第二千百二十六話 希望と絶望(二)
方舟内での生活というのは、少しばかり退屈ではあった。
まず、外を見ても、変わらぬ景色が続いているという点が大きい。
方舟は、空を飛んでいる。それも雲の上の遥か高空であり、各所にある船窓や甲板から眼下を見渡しても、見えるのは雲海ばかりであることが多かった。たとえ地上が見えたとしても、あまりにも遠すぎて、雄大さこそわかるものの、それ以上のことはなかった。大海原の広大さや、大陸の広さ、島々の様子など、見る価値のあるものも少なくはないが、それだけだ。
夜空の美しさに目を細めたのも、最初のうちだけだ。
雲の上を進むということは、夜、星空を地上より近くで見ることができた。しかしそれは、空中都市リョハンとさして変わらないものであり、リョハンがいかに高所に存在するのかを理解できただけだった。無論、そのことで星空の価値が変わるわけもないのだが、とはいえ、リョハンでいつでも見られるような光景であることに違いはない。それに夜空ほど代わり映えのないものもないのだ。夜、甲板に出て星空を眺めながら語らうという取り組みも、すぐに廃れた。
船内にはいくつかの施設がある。
船外の様子を一望できる船首展望室。アレウテラスで買い込んだ書物を乱雑に放り込んだ書庫。召喚武装の使用にも耐えうる硬度を誇る訓練室。四季折々の花が咲き乱れる船内庭園などだ。
それら施設は、女神マユリがセツナたちの無意識の希望を取り入れて作り出したものであり、もともと方舟に備えられたいたものではない。セツナたちはそれら施設を利用するたびに、マユリ神の心遣いを思わずにはいられなかった。退屈になりがちな方舟生活も、それら施設が存在することで多少なりとも変化をつけることができるからだ。
自分で無理にでも変化をつけなければ退屈に支配されかねないのが方舟内での生活の現実だった。
「空の上なんていかにも幻想的で、素敵なものだと想ったのにねー」
などとミリュウが嘆息を漏らしたのは、方舟の旅が始まって三日後のことだった。午後、方舟が広大な雲海の直上を游ぐように進む中、セツナたちは、ゲイン=リジュールの用意した昼食を終え、船首展望室で団欒の時間を取っていた。
退屈な方舟生活の数少ない利点がこれだ。つまり、ミリュウやファリアたちとじっくり話し合ったりできるということであり、それは、この二年余りの別離の期間、空白の時間を埋め合わせるには必要不可欠なものといってよかった。
船首展望室には、セツナとミリュウのほか、乗船した全員が集まっている。ファリア、レム、エリナにエリナの母ミレーユ、ゲイン、それにダルクスもだ。ダルクスは食事をしないものの、こういう場には出来る限り顔を出してくれている。それは彼に、この方舟の仲間のひとりであるという自覚があるからだろう。でなければ、関わりを持とうともしないはずだ。
もちろんのことだが、マユリ神は持ち場を離れることはできないため、ここにはいない。そのため、ミリュウは度々動力室にマユリ神を尋ね、女神の寂しさを紛らわせているというわけだ。そんなミリュウの気遣いは、彼女の精神的な変化によるものなのか、それとも本来持ち合わせていたものなのか。おそらくは後者だろう。ミリュウは、メリル=ラグナホルンやアスラ=ビューネルらに慕われていた。それはつまるところ、彼女の本来のひととなりが慕うに値するものだということにほかならないのではないか。エリナとの関わりを見ている限り、面倒見の良さは、セツナの周囲でも上位に値するのはわかりきっている。そういう彼女の性格が、寂しがりの女神を放っておけなくしているのかもしれない。
「そうねえ……もう少し、夢を見ていたかった気分だわ」
ファリアが茶器を手元に置きながら同意した。
「わたくしは、皆様とまたこうして一緒に過ごせるだけで幸せにございます」
「わたしも!」
「なにいってるのよ」
ミリュウが呆れ果てたように頭を振った。そして、レムを見つめる。
「それは、大前提よ?」
「うんうん」
「まあ、そうでございましたか。わたくしはてっきり……」
「てっきり……なによ?」
ミリュウが訝しげな目を向けると、レムは、あっさりと白状した。
「御主人様とふたりきりになれなくてふてくされておられるのかと」
「そ、そそそそ、そんなことないわよ、ないない!」
「図星にしても動揺しすぎよ」
「動揺!? あたしのどこが動揺してるっていうのよ!?」
「どこをどう見ても動揺していますよ、師匠」
「エリナまで……!」
ミリュウが憤懣やるかたないといった様子で肩を怒らせた。とはいえ、迫力はない。本気で怒っているわけではないからだ。
「あたしは別に、セツナとふたりきりになりたいなんて、ちょっとしか想ってないわよ!」
「想ってるじゃない」
「そりゃあそこを否定したら、自分を否定するようなものだし……」
「ふふ……まあ、そうね」
「そうでございますね」
「お兄ちゃんのこと、皆大好きだもんね?」
「……お、おお」
エリナに同意を求められたものの、どう返答すればいいのかわからず言葉を濁したちょうどそのときだった。
突如、激しい振動が船首展望室を揺らした。船窓側の椅子に座っていたセツナが転げ落ちそうになるほどの衝撃が方舟全体を襲ったのだ。茶器が割れる音がし、悲鳴が上がった。なにが起こったのかわからないまま周囲を見やれば、小卓や椅子が無数に倒れ、落下の衝撃で割れた茶器が床に散乱していた。幸い、怪我をしたものはいないようだが、皆、突然の出来事に目を丸くしており、だれもなにひとつ理解できていないようだった。
「な、なによ!?」
「敵襲か?」
「でしたら、マユリ様から事前の警告があるはずでございます」
「そりゃあそうだな」
レムの冷静な判断にセツナは返す言葉もなかった。
「お兄ちゃん、窓の外!」
「え?」
エリナの叫び声に即座に反応し、船窓に顔をくっつけるようにして窓の外を見やる。船首展望室には、船外を見渡すための大きな船窓がいくつも備え付けられており、船外の異変が手に取るようにわかった。そう、異変が起きていたのだ。雲海が激しく旋回している。いや、そうではない。旋回しているのは、雲海ではなく、方舟自身だ。
「これは……」
「進路を変えたってことよね? なんでまた?」
ファリアの疑問にミリュウが口を開いた。
「マユリんの話じゃあ、あとはまっすぐ進むだけって話だったわよ?」
「……マユリ様は、そういっていたな」
「うん。間違いないわ」
ミリュウの確信に満ちた言葉は、心強く、頼もしい。彼女ほど女神マユリと語り合っているものもいないのだ。方舟のことについても、ミリュウはマユリのつぎに詳しくなっているはずだ。マユリが断言したのであろう進路が突如として変更されることなど、普通ありえないことだ。マユリには、どんな些細な事であっても、セツナたちに話を通す律儀さがあった。だからこそセツナたちはマユリに対する疑念や懸念を捨て去っていたのだし、安心しきっていたのだ。ここにきての進路変更は、マユリの意思とは関係がないと考えるしかない。
とすれば、原因はひとつだ。
「……そういうことか」
セツナは、たったひとつの不安が的中したことを理解して、歯噛みした。そうなる可能性については、散々考えていたことではあったし、これまでがあまりにも順調すぎたのだと思い直す。
「どういうことよ? ひとり納得していないで、教えなさいよ」
「マユラだよ」
「へ?」
「なるほど……」
「ほかに考えられない。マユラが目を覚まして、進路を変えやがったんだ」
「なんで、どうしてよ?」
「さあな。たまたま偶然か、それとも、マユラの計画通りなのか」
マユリ神にも、マユラの覚醒は兆候すらわからないものなのか。それとも、マユリ神は知っていて、セツナたちに話さなかったのか。そんなはずはないと想いたいのだが、本当のところはなにひとつわからない。
「なんにせよ、やつに直接遭って問いただす。話はそれからだ」
セツナは、拳を握りしめて、船窓の外に目をやった。方舟がどこへ向かおうとしているのか、皆目見当もつかない。