第二千百二十二話 想い、巡る(一)
方舟がリョハンを飛び立ってから、早数日が過ぎた。
四月も半ばを過ぎ、少しずつではあるが冬の寒さが遠ざかり始めており、昼間などは防寒着も薄手にして過ごすことができるようになっていた。真っ昼間など、寒さに慣れた子供たちは薄着で駆け回り、親に怒られることもしばしばあり、まさにリョハンそのものといっていいような光景が繰り広げられているのだ。
彼女は、そんな光景に遭遇するたび、自分の子供の頃のことや、娘がまだ幼かった時分を思い出して懐かしくも幸せな気分に浸った。そして、ようやく、やっとの想いで生まれ故郷に帰り着くことができたのだと、いまさらのように実感するのだ。
十年以上もの間、世界中を放浪していた。
それも自分の意思とは関係のない、赤の他人の思惑によって、だ。
アズマリア=アルテマックス。
武装召喚術の祖であり、始祖召喚師とも大召喚師とも呼ばれる人物は、紅き魔人として忌み嫌われてもいた。そうなった最大の原因がアズマリアによるリョハン襲撃事件であり、彼女の夫メリクス=アスラリアが手にかけられたのもそのときだ。
そしてその直後、彼女は、アズマリアから愛娘を護るため、アズマリアの依代となる道を選んだ。それからというもの、彼女は、アズマリアの肉体として在り続けている。アズマリアの肉体となった彼女の肉体は、もはや彼女のものではなく、彼女の意識も、常に夢の中をさまようようなものだった。長い長い悪夢を延々と見続けなければならない、そんな日々が続いた。
だというのに、彼女がアズマリアを必ずしも憎んではおらず、むしろ感謝さえしているのには大きな理由がある。
それこそ、最愛の夫メリクスの死に関連することだ。
メリクス=アスラリアは元々、この世界の人間ではない。アズマリアの召喚武装ゲートオブヴァーミリオンによって異世界より呼び出された彼は、右も左も分からないまま、リョハンでの武装召喚師としての修行を言いつけられ、それに従っている。
メリクスがアズマリアの指示に一も二もなく従っていたのは、彼がアズマリアの召喚によって命を救われたからだ、という。アズマリアの召喚が一瞬でも遅ければ、彼の命はなかったのだ、と。それがどういう意味なのか、後になってわかったのだが、その話を聞いたときには、結果的に彼の命を救ったアズマリアに感謝したものだった。
彼女が、メリクスに恋をしていたからだ。
だれよりも貪欲に物事を学び、修行に取り組み、体を鍛え続けながらも、ともすれば物憂げな表情でこの世の果てでも見ているような彼の姿は、リョハンという狭い天地しか知らない彼女には、この上なく魅力的に映ったのだ。リョハンは通常、外界からの人間を受け入れることはない。
ヴァシュタリア共同体から独立したリョハンは、ヴァシュタリアという大海に浮かぶ孤島そのものといってよかった。ヴァシュタリアの人間からすれば、リョハンのひとびとはヴァシュタラ教会の裏切り者であり、背信者であり、異端者といっても過言ではないのだ。そのようなものたちの住処であるリョハンと交流を持とうなどという都市が現れるはずもない。
そも、リョハン自体が門戸をきつく閉ざし、外界からの人間の出入りを厳しく監視しているのだ。外の人間というのは、極めて珍しい存在であり、メリクスはそういう意味でも目立つ人物だった。ひとつには、容姿が整っていて、まるでどこかの貴公子のようであり、目が合うだけで女たちが騒ぐほどだった、というのもあるだろうが。
リョハンは、外界との交流こそなかったが、その分、内部の交流というのは濃密極まりなかった。空中都、山間市、山門街という三つの居住区はそれぞれ分け隔てられているものの、毎日のようにひとが行き交い、交流が途絶えるようなことはなかった。常に新陳代謝が起こっているといってもよく、その血の巡りの良さこそ、リョハンが独立不羈を貫き続けられた理由のひとつというべきなのかもしれない。
しかしながら、リョハンで生まれ育ったものにしてみれば、三区画のどこを見ても顔見知りばかりという状況となり、息が詰まるような閉塞感を抱くことも決してないとは言い切れなかった。特に感受性の豊かなものにとっては、リョハンの天地は狭い檻のように思えたことだろう。だが、リョフ山という限られた土地の中で生涯を終えるものがほとんどだったし、そのことに疑問を抱くものはほとんどいなかった。リョハンに生まれ、リョハンで死ぬ。そのことがリョハンに生まれ育ったひとたちの誇りであり、自然の摂理といってもよかった。
だから、というのもあるだろう。
メリクス=アスラリアの出現は、リョハンに大きな刺激を与えた。当時は、偉大なる始祖召喚師としてリョハン中のひとびとに慕われていたアズマリアが連れてきた人物なのだ。どこの馬の骨ともわからないとはいえ、受け入れることに抵抗はなかった。そして、メリクスの生真面目な性格と勤勉さ、貪欲さは、リョハンの武装召喚師たちには好感をもって迎え入れられたのだ。
彼女も、そういう風にメリクスを好意的に受け入れたひとりであったが、同時に尊敬する母の師であるアズマリアの手解きを受けることができる彼を羨んだものだ。
メリクスは、アズマリアの弟子であったが、アズマリアがリョハンにいない間は、彼女の高弟が彼の師事に当たった。つまりは、彼女の母ファリア=バルディッシュだ。
当時、ファリア=バルディッシュは戦女神としての役割を果たす傍ら、隙を見つけては武装召喚術の指導を行っており、戦女神から直接指導を受けることができるのは、リョハンの武装召喚師たちにとって最大の喜びだった。彼女も、母から手解きを受けることを至上の喜びとしていたし、そういう時間が少しでもあることが嬉しかった。だが、そんなわずかな時間さえも、アズマリアの弟子であるメリクスに取られるのは、少しばかり不満だったし、気に食わなかった。アズマリアという当代最高峰の武装召喚師に指導してもらえるのだから、わざわざ自分たちの偉大なる指導者の時間を奪う必要はないはずだ。そう考えるに至ったのは、まだ若く、青かったからだろう。
そのことでメリクスと話し合う機会を持ったことが、彼女の人生の転機となった。
メリクスは、彼女のくだらぬ嫉妬に対し、真摯に向き合うとともに彼女の力になる、などといい出したのだ。彼女は、彼の予期せぬ反応に戸惑ったものの、翌日から、彼とふたりきりの修行を始めることとなり、そのことが彼女に新たな価値観を芽生えさせていったものだ。
メリクスへの思慕の情が生まれると、それが恋慕に変わるのは時間の問題だった。やがて彼女はメリクスをひとりの男性として愛するようになり、メリクスも彼女の想いを受け入れてくれるようになる。そして、結婚したのは、ふたりがまだ二十代の頃だった。
戦女神の愛娘と始祖召喚師の愛弟子の結婚は、リョハンの天地を揺るがすほどの大騒ぎとなり、リョハン中のひとびとがふたりの結婚を羨み、また、祝福した。
幸福の絶頂とは、まさにこのことだろう。
晴れ渡る空の下、空中都で行われた結婚式のことを思い出して、彼女は目を細めた。空中都の町並みを駆け抜ける子供たちの元気さは、昔となんら変わらない。なにひとつ、変わっていない。変わったものがあるとすれば、自分の中にあるのだろう。
ゆっくりと伸びをして、肺に満ちた空気を入れ替えるように深呼吸をする。
ミリア=アスラリアは、リョハンで過ごす穏やかな一日を満喫するようにして、日々、空中都を歩き回っている。
そうして空中都の変わらぬ景色を目の当たりにするたびに、十数年前のあの日のことを思い出さずにはいられないのだ。
それこそ、彼女の二度目の人生の転機だったからだ。
アズマリアは、その日、そのことが起こるまでは、リョハンにおける最大の功労者として、また、武装召喚術の発明者、始祖として、リョハン中のひとびとから慕われ、敬われていた。戦女神への信仰が第一の柱だとすれば、アズマリアへの信仰は、第二の柱といってもいいほどに、リョハンのひとびとのアズマリアへの想いは強く、深かった。
それは、そうだろう。
アズマリアは、ヴァシュタリアからの独立を何百年にも渡って望み続けてきたリョハンのひとびとに大いなる力を与えたのだ。その力は見事リョハンの独立自治という形に結実し、リョハンのひとびとの長年に渡る望みは叶えられた。独立戦争は、戦女神という信仰対象を生んだが、実は、アズマリアへの信仰をも確かなものにした出来事だったのだ。
アズマリアがリョハンにもたらした新たな力、武装召喚術は、リョハンのひとびとに独立の気概と自尊心を与え、ついには三大勢力の一角ヴァシュタリア共同体からの独立を勝ち取らせるに至る。リョハン市民がアズマリアを信仰対象として仰ぎ見るのは、当然のことだった。
もっとも、アズマリアは、そんなリョハン市民の反応を決して心地よくは想っていなかったようだが。
彼女は、信仰対象になるためにリョハンに訪れたわけではない。
とはいうものの、アズマリアは信仰対象とされることを否定してもいなかったし、暇さえあれば、ひとびとに武装召喚術の手解きをした。特に子供たちへの手解きに熱心であり、未来の優れた武装召喚士はここから誕生するのだ、と息巻いていた、という。
そんな彼女がリョハンの敵となったのは、いまから十数年前に起きたあの出来事が原因だった。
あの日、リョフ山全域が炎に包まれたとき、リョハンとアズマリアの蜜月の日々は、音を立てて終わりを迎えたのだ。