第二千百二十七話 希望と絶望(三)
「マユラには俺が会いに行く。皆はここにいてくれ」
セツナは、船首展望室の出入り口に向かいながら、室内の皆にいった。無論、反対意見が出てくることはわかりきっている。そして、いの一番に反論してくるのは、予想通りミリュウだった。
「どうしてよ? あたしもいくわ」
「ミリュウ、おまえは一番ここに残っていてほしいんだけどな」
「はあっ!? なんでよ!?」
振り向きざまミリュウが憤慨するのを見て、セツナはむしろ微笑んだ。それだけで彼女の激情をある程度は制することができることくらいは、理解している。彼女の好意を利用するのは気が引けるが、こういう状況ではこだわってなどいられない。
「おまえの魔法は、どんな事態にだって対応できるだろう? こういうとき、一番頼りになる」
「……わ、わかったわ。いつでも対応できるようにラヴァーソウルを召喚しておけってことね」
ミリュウは一瞬考えるような顔をしたが、すぐさまセツナの意向を理解したようにうなずいた。“死神”使いのレムにファリアやダルクといった優秀な武装召喚師がいる中で、なぜ彼女を一番に頼ったのか。それは彼女自身がもっとも理解していることだろう。
ミリュウは愛用の召喚武装ラヴァーソウルを用い、擬似的にとはいえ魔法を再現するという離れ業をやってのける。
魔法は、人知を超えた技術であり、この世界において人間の手に扱いきれぬものだ。人間の手、技では、武装召喚術が限度なのだという。武装召喚術も人知を超えているといえばそうなのだが、魔法とは、さらなる先を行くものなのだ。
ラヴァーソウルによる擬似魔法は、ただ敵を攻撃するだけのものではない。以前、アガタラのウィレドたちが繰り出した広範囲攻撃魔法を軽々と防いだのも、ミリュウの擬似魔法だった。もし、マユラが方舟を攻撃してくるようなことがあれば、ミリュウに皆を護ってもらうつもりなのだ。セツナは、マユラのことに専念しなければならないだろう。そうなれば、後方にまでかまってはいられなくなる。
黒き矛の使い手として、セツナは、一歩も二歩も前進している。しかし、それでも全能には限りなく遠く、なにもかもをセツナひとりで補えるわけではないのだ。
「そういうこと。皆はミリュウの指示に従ってくれ」
「そういうことなら、わかったわ。任せたわよ、ミリュウ」
「うふふ、あたしにまっかせなさい! 皆、幸福に導いてあげる」
「師匠、素敵です!」
「ああいうのが素敵なの? エリナ……」
師弟のノリについていけないのか途方に暮れるミレーユのことが気にかかりつつ、セツナは、船首展望室を後にした。後のことは、ミリュウに任せておけばいい。武装召喚師としての力量だけでなく、あらゆる面で頼りになるのが彼女であり、ファリアたちだ。
なんにせよ、全員が一室に集まっていたのは、好都合だった。もし、それぞれがばらばらの場所で日常を謳歌している状況であれば、全員の安全を確保するのに手間取り、すぐにはマユラの元に行けなかったかもしれない。
セツナは、船首展望室を出ると、一直線に機関室を目指した。
マユリ神は、方舟に動力を行き渡らせるため、常に機関室に鎮座しているからだ。おそらくマユラ神が目覚め、マユリ神が眠りについたのだろうが、マユラ神は、機関室を離れていないようだ。機関室を離れれば、方舟は動力源を失い、飛び続けることも進路を指定することもできなくなる。方舟は、少なくとも旋回し、目的地とは別の方角に向かって進んでいるのだ。つまり、マユリ神以外のなにものかがこの船を動かしているということになる。
この場合、考えられることはひとつしかない。
マユラ神が覚醒し、マユリ神から主導権を奪い取った、ということだ。
メイルオブドーターを召喚し、その飛行能力によって船内通路を突っ切っていく。通路は広めに作られていて、歩行の邪魔をするようなものはなく、メイルオブドーターによる高速飛行も問題なく行えた。これもマユリ神の構造改革のおかげであり、女神の気遣いがこのような事態にも効力を発揮しているということだ。やはり、マユリ神は信用に値する。
だが、マユリ神を過信しすぎることもできないのが現状だった。
マユリ神は、マユラ神と表裏一体の存在なのだ。同一の存在であり、切っても切り離せない。別世界の同一存在だったセツナとニーウェとはわけが違う。たとえこのあと、マユラ神がなんらかの理由で眠りにつき、マユリ神が目覚めたとしても、力を借り続けるべきかどうかは考えどころだった。
マユリ神とマユラ神が分かたれれば、話は別なのだが。
それは不可能だ、と、マユリ神自身がミリュウたちに語っている。マユリ神としても考え方や思想が根本的に異なるマユラ神と常にあり続けなければならないのは苦痛極まりないことであり、できることならば別個体の神となって離れ離れになりたいのだが、それはできないのだという。
神は、ひとの祈りによって顕現する。
マユリ神とマユラ神は、別々の祈りによって誕生した神がひとつになったわけではなく、同じ祈り、同じ願い、同じ望みによって出現した神であるが故、永久無限にひとつであり続けなければならないのだということだった。
セツナは、メイルオブドーターとともに召喚していた黒き矛の柄を握りしめた。黒き矛は、神に対抗しうる唯一無二の武器だ。その力を持ってすれば、神の体を切り裂くことも可能だが、果たして、それでマユリ神とマユラ神を切り分けることなどできるのだろうか。神にとっての毒である黒き矛で切り裂けば、最悪、マユラ神のみならず、マユリ神をも傷つけることになりかねない。そのことが、セツナの頭を悩ませている。
マユラ神はともかく、マユリ神にはなんの恨みもなかったし、むしろ感謝さえしているのだ。女神を傷つけたくはなかったし、だからこそ、マユラ神とも戦いたくはないと考えている。だが、そうもいってはいられまい。
マユラ神は、セツナに対し、なにか良からぬことを企んでいるように思えてならない。
機関室の扉は、なんなく開いた。マユラ神がその大いなる力で封鎖しているのではないかと考えたりもしたのだが、どうやら、かの神は、そんなことで時間を稼ぐつもりもないらしい。扉を開くと、すぐにその姿が目に飛び込んでくる。
《待っていたぞ、セツナ》
それは、やはり美しい少年の姿をした神としてそこにあった。見目麗しい少年の風貌の中、異彩を放つ金色の瞳、白く透き通る肌さえも淡い光を帯びている。身につけている装束は、マユリ神となんら変わらない。背格好も同じだ。ただ、マユリ神の肢体が女性的であるのに対し、マユラ神は男性的だ。とはいえ、筋肉質でもなんでもなく、ただ美しくしなやかなだけの肢体が装束の内に見え隠れしていた。その背後で、背中合わせの女神マユリが目を閉じているのがなんとはなしにわかる。
「待っていたじゃねえ。なんのつもりだ?」
《汝を待っていたから待っていたといったのだが……気に障ったか》
マユラ神は、不服そうに目を細めると、四本の腕のうちのふたつで腕組みをした。残るふたつの腕は腰に当てている。マユリ神がいつも座している動力室の水晶体の上で胡座をかき、こちらを見下ろしているのだ。その挙措動作は、マユリ神の尊大さ、横柄さが如実に現れているものだが、そもそも、神とは尊大かつ傲慢なものと相場が決まっている。マリク神やマユリ神のような在り様の神のほうが希少なのかもしれない。
セツナは、そんな尊大な神を不遜にも睨みつけた。マユラ神は、莫大な力を有している。それこそ、以前ベノアガルドで交戦したアシュトラや海上で遭遇したマウアウ神とは比較しようもないほどに強大な力だ。それは、マユラ神がヴァシュタラを構成していた神々とは由来の異なる神であることも影響しているのだろうが、ともかく、マユラ神の力は、生半可なものではない。第二次リョハン防衛戦で刃を交えた女神以上かもしれず、対峙するだけでも相応の覚悟を要した。ちょっとした言動がマユラの不興を買い、方舟を崩壊させるほどの攻撃を繰り出してきかねない。
かつて、ちょっとしたことでマユラ神はその御業をもって地平の果てまで薙ぎ払った。それほどの力を持っているのだ。マユラの性質がよくわからない以上、警戒するに越したことはない。
とはいえ、黙ってもいられない。
「……俺の気持ちはどうでもいい。なにをしている、あんたは」
《まったく、マユリには困ったものだ。そうは思わぬか?》
質問に応えるどころか、質問を投げ返してきたマユリにセツナは口を歪めた。柄を握る手に力が篭もる。矛自体、猛烈に反応していた。神への怒りが猛り狂わんばかりに渦巻き、手のひらから腕へと伝わり、心まで圧倒されそうだった。黒き矛は、魔王の杖の異名を持つ。魔王の杖は、神の敵といっても過言ではない。神々が魔王の杖を憎むように、魔王の杖もまた、神々を憎み、忌み嫌っているのだ。だが、その怒りを制御してこその使い手だということは、百も承知だ。黒き矛の荒ぶる怒りをそのままに解き放てば、制御もできないただの破壊の奔流となって吹き荒ぶだろう。
「俺たちはあんたにこそ困らせられているんだがな」
《……希望を司る神などと嘯き、縋るものに手を差し伸べては偽りに満ちた希望を見せ、結局は絶望の底に落とす。それがマユリの本質。マユリという神のすべて。だのに、多くのものはその見たくもない現実からは目を背け、見たい夢想にすがろうとする。故に、マユリは示現した。我とともに》
「偽りの希望……?」
セツナには、自分の半身さえも嘲笑うマユラの心境がまるでわからなかった。わからないといえば、その言葉の真意もだ。本当にそう信じていった言葉なのか、それとも、セツナを嬲るためだけに吐いた欺瞞なのか、いずれにせよ、受け入れがたいものではあった。なぜならば、マユリの示した希望は、尽くセツナたちの意向に沿うものであり、女神の協力がなければこうして空を飛び回ることすらできなかったのだ。彼女の見せる希望が偽りに満ちた幻想であり、欺瞞にすぎないというのであれば、こうまで上手くいくものだろうか。
マユラは、ただ、見下し、告げてくる。
《そう。マユリが示すことができるのは、真実に程遠い欺瞞に過ぎない。虚偽と欺瞞に満ちた希望に。されどひとはマユリの差し出した希望に有難くも縋り付き、手をのばすのだ。いまの汝らのように》
マユラは、それがなによりも腹立たしいことなのだとでもいわんばかりに顔を歪めた。秀麗な少年神の容貌に初めて亀裂が入った。これまで、いつ、どんなときでも美貌でしかなかったその顔に、悪意のようなものが過ぎったのだ。セツナはその瞬間、黒き矛が一段と激しく怒りを発したのを認め、少しばかり後ろに飛び退いた。マユラの攻撃を警戒したのだが、そんなものはこなかった。
《その結果がこれだ》
マユラが水晶球の上に立ち上がる。組んでいた腕を解き、腰に当てていた手を離す。ゆるりと垂らされた四本の手の先に光が灯る。魔法とも異なる神の御業が水晶球に動力を与え、方舟全体に力を漲らせていくのがわかる。
《我が目覚め、汝らの希望は絶望へと変わったのだ》
皮肉げに表情を歪めたマユラ神の顔を睨みつけながら、セツナは鼻で笑った。
「……はっ、希望だの絶望だの、全部てめえのさじ加減ひとつじゃねえか」
《そうかもしれぬ。だが、我はマユリとは違うのだ。マユリのように耳心地のいい言葉で現実を捻じ曲げるようなことは、しない。我は、現実をありのままに伝え、絶望に沈む魂を救うために手を差し伸べよう》
船が、激しく揺れた。
《さて、セツナよ。汝は絶望に抗えるか?》
マユラの両目がまばゆい光を発したかと思うと、機関室の壁全体に光が走った。それは、映写幕のように船外の光景を映し出す。
「マユラてめえ……」
セツナは、光の中に浮かび上がった船外の光景を目撃した瞬間、マユラの目論見を理解した。そして同時に怒りが沸点に達する。