第二千百二十話 獅徒(四)
弐型飛翔船は、飛翔線の中でも特に大きな型であり、戦力の輸送に適していた。また、ほかの型に比べても威圧的な外観をしており、侵略戦争に赴くにあたって旗印に相応しいといってよく、そのため、ルクスユーグを始めとして、獅徒それぞれに専用の弐型飛翔船が建造されている。
ルクスユーグは、ミズトリス専用の弐型飛翔船であり、その名には古代言語が用いられている。ルクスは力、ユーグは刃という意味を持つ古代語なのだ。つまり、ルクスユーグとは力の刃という意味であり、ミズトリスに相応しい名称だと彼女は想っていた。しかも名付けたのはヴィシュタルそのひとであり、彼女が気にいるのは道理といってよかった。
威圧的な外観も、ミズトリスの感性に合うものであり、ルクスユーグを設計し、建造に当たったアルシュラウナには頭の下がる想いだった。そしてそれは、ミズトリスだけの想いではない。獅徒のだれもが、アルシュラウナには複雑な想いを抱かざるを得ないのだ。
アルシュラウナは、獅徒の中でただひとり、不遇な目に遭っているといっていい。
彼は生前、ヴィシュタルに光を見たがために人生を狂わされながら、ヴィシュタルを呪うこともなく、いやむしろ歓ぶようにして彼と最期とともにしたひとりだ。そういう意味ではミズトリスやファルネリアと同じなのだが、決定的に違うことがある。獅徒転生を経て、アルシュラウナとなった彼は、ネア・ガンディアの神に等しい存在となったのだ。
彼は、もはや自分がなにものであるのかさえわからない状態にあるのだという。
ヴィシュタルはたびたび彼を救おうと試みたが、無駄だった。
百万世界と呼ばれる。
イルス・ヴァレの外にある数多の異世界の総称だが、アルシュラウナはまさにその百万世界とつながっているのだ。
彼を救う方法はない。
あるとすれば、それは――。
『それだけは、考えたくもないな』
ヴィシュタルのアルシュラウナを見るまなざしは、いつだって哀しみに満ちている。
そんな彼の哀しみを消し去りたいとは想うのだが、ミズトリスには、やはりどうすることもできない。
アルシュラウナは、いまも混沌そのものの如く、神皇宮をさまよっているだろう。
旗艦ルクスユーグとともにネア・ガンディオンを飛び立ったのは、五隻の伍型飛翔船だ。伍型が完成したのは、つい先日のことであり、第二次リョハン侵攻に投入されなかったのはそのためだ。もし、完成が間に合っていれば、間違いなく運用されただろう。
伍型は、弐型の十分の一ほどの大きさしかなく、積載量もそれだけ少なくなっている。しかし、その分建造のための資材、費用、人員も少なくて済む上、多くの面で簡略化、最適化されており、次代の飛翔船は伍型を元に作られるだろうといわれていた。まさに最新技術の塊であり、特に驚くべきは、起動するに当たって、神の搭乗を必要しないということだった。
それは革命的といってもいいことだった。
飛翔船がどういう原理で空を翔ぶのかといえば、簡単な理屈だ。神に乗ってもらい、神に動かしてもらっているからだ。神の力は、万能には程遠いとはいえ、もっとも万能に近い力でもある。神の御業を持ってすれば、船を空に浮かせることくらい容易いことなのだ。飛翔船は、その神の力を効率的に利用するための装置や機構が組み込まれており、それ故、神にしても、ただ船を浮かせるよりは遥かに楽だという。ただ大きな船を神の力で浮かせているというわけではないのだ。
では、どうやって伍型飛翔船が動いているのか、といえば、これもまた、必ずしも難しい話ではないというのだが、ミズトリスにはいまいちよく理解できていない。
神晶機関と呼ばれる機構が、伍型飛翔船の動力源であるらしく、その神晶機関によって擬似的に神威を発生させ、浮力を得るのだ、という。神晶機関なるものがどのような機構で、なぜ神威が擬似的にも発生するのか、といったことは皆目見当もつかないのだが、実際に神の搭乗なくして空を翔ぶ伍型飛翔船の様子を見れば、納得せざるを得ない。
五隻の伍型飛翔船は、旗艦ルクスユーグを先導するようにして空を飛んでいく。弐型飛翔船が十二対二十四枚の翼を広げれば、伍型飛翔船は、二対四枚の翼を発生させている。神威の発現であり、神の力の現れといっていい。つまり、伍型飛翔船にも、神威が発生しているということだ。
《どういうことなのです?》
突如、ミズトリスの頭の中に聞こえたのは、ルクスユーグの動力源たる皇神モナナの聲だ。モナナ神は、二級神に類別される女神であり、ミズトリスよりも小柄で少年染みた外見をしている。声も、どことなく少年を想起させるが、れっきとした女神だということを主張するのがモナナ神の性格的な特徴といえば、そうなるだろう。
女神には、弐型飛翔船とは異なり、神の力なくして空を飛ぶ伍型飛翔船の編隊が不思議に思えたらしい。飛翔船は通常、先もいったように神の補助が必要だ。神威同調機関と呼ばれる機構によって、神威――つまり神の力を動力として利用し、それによって空を飛び、あるいは攻撃を行うことができる。伍型飛翔船には、神威同調機関は搭載されておらず、神も乗ってはいない。壱型飛翔船から肆型飛翔船まで用いられていた原理とはまったく異なる方法論で空を飛んでいるということが神々にとっても不思議なのだ。
「わたしにもさっぱり」
《……ミズトリスは相変わらずですね》
「どういうことですか」
《難しい話には興味を持たないといいますか》
「……む」
ミズトリスは、脳内に響く女神の聲に対し、返す言葉もなく沈黙した。すると、女神は呆れ果てたのか、それとも哀れに想ったのか、それ以上突っ込んで聞いてくることはなかった。ミズトリスは安堵する。図星だ。自分でも理解できないような難解な話にわざわざ首を突っ込むほど、ミズトリスは愚かではない。己の頭の悪さを理解しているのだ。真に愚かなものは、自分の愚かしさにさえ気づかないものだろう。その点、ミズトリスは自分を知り、わきまえることも知っていた。難しい話は、専門家やヴィシュタルたちに任せておけばいい。
ミズトリスができるのは戦闘だけだ。そして、それだけで十分だ。戦場で剣を振るい、ただ敵を倒す。それが彼女の生き方になった。
謎の原理で空を飛ぶ五隻の伍型飛翔船とともに、ルクスユーグは、イルス・ヴァレの空を行く。澄み切った透明な空の只中をひたすらに飛んでいく。だれに邪魔されることもなければ、自然現象に阻まれることもない。神の大いなる力によって守られているかの如く、ミズトリス率いるザルワーン侵攻軍は、
ガンディア島より遥か北東のザルワーンの地へと向かっていた。
ザルワーンは、ガンディア島から見て遠く北東に浮かぶログナー島よりもさらに北東に位置している。かつてはガンディア本土からログナー方面を越えた先にあった土地が、いまや飛翔船でも用いない限り簡単には辿り着けないほど遠く離れていた。しかしそれは、ザルワーンに限った話ではない。同じく再侵攻予定地点であるログナーも、アバードやジベルといったガンディアと関わりのあった地域も、地殻変動とそれによって生じた大海原によって隔絶されているのだ。
その隔絶を乗り越えるのが飛翔船であり、飛翔船がなければ、ネア・ガンディアの世界侵攻は大幅に遅れることになったかもしれない。
(いや……違うな)
ミズトリスは、胸中、頭を振った。
飛翔船がなければないでそれ相応の手段を用いたに違いない。なにせ、ネア・ガンディアには、数多の神々がいる。神々の力を用いれば、飛翔船を用いずとも海を渡るくらいたやすいものだ。飛翔船は、数多の神々の力に頼らずとも海を渡り、戦力を輸送する手段であり、そのためにアルシュラウナが作り上げたものなのだ。なくとも問題はないが、あることに越したことはなかった。実際、飛翔船がネア・ガンディアの戦略の幅を大きく広げたのは間違いないのだ。
いまや、飛翔船は、ネア・ガンディアになくてはならないものとなっている。
ミズトリスがなんの憂いもなくザルワーンを目指すことができているのも、飛翔船のおかげといってよかった。もし万が一、ネア・ガンディア本国に重大な問題が発生した場合でも、飛翔船を用いればすぐさま引き返すことができるのだ。もちろん、そのようなことが起こる心配など一切ないのだが、絶対にないとは言い切れない。いつだって不測の事態に備えておくのに越したことはない。
そう、不測の事態とは、予期できるものではないのだ。
たとえ神の知恵を持ってしても、未来は見通せるものではない。




