グレイシアは、セツナの意見を不思議がった。その純真無垢といってもいいような表情は、とても孫娘を持つ年齢の女性とは思えないほどに可憐であり、セツナもたじろがざるをえなかった。とはいえ、いわなければならないこともある。
レオナがセツナの英雄譚なるものを気に入ってくれるのは、嬉しい。それが素直な気持ちだ。しかし、セツナを目指すのは、王女という立場の人間にとって大いなる間違いだ。
「俺の道は、修羅の道です。一兵卒が進むような道でもなければ、王者が進むべき道でもありません。王女殿下は、王の道を進まれるべきかと」
「そうねえ……そういうことなら、セツナ殿から直接レオナ王女に進言してくれるかしら」
「太后殿下がそう仰られるのであれば」
「王女様、英雄殿の話なら耳を傾けてくれるかもしれないわね」
どこかいたずらっぽいグレイシアの笑顔は、彼女がこの状況を愉しんでいることの現れなのだろうが。
セツナは、いかにしてまだ三歳そこらの王女を説得すれば良いのか、腐心しなければならないことに気づき、渋い顔になった。
レオナの部屋は、泰霊殿の最上階にあった。グレイシアとナージュの私室も同じ階層にあるという話であり、龍宮衛士の警備は厳重を極めている。
とはいえ、龍府の治安は驚くほど安定しており、“大破壊”から今日に至るまで、事件らしい事件も起きておらず、暴動なども発生したことがないという話をリュウイたちから聞いている。それもこれも九尾様のおかげである、というのは、龍府住民の共通認識のようだ。
龍府の治安が安定しているからこそ、ガンディア王家のひとびとも、穏やかな日々を過ごすことができており、レオナもすくすくと育っていられるということだ。そして、レオナの健やかな成長は、龍府市民に良い影響を与えているだろうことは想像に難くない。かつてのザルワーン国民は、数年に渡るガンディアの統治によって、ほぼ完全にガンディア国民としての心構えを持つようになっていた。
そんなガンディア王家の、お姫様が日々健康的に過ごし、成長しているという話を聞けば、国民たるもの、嬉しくない訳がない。
セツナ自身、レオナ王女が健やかに成長しているという話を聞いただけで感動に打ち震えていた。セツナがガンディア王家の家臣として仕えたのはわずか数年ばかりだが、その数年こそ、彼の人生のほとんどすべてといっていいほどに濃密な期間であり、時間だったのだ。
故にセツナは、レオナとの数年ぶりの対面に高揚と緊張の中にあった。
部屋の前には、侍女がひとり立っていた。質素な衣服は、グレイシアらの好みに合わせたものだろう。
「これは太后殿下、奇遇ですね」
「奇遇? どういうことかしら」
「王妃殿下がついさきほど来られまして」
「あら、ナージュちゃんが? ならちょうど良かったわ」
グレイシアが手を打って喜ぶと、侍女が扉の前から退いた。グレイシアが扉の取っ手をおもむろに引き、中へ足を踏み入れる。一切の無駄のない動きは、洗練されたものだ。さすがは王族というべきなのかどうか。
グレイシアは、室内に足を踏み入れるなり、甘ったるい声を上げた。
「レオナちゃん、あなたのおばあちゃんが逢いに来ましたよ」
「あっ、太后様、ご機嫌麗しゅうございます」
室内から返ってきた声は喜びに満ちているとともに、三歳児とは思えないほどはきはきとしたものであり、セツナを驚かせた。言葉をある程度喋れるようになっているのはなにもおかしなことではないにせよ、子供にしては難しい言葉を平然と使えるらしいことが衝撃的だったのだ。
「御機嫌よう、レオナ王女殿下。それに王妃殿下も」
「お義母様、なにもレオナに合わせなくても」
「いいじゃない、別に。減るものでもないし。ねえ?」
「はい、お祖母様」
「うふふ」
セツナはグレイシアの後ろ姿しか見えていないが、太后殿下が相好を崩しまくっているのだろうことは想像に難くなかった。声が、そう思わせるのだ。グレイシアのレオナ王女への愛情は、とどまるところを知らないといってもいいのではないか。それくらい、愛情たっぷりの反応であり、声だった。
セツナがグレイシアに続いて室内に足を踏み入れると、その直後、グレイシアに歩み寄ろうとしていた幼女と目が合った。あざやかすぎるほどの黄金色の頭髪と、淡い青の瞳を持つ幼女。金色の頭髪と透けるような白い肌もガンディア王家の血筋だが、その淡い青の虹彩はナージュそっくりであり、レオンガンドとナージュの愛の結晶であることは一目瞭然だ。まだ三歳の幼女だというのに整った目鼻立ちが、さすがは王族といった感銘を与える。いや、感動は、レオナの幼い容姿の中にレオンガンドを見出したからなのかもしれない。
セツナの思考が一瞬、停止したのもそのためだろう。言葉にできないほどの感動がそこにあった。
「お祖母様、そちらの殿方は?」
「ああ、そうよ、そうだったわ。つい紹介し忘れていたわね。この方は――」
グレイシアがセツナを紹介しようとした瞬間、レオナが両目を見開いた。
「セツナだな!」
「あらん」
「まあ、一目でわかるものなの?」
「黒い髪に赤い目、そして黒装束……まさに英雄セツナではないか!」
興奮しながら目を輝かせるレオナの反応を目の当たりにして、セツナは、呆然とするしかなかった。
このような反応は、想像すらしていなかったのだ。