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第二百十二話 月下変転

 闇の底から浮上する感覚があった。

 重力の軛から解き放たて、天にも上るような気持ちで浮上する。

 けれど、暗黒の闇を抜けても、視界に広がるのは虚無の闇でしかないのだ。といって、悲嘆に暮れる必要はない。目覚めは、すぐそこだ。

 カイン=ヴィーヴルは、いつものように覚醒すると、瞼を閉じたり開いたりした。薄い闇が視界に横たわっている。視界の外から差し込む光は、魔晶灯のそれではなく、自然光の輝きのように思える。差異というほどのものではないのだが、魔晶灯の光は無機的で、冷たいものだ。いま、眼前の闇を払うでもなく視界に入り込んでいる光は、それよりも余程温かい。

 生きているらしい。

 全身から断続的に感じる痛みに、彼は生の実感を得たのだ。激痛というほどのものではないにせよ、痛みは痛みだ。彼が苦痛にうめくと、かすかな笑い声が聞こえた。静寂の中、小さな物音すら大きく響く。いや、神経が昂ぶっているからかもしれない。鼓動が、耳朶に響いている。

 上体を起こすのは苦痛以外のなにものでもなかったが、彼は痛みを黙殺した。薄闇の中、彼が寝かされていた寝台の先に、だれかがいる。壁に背を預けて、こちらを見ている。闇に溶けるような黒装束の女。ウル。

 室内に入り込んできるのは、月明かりだった。右側の窓から、月光が差し込んできている。その力強い光は、夜の闇を押し退け、室内の様子を彼に教えてくれる。狭い部屋だった。寝台とわずかな調度品が置かれている。まるで病室のような空間だったが、実際、その通りなのかもしれない。彼は負傷兵で、戦後、接収した病院に搬送されたのだとしても不思議ではない。

 仮面は、枕の隣に置かれていた。

「あなたでも痛みを感じるのね」

 彼女の皮肉に、カインは憮然とした。痛みに顔をしかめる。余程、傷を負ってしまったようだ。常ならざる戦い方をしたせいだろう。敵陣に突出した挙句、竜人りゅうじんで戦うなど、カインの戦い方ではない。が、そうしなければならない事情があった。地竜父ちりゅうふ火竜娘かりゅうじょうでは、街にまで被害が及びかねない。それも、甚大な被害が、だ。デイオンの意向に従うという以上、竜人を召喚するしかなかったのだ。

 結果、大量の矢を浴びた。

 一度目は、ウルが支配した兵士が庇ってくれたおかげでなんとかなったが、二度目はまともに食らった。死なずに済んだのは偶然もいいところだ。

「生きている以上、痛みは感じるものだ」

「そのくせ、拷問には動じなかったわよね」

「そういう風になっている」

 魔龍窟では、拷問にも耐えられるように訓練を受けたものだ。耐え難い苦痛の果て、拷問にこそ耐性はできたものの、痛みそのものに耐性がついたというわけではない。精神制御の一種なのだといい、拷問であっても、痛み自体は感じる。自我を制し、どのような状況に置かれても、情報を吐き出さないという技能なのだ。もっとも、そのような技術も、ウルの支配の前では意味をなさなかったが。

「そういうものなの?」

「そういうものだ」

 告げて、カインは枕元の仮面を手に取った。いつ見ても面白い仮面だ。空想上の化け物を形にしたものの中では傑作に入るだろう。それをだれかが見つけてきて、レオンガンドに献上したらしい。そして、カインが素性を隠すために身につけるようになった。ログナー侵攻においては仮面をつけていなかったのだが、問題にはなっていない。彼の素性を知る人間がガンディアにはいないからだ。この軍にいる間も、外していてもなんら問題はないのだろう。だれも、彼の素顔とランカイン=ビューネルを結びつけることはできない。

 しかし、このザルワーンにおいてはそうではない。彼はこの国で生まれ育ち、彼のことを知る人間はそれなりにいる。軍関係者ならばなおさらだ。ランカイン=ビューネルがガンディア軍に所属しているという情報が露見するのは良くないことだ。レオンガンドの信用に関わる。

「寝苦しそうだから外してあげたのに、つけるの?」

 ウルが笑いを噛み殺すようにいってきた。

「律儀ね」

「だれかに見られるわけにはいかない」

「真夜中よ。だれも覗きに来ないわ」

「そうかな?」

 尋ねたが、考えてみればそうかもしれない。仮面の内側を見やりながら、考える。仮面を外していようと、つけていようと、なにが変わるわけでもない。他人の視線がないのなら、外していても構いはしないのだ。が、仮面を外していると、ランカインという死者の名を思い出さずにはいられないのだ。兄の死によって行き場を失った彼は、ガンディアを焼き尽くした末に死のうとした。しかし、突如現れた少年によって、彼の暴走は止まった。彼はガンディアに捕まり、精神的な死を迎えた。

 ウルに支配されたとき、ランカイン=ビューネルは死んだのだ。

「だれも、あなたの素顔になんて興味ないわよ」

 ウルの冷ややかな言葉に、カインは苦笑を浮かべた。もっとも、笑みは痛みのせいで上手く作れなかったが。

「そうれもそうか」

 ガンディアの人間にとって、カイン=ヴィーヴルがなにものであろうと構いはしないのだ。勝利に貢献してくれればそれで問題はない。なにより、君主たるレオンガンドがカイン=ヴィーヴルを重用している。それ以上の説得力はないし、それだけでも十分なのだ。仮面をしていようと、正体が不明であろうと、カインが軍規に忠実でさえあれば問題は起こりようもない。そしてカインがガンディアに敵対的な行動を取るはずもない。カインの正体を探ろうとするものも、すぐには現れないだろう。

 ウルが、壁から背を離した。ゆっくりとした足取りでこちらに近づいてくる。漆黒のドレスが、彼女の纏う闇そのもののようだった。ウルも、深い闇を背負っている。

「君は、ずっとそうしていたのか?」

「まさか。そんな暇人じゃないわよ」

 ウルが冷笑してくる。が、不快感はなかった。彼女に支配されているからだろうか。しかし、彼女の支配によって、カインが忠誠を誓ったのはレオンガンドだ。彼女の言葉が、カインの意識を左右することはなかった。では、なんだというのだろう。心の奥底で渦巻く不可解な感情のうねりに、カインは目を細めた。

「投降兵がなにか隠し事をしていないか、調べて回っていたのよ」

 ウルが、月光の中に現れる。青白い光に曝されて、皮膚の白さが際立った。黒髪も艶やかに輝き、灰色の瞳が月影にきらめく。

「君も律儀だな」

 カインは素直に感想をいった。戦後処理の一環だろう。能力については、デイオンに説明したのかもしれない。それは、カインがハーレンに行った策の種明かしでもある。異能による精神支配。まっとうに生きてきたデイオンには信じがたい話ではあるだろうが、彼におもねるハーレンの姿を見ている以上、信じるしかなかっただろう。そして、彼女の能力を利用すれば、降兵からの情報収集のみならず、マルウェールの管理も楽にはなるかもしれない。使い方次第ではあるし、そこはデイオンの腕の見せどころだろう、

「暇潰しよ」

「暇人じゃないんじゃあなかったのか」

 カインは呆れていったが、ウルはどうでもよさそうに笑った。

「どうだったかしらね」

 ウルはそういいながら、カインの側まで来た。彼の周囲は影になっていて、月光からは隔絶されている。彼女の姿も闇に溶けたが、寝台の上に座ったのはわかる。至近距離。カインの隣に座ったようなものだった。

 カインは、彼女を見た。目だけが光を捉えて、輝いている。彼女はカインを見据えていた。射抜くようなまなざし。いつか見た、視線。意識の深淵で、ぶちりと、なにかがちぎれるような音がした。

 カインは仮面から手を離すと、彼女の細い首に手を伸ばしていた。驚くほど冷たい体温を堪能するわけもなく、絞めていく。怪人であろうと、彼女の首はやはり人間の首だった。それほど力を入れずとも、折れる。その前に絞殺してしまうだろうが。女は抵抗もしなかった。ただ、こちらの目だけを見ている。瞳に映りこんでいるのであろう自分の顔でも見ているのかもしれない。哀れな女だ。目の前にいたというただそれだけのために殺されるのだ――。

 カインは、いまにも死にそうなウルの顔を認めて、はっと手を離した。ウルが体を折り曲げて、激しく咳き込む。手には、彼女の細い首の感触が残っている。なにが起こったのか、カインにはなんとなくわかった。ウルの戯れに付き合わされたのだ。馬鹿げたことだ。

 ウルはひとしきり咳き込むと、両目に涙を浮かべながらこちらを見上げてきた。笑っている。なにがおかしいというのだろう。

「やっぱり、あなたの支配を緩めることはできそうもないわね」

「試したのか」

 カインは、呆れる想いがした。彼女の考えもわからないではない。カインの支配に使っている力の配分を変えることができれば、それだけ彼女の行動の幅が広がるということだ。戦闘でも、戦闘以外でも、彼女の能力は使い勝手がいい。しかし、カインのためだけに能力の大半を使用しているという現状は、必ずしも良いとは言い切れないのだろう。

 改善を試み、失敗したのだ。

「君を殺すところだった」

「わたしが殺されていれば、あなたは完全に解き放たれていたわね」

 彼女は、悪びれもせずに笑っている。心底愉快なのだろう。カインには、彼女の心情はまったく理解できなかったが、どうでもいいことだった。

「その場合、俺はどうしていただろうな」

 いまのカインには、想像もつかないことだ。ウルを手に掛けようとしたのだって、いまの自分には理解し得ない衝動だった。気がついたときには、首を絞めていた。ウルが支配の再構築に遅れていれば、間違いなく殺していただろう。首輪が外され、狗ではなくなるのだ。死んだはずの男に戻る。

 ランカイン=ビューネルに戻ったとき、自分はなにを望むのだろう。

 ふと、気になった。

「どうしたところで、セツナに殺されるんじゃない?」

 ウルの興味なさそうな言葉に、カインは苦笑を漏らした。だが、彼女の答えは気に入った。それはいい。その結末ならば満足できるだろう。黒き矛との再戦。まず間違いなく殺されるのだろうが、つぎは、もう少しまともな戦いができるかもしれない。そう考えるだけでぞくぞくしてきた。

 今夜は、眠れないかもしれない。

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