第二千百三十話 希望と絶望(六)
方舟は、六対十二枚の翼をさらに大きく広げ、羽撃かせるとともに加速した。マユラ神の力の介入があったのは明らかであり、それによって生じた圧力は、それまでその場に踏み止まっていたセツナをはじめて後退させるに至る。わずかな後退。しかし、地上、龍府までの距離を考えれば、これ以上の後退は許されることではなかった。セツナは、歯噛みするとともにさらなる力を引き出すよう、メイルオブドーターに命じた。悪魔の飛膜を広げ、方舟に対抗する。マユラはただ、こちらを見ているだけだ。見届けようというのだろうが、ただ見届けるつもりもないことは、ついさっき、介入してきたことからもわかりきっている。だが、セツナは構わなかった。構ってなどいられない、というのが本音だ。マユラを許せないという気持ちはあるが、だからといって、いまここでその想いをぶつけるべきはマユラにではない。方舟の龍府への衝突を防ぐことこそ、セツナがいまなすべきことなのだ。
(もっと……! もっとだ!)
メイルオブドーターの出力を限界まで引き出してなお、方舟に押されていることに気づく。ゆっくりと、しかし確実に、方舟は地上に近づいているのだ。メイルオブドーターの飛行能力を最大限に駆使しても、押し負けそうだった。
(これが全力か! おまえのっ!)
内心絶叫すると、メイルオブドーターが激しく反応した。カオスブリンガー、マスクオブディスペア、メイルオブドーター、そしてエッジオブサースト。四つもの召喚武装を同時併用しているにも関わらず、神の加護を受けた方舟の落下を食い止められないというのは、どういうわけなのか。激情がセツナの心を貫く。体が燃えるように熱い。いや、現に燃えているのか。焦げたにおいが鼻腔を満たした。だが、余所見をしている暇はない。セツナは船首を、そして視界を埋め尽くすほどに巨大な方舟を睨み据えるしかないのだ。方舟は、十二枚の翼を輝かせながら、ひたすらに加速し続けている。最高速度に至っているのは間違いない。そのせいもあって、セツナは次第に地上に向かって押されているのがわかった。
数メートル、いや、十数メートル、数十メートル――じりじり、じりじりと、高度が下がっていく。龍府の直上ではない。ではないが、龍府のひとびとが遥か上空で起きている異常事態に気づき始めていることが様々な声によって、把握できる。
「なんだあれ!?」
「なにか落ちてくる……?」
「天使みたい……」
「綺麗……」
「本当だ……」
龍府住民が方舟に見とれるのもわかるほど、光り輝く翼を広げたそれは美しく、神秘的だった。無論、」それがなんであるのか理解していなければ、の話であり、龍府に向かって進んでいることが目に見えてわかれば、大騒ぎになり、混乱が起きるのも当然だった。しかし、どういうわけか、龍府は思いの外静まり返っている。まるで方舟が降ってきてもなんの問題もないとでもいいたげな反応の数々に疑問をもったものの、そんなことに意識を奪われているわけにもいかなかった。
(もっと、力を……!)
出し惜しみなどしている場合ではない。
そう悟ったとき、セツナは、口早に呪文を唱えていた。ランスオブデザイア、アックスオブアンビション、ロッドオブエンヴィー――黒き矛の残る眷属すべてを立て続けに召喚し、瞬時にそれらを闇の手で掴み取る。瞬間、セツナは、凄まじい熱量に襲われる感覚に遭った。爆発的な熱量が、マスクオブデザイアの能力によって作り出した複数の腕を通じて、セツナの体内を駆け抜け、意識へと流れ込む。膨大な量の力。本質的な力。視覚、聴覚、嗅覚、触覚――ありとあらゆる感覚がいままで以上に研ぎ澄まされ、肥大し、膨張する。まるで世界そのものを支配してしまったかのような感覚に似て、セツナは、自分ではないなにものかになってしまったのではないかと思えてならなかった。
人間セツナ=カミヤではない、化け物へ。
その感覚こそ、真に恐るべきものだということをセツナは知っている。知っているからこそ、心の仲が凍てついたように寒々しく、震えるのだ。その感覚に身を委ね、心を明け渡したとき、セツナはセツナでいられなくなるだろう。黒き矛とその六眷属の力の器と成り果て、彼らの想うままに力を振るうだけの、ただの暴力装置と変貌するのだ。
それが完全武装状態の恐ろしさであり、セツナが安易に使わない理由だった。
そしてそれと同時に、完全武装状態を一日でも早く、自分のものにしなければならないという想いが彼の中で強烈なまでに強いのも、そのためだ。使いこなさなければならない力なのだ。この力でなければ、真に強い神とは戦えまい。
アシュトラはまだ良かった。
だが、リョハンで戦った女神は、少なくともアシュトラなどとは比べ物にならないほどの力を持っており、黒き矛とメイルオブドーターだけでは太刀打ちできなかっただろう。完全武装状態だったからこそ圧倒できたのだ。だからこそ、セツナはこの力を制御できなければならない。
いまはまだ、使いこなせてもいないのだ。
《魔王の杖と六柱の眷属が揃い踏みか。やはり汝は……》
マユラの聲も、もはや気にならなくなっていた。
いまセツナがするべきなのは、身も心も焼き尽くさんばかりに荒れ狂う力を制御し、目的の方向に打ち出すよう集中することであり、そのためには外野の声になど耳を傾けてなどいられないのだ。無論、聞こえるのはマユラの聲だけではない。龍府住民の声も尽く届いていたし、道を歩くひとの靴音さえもがセツナの耳朶に入り込んでいる。龍府だけではない。この島中、いや、島の外の音さえもセツナの耳は拾っていて、まともな精神状態ならば瞬く間に壊れるほどの音量となって脳内を駆け巡っている。もっともうるさいのは、自分の心音だ。体内を巡る血流さえも轟音のように鳴り響く。そんな状態にあっても精神を乱さず、意識を統一しなければならない。でなければ、黒き矛と六眷属の力を使うなど不可能だ。
心を静め、音をかき消す。
地獄の修行は、こういうときのためにあったのだ。
そして、修行の成果を発揮するときこそ、いまなのだ。
燃えたぎる肉体から溢れ出る力を解き放ち、方舟を押し返さんとする。質量、重量、熱量――すべてにおいて自分を上回る相手を押し返すにはどうすればいいか。単純かつ明快な答えがある。それもただひとつ、あまりにも簡単でだれにでも導き出せる回答。
(それ以上の力を出せばいい!)
セツナは、吼えた。
「うおおおおおおおおおおおおおおお!」
咆哮とともに、黒き矛と眷属のすべてを発動する。敵を攻撃するのではなく、対象を破壊するのでもない。方舟を押し返し、進路を変えるべく力を加えるただそのためだけに魔王の杖とその眷属のすべての力を注ぎ込むのだ。莫大な力がセツナの肉体を駆け巡り、膨大な熱量が肉も骨も内臓もずたずたに引き裂きながら溢れ出し、ついには肉眼に捉えられる形となって現れる。
それは闇の翼であり、闇の腕であり、爪であり、牙だった。
光の膜に包まれた方舟をさらに強大かつ圧倒的な闇の力で包み込み、進路を捻じ曲げる。方舟は、なおも前進を続けるが、もはや完全武装状態となったセツナの敵ではなかった。十二枚の光の翼が闇の牙と爪に切り裂かれ、無数の羽となって散っていく。すべての光の翼が同じように消滅すると、同時に方舟の推力が限りなく失われていった。方舟が空を翔ぶためには、光の翼を発生させる必要があるのだろう。そして、その光の翼が失われた以上、前進することはおろか、飛び続けることもできなくなる。そうなれば当然、自由落下が始まるのだが、セツナはそれさえもさせなかった。
方舟の巨体を闇の翼で包み込んだまま、ゆっくりと地上へと降下する。もちろん、龍府の中にではない。その南側。結晶化した森と龍府のちょうど中間地点辺りに着地し、方舟を目の間に降ろし、着陸させる。船体を一切傷つけず、また、船内に微々たる衝撃も与えないように慎重に。
その間、マユラはなにもいってこなければ、手出しもしてこなかった。
そして、セツナが闇の翼から方舟を解放すると、天蓋の上にマユラの姿が出現した。どうやら、闇の翼が方舟を包み込んだ辺りで天蓋の中にでも移動していたらしい。どういう意図があるのかまったくわからないし、想像しようもない。
マユラは、どこか満ち足りた表情をしていた。
それが、セツナには気に食わない。だから、というわけでもないが、セツナは、完全武装状態のまま、マユラを睨みつけた。
「あんたの目論見は、失敗に終わったってわけだ」
《それは見当違いというものだ》
マユラは、余裕の態度を崩さない。