第二千百三十九話 龍府の事情(三)
「ところで、龍府はいまも俺の領地のままのようですが」
セツナが話を切り出すと、ナージュが穏やかな微笑みを浮かべた。黒髪に褐色の肌が特徴的な王妃は、相も変わらず美しい。
「当然でしょう。セツナ殿の領地としてここ龍府を任せたのは、我が夫でありガンディア国王レオンガンドなのです。世界が変わり果て、どれだけときが流れようと、ここがセツナ殿の領地であることに変わりがあってはなりませんよ」
「王妃殿下のいうとおりですよ、セツナ殿。なにか、心配なのですか?」
「いえ、そういうことではないのですが……」
「どしたの? セツナ」
「そうね。さっきからなんか変よ」
「ずっと考えていたことがあるんです」
「ずっと?」
「はい、ずっと。そうですね……俺がこの世に舞い戻ってきてから、ずっと」
セツナは、“大破壊”直前から二年以上に渡ってあの世に逃れていたという事実について、グレイシアたちにつぶさに語っている。その二年の逃避期間は修行期間そのものであり、セツナにとって必要不可欠な時間ではあったのだが、だからといって、正直に話すのは少々心苦しいものがあった。それがガンディアの王妃と太后であればなおさらだ。セツナはあのとき、王都ガンディオンを護ることさえ放棄し、地獄へ逃げたのだ。折れた矛と折れた心を抱えたまま、逃げた。
敵前逃亡といっていい。
その事実がいまもなお、セツナの心を苦しめるのだが、苦しんで当然だと冷ややかに想う自分もいた。逃げたのだ。戦い、敗れ、それでも命が残っているのだから、戦い抜けば良かった。死ぬために戦ったはずだ。だのに、逃げた。苦しんで苦しんで苦しみ抜けばいい。
地獄での二年余りの修行は、絶対に必要なものだった。それは疑いようのない事実であり、あのときの修行がなければ、セツナはいまごろどこかで野垂れ死んでいるだろう。神々との戦いに敗れ、滅ぼされ尽くしているに違いない。
だが、だからといってあの時取った行動が認められるかというと、そうではあるまい。
それはそれ、これはこれ、だ。
王都に迫る敵の姿を目の当たりにしながら、なにもできないまま逃げおおせたという事実に変わりはないのだ。
そのことを謝罪すると、グレイシアもナージュも、セツナを責めはしなかった。三大勢力が王都に迫っていた。あまりにも圧倒的な物量は、セツナひとりでどうにかなるものではなかったし、そもそも、レオンガンドがセツナに王都を守れ、などと命じたとは思えない、と、ナージュはいった。
「陛下は、セツナ殿に最後まで戦え、などといいましたか?」
「……いえ」
セツナは、静かに頭を振った。レオンガンドと最後に交わした言葉を思い出す。
「俺が王都に残ったのは、俺自身の意志です。陛下はなにも悪くありません。俺のわがままを聞いて頂いた、それだけですから」
レオンガンドは、三大勢力の圧倒的物量を知り、セツナたちでは太刀打ちできないという合理的な判断を下している。そのうえで、セツナたちに王都から避難するべきであるとまでいってきたのだ。しかし、セツナはそれを良しとしなかった。
ガンディアが滅ぼされてなるものか、という想いと、どうせ滅ぼされるのであれば、一緒に滅びたいという相反する想いが、セツナを王都を離れさせなかった。
残るのは、自分だけでよかった。ファリアやミリュウまでも巻き込みたくはない。自分勝手なわがままに愛する人たちまで巻き込むなどもってのほかだ。だから、ファリアたちは王都から離れさせた。セツナ自身は、三大勢力の撃退が不可能ならば、あの戦いで命を燃やし尽くす覚悟があったのだ。
それなのに逃げた。
その一点が悔いとして残っている。
「だったら、セツナ殿の判断はなにひとつ間違っていませんよ。陛下もきっと、セツナ殿が生き延びてくれたことを心から喜んでおいでのことでしょう」
「そうですよ、セツナ殿。陛下は、あなたに夢を見、あなたをただひとりの英雄として見ていました。あなたが死ぬことなど、陛下が望むわけもありません。なにも恥じることはないのです」
「しかし……」
「いいえ、セツナ殿。あなたは正しい判断をしたということを胸に刻むべきですよ」
「この変わり果てた世界であなたほど頼もしい存在はありません。あなたは、わたくしたちにとっても英雄なのですから。その英雄が再び目の前に現れてくれたのですから、なにもいうことはないのです」
「殿下……」
セツナは、グレイシアとナージュそれぞれの穏やかで慈しみに満ちた言葉を聞き、ただただ感動していた。グレイシアもナージュも、その心中たるや想像に余りあるものがあるはずだ。なによりふたりは、これまで知る由もなかったことを知ってしまったのだ。
ふたりは、最終戦争がどのように幕を閉じたのかは知らなかったし、“大破壊”がなぜに起きたのかも把握していなかった。セツナたちの説明でようやく事情を飲み込め、事態を理解できたのだ。おそらくは王都を爆心地とする“大破壊”は、王都ガンディオンをこの地上から抹消したであろうことは想像に難くない。それはつまり、レオンガンドが無事ではないだろうという現実を想像させ、グレイシアとナージュにとって、この上ない衝撃をもたらしたことだろう。
故にセツナは、最終戦争や“大破壊”について極力触れたくなかったのだが、しかし、事情を話す上でどうしても触れるほかなかった。そのことだけぼんやりとぼやかすこともできない。それをグレイシアたちが望まないからだ。彼女たちは、真相を知りたがった。最終戦争がどのような結末を迎え、ガンディオンがどうなったのか、本当のことを知りたがったのだ。
それがグレイシアとナージュたちにとって望まぬ結末であろうとも。
しばらくの沈黙が、応接室を包み込んだ。
グレイシアが口を開いたのは、そんな沈黙に気まずいものを感じたから、ではあるまい。
「それで、セツナ殿。先程はなにをいおうとしていたのかしら?」
「なにを、というほどのことではないのですが……」
セツナは、少しばかりどう答えるべきか迷った。話すべきかどうかに迷ったのではない。言葉選びに詰まったのだ。どう伝えれば、正確に伝わるだろうか、と。
「領伯の座を、返上しようかと想いまして」
「はい?」
「俺は、この二年以上もの間、龍府を放置し、殿下やダンエッジさんに任せっぱなしだったんです。いまや龍府の実質的な領主は殿下だろうと想いますし、それならいっそ、領地ごと王家に奉還するべきだと判断しました」
「なにをいっているのですか?」
「そうですよ、セツナ殿。この二年あまり、セツナ殿は修行をしていたのでしょう? だったら、龍府に姿を見せることができなくて当然ではありませんか」
「なにもそれだけが理由ではないのです」
セツナは、グレイシア、ナージュ両名を交互に見つめながら、告げた。
「俺は、ここに留まり続けることができないのです」
ファリアたちの視線を感じる。彼女たちにも、領伯返上に関しては話していないことだった。それぞれにいいたいことがあるに違いないが、話に割り込むわけにもいかず、なんともいいようのない雰囲気が彼女たちから感じられる。
「この変わり果てた世界では現在、なにごとかが起きています。そのなにごとかの原因を突き止め、解決することが俺の使命である、と勝手に想っている所存です。そのためには一処に留まることは厳しく、また、領地のことなど考えている余裕もありませんから、意を決して、領伯としての立場およびすべての領地を王家に奉還させていただきたいのです」
「セツナ殿……」
「本気……なのですか」
「はい」
静かに、うなずく。
ずっと想っていたことではある。
この世界に舞い戻ってから、ずっと。
ただ、それを伝えるべき相手の居場所がわからなかった。レオンガンドが生きているならば、直接伝えることもできただろうが、生存は絶望的だ。ガンディアという国の形さえ、もはや失われたものだとばかり想っていた。龍府にガンディアの仮政府が置かれているなど、想像しようもない。このまま、領伯の身分を返上することもできないまま、戦い続けなければならないのではないか。そんなことすら考えていた。
そういう意味では、龍府に降ろされたことは、はからずも喜ぶべき出来事なのだろう。マユラに感謝などしたくはないが、するべきだろう。
もちろん、複雑な心中ではある。
「俺は、レオンガンド陛下に見出されました。陛下に見出され、陛下の、ガンディアの矛として戦い続けてこられたからこそ、領伯という立場を与えられ、いくつもの領地を持つまでになった。皆と出会えたのも、陛下とガンディアのおかげだということは重々承知しておりますし、いまでも、そのことへの感謝は忘れてはいません。いまも、俺はガンディアの一員であると自負しております」
ガンディアが完全に滅び去ったわけではなく、いまもこうして生き続けていることを知ったときの喜びは、言葉には言い表せないものだ。筆舌に尽くしがたいとはまさにこのことだろう。仮政府がこのままガンディア再興に向けて活動するというのであれば、全霊をもって協力するに違いない。
ガンディアは、セツナの青春そのものだった。
ガンディアにセツナのすべてがある。
そのガンディアが失われたからこそ、セツナは、この世界に絶望的なものを感じていたのだから。
「ですが、それとは別に、このまま、領伯としての責務を果たそうともせず、馴れ合いで済ませるようなことはしたくないんです。けじめだけは、きっちりつけておきたい。でなければ、前に進めませんから」
「龍府のことは、これまで通り司政官ダンエッジ殿に任せておけば、よろしいではありませんか」
「そうですわ。太后殿下の仰る通り、領地のことは司政官に一任し、セツナ殿は事に当たる――それではいけないのですか?」
グレイシアとナージュが引き止めてくれるのは、ただただ嬉しい。しかし、セツナは首を縦に振れなかった。
「……お言葉ですが殿下。そこの線引きをあやふやにしてしまうと、駄目だと想うんです」
領伯という身分、立場が、セツナのこれからの行動を制限することもあるかもしれない。いや、そんなことを気にして戦ったことはないし、気にするような人間ではないと自分でも想っているのだが、絶対にないとは言い切れないのだ。領伯としての責務の第一は、死なないことだ。後継者も作らず死ぬなど、領伯のような重要な立場の人間にあるべきではないし、考えられないことだろう。
もちろん、セツナとてこれからの戦いで死ぬつもりはない。だが、最初から生き残るつもりでいるのと、目的を果たすために命を燃やそうとするのでは、わけがちがうだろう。前者は消極的にならざるを得ず、出せるはずの力も出せなくなるかもしれない。
枷になりかねないのだ。
領伯としての責務に忠実であろうとすれば、そうならざるを得ない。
それでは、今後激しさを増すであろう戦いにおいて、皆の足を引っ張るだけの存在になる可能性がある。全力を発揮できないものなど、これからの戦いには不要だ。
故にセツナは、今日ここでガンディア王家に領伯の座および領地を奉還することにしたのだ。
「……決意は固いようですね」
「はい」
セツナがうなずくと、グレイシアはしばし熟考した後、口を開いた。
「――わかりました」
涼やかなまなざしには、グレイシアの知性が瞬いていた。普段の言動からは少々考えにくいほどに理知的かつ聡明な態度だった。
「仮政府の代表であるわたくしグレイシア・レイア=ガンディアが、その願い、聞き入れましょう。セツナ殿、あなたは今日より領伯ではなく、宮廷召喚師セツナ・ゼノン=カミヤとして、精一杯働いてくださいね」
「はい……は?」
「セツナ殿のわがままは聞いてあげたのです。宮廷召喚師の返上は、却下しますよ」
にこりと、グレイシアは微笑んだ。その無垢な少女のような微笑みの中にとてつもない魔力を感じ、セツナはただただ唖然とするほかなかった。
一本取られたのだ。