第二百十三話 蠢動
「なにやらザルワーンが騒がしいそうだねえ」
その一言にワージン=マーディンに緊張が走ったのは、ついに時が来たのかと思ったからだ。周囲では少年たちが騒がしく動き回っているが、彼の意識を乱すようなものではない。いつものことだ。見慣れた風景であり、少年たちが静まり返っている方が余程不気味だった。
「はい。ガンディアが全軍を上げてザルワーン領土に侵攻。ナグラシアを制圧し、立て続けにバハンダールも陥落させたようです」
「へえ、難攻不落のバハンダールをねえ。難・攻・不・落のバハンダールもかあ」
相手が、わざわざ強調したことに意味はあった。
バハンダールはかつて、この国の所有物だった。対ザルワーン戦略上もっとも重要な都市であり、土地であった。湿原に囲まれた丘の上の城塞都市は、敵からは攻め難く味方からは守り易いという、願ったり叶ったりの土地だったのだ。
メレド。大陸小国家群に含まれる国のひとつだ。地理的には、東隣にログナー、北東にザルワーン、北にイシカがあり、南側がアザークに接している。さらに、ヴェドール、イジュアール、エグムンドという国々とも隣接しており、さすがは小国家群といったところだろう。もっとも、そのすべての国と敵対しているわけではない。特に南側の国々、アザークやエグムンドとは友好関係を築いており、北進の際には後背を任せておいても大丈夫なくらいの関係にはなっていた。
メレドは昔から、北進の意図を持っていた。それこそ、先代の王の時代からだ。南ではなく北を目指したいという理由のひとつは、大陸の北部一帯を掌握するヴァシュタリアという存在がある。ヴァシュタラの教義を国教と定めた国にとっては、ヴァシュタリアとの同化こそが最終目標となるのは当然の帰結だった。それ以外の理由は不要だといってもいい。
メレドの北進は、信仰心からくるものなのだ。
しかし、ここ数年、メレドは外征を諦め、国内に閉じこもっていた。その最大の原因は、北進の希望の星ともいえたバハンダールが、ザルワーンによって奪取されてしまったからだ。
六年前のことだ。ザルワーンの攻撃を幾度となく跳ね除けてきたバハンダールが、長期攻囲という手段に出てきたのだ。バハンダールの湿原自体を包囲する長大な布陣。メレドは、バハンダールを休戦するために何度となく兵を送ったが、そのたびに跳ね除けられ、包囲陣を突き崩すことさえできなかった。ザルワーンは本気だったのだ。バハンダールの包囲網を構築するためだけに全兵力を繰り出しており、他の地域には目もくれていなかったらしい。それほどまでにバハンダールの存在が目障りだったということだろうが、ともかく、半年に及ぶ攻囲の末、バハンダールは落ちた。食料も尽き、精も根も尽き果てたのだろう。
本国からの支援も届かず半年もよく保ったものだと、ワージンはバハンダールの守将を褒めたかった。が、王の手前、それはできなかった。
もっとも、サリウス・レイ=メレドこそ、降伏を決意した守将の奮闘を称え、彼に感状を送っているのだが。
そのサリウス・レイ=メレドが殻に閉じこもるようにして外征に興味を示さなくなったのは、バハンダールが陥落してからのことだ。内政に力を入れると公言し、それ以来、国外に兵を出すことはしなくなった。国境を脅かす敵を打ち払うためにしか兵を動かすということがなくなったものの、だからといって国庫が潤うわけでもない。サリウスは人材の育成と、戦力の拡充に金を注ぎ込み始めたのだ。
「どういう風に落としたのか、知っているかい? ガンディアはザルワーンのような人海戦術は使えないだろう? 時間もかかっていない」
「詳細は不明ですが、例の黒き矛が活躍したようで」
「また黒き矛かあ。ガンディアにはそれしかないのかね」
サリウスはあきれたようにいったが、彼のまなざしは明らかに黒き矛の少年を気にしているものだった。
サリウス・レイ=メレドは、まだ三十代を迎えたばかりの若い王だ。容姿端麗で、幼いころは少女と見紛うばかりだったといい、いまでもその美貌に衰えは見えない。時折、その気のないワージンですら見惚れてしまうほどの容貌は、臣民の男女問わず魅了していた。彼の国民的人気は凄まじいものがあり、熱狂的に支持されている。無論、見た目だけで支持されるはずもなく、サリウスが王位を継いで以来、メレドの国情は安定しており、国民から不満の声が上がったことはなかった。唯一の失態はバハンダールの件であり、だからこそサリウスはバハンダールを簡単に落としてしまったガンディアが気に食わないのかもしれない。あるいは、バハンダールをたやすく落とされたザルワーンにいいたいことのひとつやふたつあっても不思議ではない。
王都クレイアの城郭内にある風の離宮と呼ばれている建物にワージンたちはいた。王都クレイアクレイアは山城を中心とする大都市であり、市街地は麓に広がっている。山の各所に城塞を為すための設備が作られているのだが、風の離宮はそういった施設とは趣を異にするものだった。サリウスの祖父、つまり先々代の王が命じて作られた離宮の数々は、寵姫のための建物であり、風の離宮もそのひとつだった。
サリウスは、自分の母が住んでいたこの離宮をいたく気に入っており、ワージンと政略を語り合う時も戦略を練るときも、この建物を利用することが多かった。ワージン以外の人物を交えての会議でここを使わないのは、風の離宮が狭いというのもあるのだろうが、サリウスなりの判断基準もあるのだろう。
ワージンは風の離宮への立ち入りが許可されている、ということだ。
「セツナ=カミヤだっけ? クオン=カミヤと関係あるのかな?」
「兄弟や血縁という話を聞いたことはありませんが」
「ふうん。クオンは可愛い顔をしていたけれど、セツナはどうだろうね?」
クオン=カミヤ率いる《白き盾》がメレドを訪れたのはかなり前の話だ。《白き盾》の現在の主要幹部が揃う前のことのように記憶しているのだが、ワージンは《白き盾》との交渉が上手くいかなかったことを根に持っており、よく覚えていなかった。《白き盾》を忘れることで、失態も忘れ去りたかったのだ。もっとも、《白き盾》の人員を忘れることには成功したが、自身の犯した過ちを忘れ去ることはできなかったが。
「人相まではわかりかねます」
「それもそうか……。一度逢ってみたいねえ」
サリウスがなにかを期待するような目で遠くを見据えると、周囲の少年たちが動きを止めた。皆、一様にサリウスを見ている。見目麗しい少年たちは、自分たちがサリウスの寵愛を受けているがゆえにここにいられるのだということを熟知しているのだろう。サリウスの興味が他に移ることを極端に恐れている。とはいえ、そういう態度を少しでも見せればサリウスの興を削ぐことも知っている彼らは、サリウスが遠くを見ている間に元の状態に戻っていった。
「で、本題だけれども」
「はい」
「どうしようか?」
ワージンは、サリウスの目を見た。王の目にこちらの反応を楽しんでいる気配がある。彼が主語もなく問いかけてくる場合は、サリウスの内心では既に決定済みであることが多いのだ。試されているのは間違いないが、ワージンは今日、風の離宮に呼び出された理由についてはわかりきっていた。
「全力を上げてザルワーンに侵攻したガンディアの国土を切り取るのは容易でしょう。ですが、今後、ガンディアがどのように動くのかが気がかりです。バハンダールとナグラシアの制圧だけで満足する可能性も大いにある。ガンディア領土に攻め込んだと思っていたら、バハンダールを起点に攻め寄せられていた、となることも考えられます」
「よくわかっているね。わたしもよくよく考えたんだよ。ガンディアの国土を切り取ってでも、メレドの国力を充実させるべきかどうかをね。でも、それは大きな間違いだと気づいた。我々はいつだって北を目指してきた。ザルワーンの国土を狙っていたのも、北を目指すためだった。バハンダールが奪われてからずっと、機会を伺い続けてきたんだ」
サリウスは椅子から立ち上がると、隣の少年を抱き寄せ、愛おしそうに髪を撫でた。少年も満更ではない表情を浮かべているが、それが本心かどうかはわからない。王城で最高の生活を送っていられるから演技をしているという可能性もあるし、心の底からサリウスを受け入れていることも考えられる。もっとも、サリウスは嫌がる少年を無理やり自分のものにしようとはしない主義だった。権力を使って捻じ伏せるのは美しくない、というのが彼の考えである。
遠くから眺めて愛でるのも一興。
そういうサリウスの考え方は、ワージンは嫌いではない。
「いまは北進の好機だと思わないかい? ザルワーンはガンディアへの対応で忙しく、ガンディアの軍もザルワーンに出払っている。イシカに攻め込むなら、いましかない。無論、イシカもザルワーンを気にする必要がない以上、熾烈な戦いになるだろう。だが、この機会を逃すわけにはいかない。ガンディアがザルワーンに勝利しようが、ザルワーンがガンディアを退けようが、戦いが終わってしまえばつぎの機会が訪れるまで待ち続けなければならない。それは気の遠くなるくらい長い年月かもしれない」
「では……」
ワージンがサリウスの目を見ると、彼は静かにうなずいた。
「イシカに侵攻する。西方の護りを固め、それ以外の兵力をすべて使うぞ」
力強い声は、彼がメレドの国王であることを思い出させた。