第二千百二十九話 希望と絶望(五)
《なるほど》
聲が聞こえたのは、時間静止中のことだった。セツナがメイルオブドーターの飛行速度を限界以上に引き出し、方舟の落下方向へと至ろうという頃合い、突如として静寂に満ちた脳内を掻き回し、小さな混乱を生んだ。聞こえるはずのない神の聲が響いたのだから、当然だ。方舟の天蓋の上、マユラはこちらを見ていた。視線が動いている、ということだ。
《時間を止めたか。しかし、それでは根本的な解決にはならぬぞ》
「なんで動けるんだよ」
セツナは、叫びながら、方舟の進路上へと到達した。マユラは笑う。
《神に時間の概念があるとでも想うたか》
「……ねえのか」
《そのようなものがあれば、悠久の時を存在し続けることなどできようはずもない。道理だろう?》
「その理屈はよくわかんねえが……」
(なんにせよ、神には時間静止が効かないってことだ)
その事実が判明したことは、大きい。
今後、神々と交戦する可能性は極めて高い。神軍に所属する神々の数は少なくないだろうし、野に下った神々も敵対しないとは限らない。すべての神がマウアウのように話し合いで解決できるわけではないのだ。そういった神々との戦いにおいて、エッジオブサーストの時間静止が選択肢から消えたのだ。消耗が激しく、使い所の限られた能力とはいえ、選択肢から完全に消えたということは、一瞬の判断が勝敗を決定づけるような戦いには大きな影響を及ぼすだろう。もっとも、今回のように神の攻撃から自分以外のなにかを護るためならば、時間静止も無意味ではない。
時間静止中の存在への攻撃は、神といえど、不可能であるらしい。
もし神の御業が時間静止中も有効ならば、落下中の方舟が静止することなどあるまい。
方舟は、神の力を纏い、落下しているのだ。
無数の翼を広げ、落下する方舟は、さながら巨大な天使が舞い降りる光景に見えなくもない。ただし、その天使が地上に舞い降りたときもたらされるのは絶望的な大惨事であって、希望に満ちた祝福などではないのだが。
故にこそ、セツナが止めなくてはならない。しかも船体を傷つけることなく確保してみせなくてはならないのだ。でなければ、セツナたちの旅が続けられなくなる。少なくとも、帝国本土へ渡るための手段を失うのは間違いない。
《それで、どうする?》
「どうするもこうするもねえ」
セツナは、吐き捨て、頭を振った。脳内から神の聲を消し去るようにして、だ。
彼は既に方舟の前方に到達している。眼下、後方には龍府の見慣れた町並みがあの頃とほとんど変わらぬ様子を見せていた。泣きたくなるくらいの懐かしさにも、眼前に迫った絶望を見れば、浸れるわけもない。
エッジオブサーストをメイルオブドーターに突き刺し、同化させる。エッジオブサーストには特異な能力がある。ニーウェは、その能力を駆使して自身を異界化させたが、その能力の応用によってエッジオブサーストをほかの眷属に融合させることができた。エッジオブサーストとメイルオブドーターの同化は、メイルオブドーターの飛行に関する能力を大幅に強化し、背に生えた蝶の翅を悪魔の飛膜へと変えた。その上で、方舟と睨み合い、時間静止を解除する。
世界中の時間が復活すると同時に轟音が鼓膜を震わせた。方舟が発する音。絶望をもたらす旋律は、セツナを奮い立たせた。爆音とともに落下し、迫り来る方舟に向かって両手を掲げたセツナは、そのまま船首を受け止めてみせた。接触の瞬間、凄まじい衝撃がセツナの全身を貫いたが、その程度の痛みにはなれている。負けようはずもなかった。
とはいえ、方舟の質量は、セツナの体躯とは比較しようもないほどのものであり、その上、神の力を受け、とてつもない熱量を発しながら龍府に向かって進んでおり、生半可な力ではその場に踏みとどまることすら困難だ。方舟は決して自由落下しているわけではないのだ。全速力で龍府に向かって飛行しているといったほうが、圧倒的に正しい。
そんな全力飛行中の方舟の船首を捉えたセツナは、メイルオブドーターの力を振り絞り、その場に踏み止まり続けた。地上まで、龍府までわずか数百メートルしかない。ここで押し負ければ、方舟はあっという間に龍府に到達し、爆発によって地上より古都とそこに住むひとびとを消し去るだろう。
ゆえにこそ、セツナはここで押し負けるわけにも引き下がるわけにもいかないのだ。エッジオブサーストとメイルオブドーターを同化させたのは、このためといっても過言ではない。メイルオブドーターの出力を強化することで、神の力によって加速する方舟に拮抗しようというのだ。
《ほう、受け止めたか。しかし、なにゆえ、そのような真似をする。汝は魔王の杖の使い手であろう。ならば、船を壊すのも容易かろうに》
「なるほどな。方舟を壊させるのがあんたの目論見だったか」
セツナは、天蓋の上よりこちらを見下ろす神の目を睨みつけた。方舟を破壊すれば、確かに龍府への落下は防げるし、船内に残っているファリアたちも、ミリュウの擬似魔法が護ってくれるだろう。解決策として、方舟の破壊以上に容易く、確実なものはない。黒き矛の全力をもってすれば、方舟を破壊するのは決して困難なことではないのだ。しかし、それでは、駄目だ。
《解決策のひとつを提示したまでのこと。かつて、いうたな。我の目的は、済度である、と》
「はっ……」
吐き捨てるように、笑う。
「こんなものが済度であってたまるものかよ」
《この絶望に満ちた世を生きていくのは、苦行そのもの。どれだけ生き抜いても、明るい未来などありはせぬ。汝もわかっているはずだ》
「冗談!」
《この世に満ちた神の気は、生きとし生けるものにとって猛毒にほかならぬ。いや、世界そのものが天地に満ちた神の毒気に蝕まれ、変容を続けている。いずれ、世界は変わり果てるのだ。それがわからぬ汝ではあるまい》
「だから生きとし生けるものを滅ぼすって? 暴論じゃねえか!」
《汝は絶望を知らぬ。絶望には、救いがない。終わりなき無明長夜を生きていくには、ひとという生き物はあまりにも脆すぎる。故にありもしない希望に縋り、故に偽りに満ちた幻想に溺れる。故にマユリは力を得、虚偽と欺瞞が氾濫する。そうして、だれもかもが真実を知らぬまま、絶望の終わりを迎えるのだ》
マユラの背後に光臨が出現したかと思うと、背後に眠るマユリの顔が光の中に溶けて消えたように見えた。そして膨大な量の光がマユラの姿を逆光線の中に隠してしまう。金色に輝く双眸だけが、マユラの感情を伝えてくるようだった。怒りや憎しみといったものではない。もっと根源的な、慈しみや哀れみといった感情に思えた。それが、セツナにはどうしようもなく腹立たしくて仕方がなかった。
《それはあまりに哀れというもの。よって、我が済度を行おうというのだ》
マユラは、その言葉通り、本心からの善意で、方舟を落とそうというのだろう。
かつて、クルセルクでセツナを殺そうとしたときと同じだ。マユラは、善意で対象を滅ぼすのだ。方舟落としも、それによって龍府が滅ぶのも、マユラにとっては救い以外のなにものでもないのだ。だからそこに悪意はなく、殺意はなく、憎悪も憤怒もない。あるのは、ただただひとびとの未来と閉ざす絶望と、その絶望から救う手段としての滅びを用いなければならないという想いのみ。むしろ、哀しんでさえいるのだ。
マユラの瞳は、濡れているように見えた。
その事実がセツナの心をを燃え立たせる。この世を覆う理不尽とは、まさにこのことではないのか。神の存在そのものが、人間にとっての、いや、この世界にとっての理不尽なのではないのか。アズマリアがいっていたのは、こういうことなのではないか。
絶対的な力を持っているが故にすべてを見下し、その上で慈しみを以て救いという名の滅びをもたらそうという存在を理不尽といわずして、なんというのか。
「だからいってんだろ! あんたの手による滅びは、済度なんかじゃあねえっての!」
セツナの叫びをマユラは嘲笑うでもなく受け止め、そして告げてくるのだ。
《だから、いっている。我に見せてみよ。絶望を超える力をな》
「ああ……見せてやるさ。あんたの希望通りにな!」
セツナは、大見得を切って宣言すると、あらん限りの力を振り絞った。