第二百十一話 戦後確認
戦闘が終わって、デイオンが最初にやったことといえば、被害状況の確認だった。
左眼将軍デイオン=ホークロウの立場からすれば当然のことだ。彼は、北進軍を任されて以来、いかにして被害を抑えるかということしか考えてこなかった。自分の立場を正確に認識しているからにほかならない。
左眼将軍。不安定な立ち位置だと、彼は想っている。全幅の信頼を寄せられているわけでもなく、アスタル=ラナディースとの釣り合いを取るためだけに選出されたのだと、彼は思い込んでいる。だからこそ、北進軍の被害を最小限に抑えた上で、与えられた任務を完遂しようと決意したのだ。無論、立場が盤石であっても同じことだが。
マルウェール市街地での戦闘では、敵軍との分断後、西側に展開したガンディア方面軍第二軍団は当然圧勝したものの、被害はまったくなかったというわけではない。死者は七名、重傷を負ったものは十名に及ぶが、マルウェールを制圧するのに払った犠牲と考えれば少ないだろう。
敵軍は部隊をふたつに分け、こちらと同様に東西に分かれて進軍してきたようだ。こちらは、シギル=クロッターを軍団長とするガンディア方面軍第二軍団を西側に当て、東側にはガンディア方面軍第三軍団とログナー方面軍第二軍団を回した。ガンディア軍人とログナー軍人の仲を取り持つため、エリウス=ログナーもそちらに向かわせた。総勢二千人の大軍勢だ。負ける要素は皆無に等しく、そういう意味ではデイオンも安心して報告を待っていられたものだ。
実際、ログナー方面軍の被害はきわめて少なかった。死者は五名、重傷者は七名。圧勝という言葉がこれほど似合う戦場はなかったらしいが、圧勝なのはデイオンたちも同じだ。こちらの場合は、カイン=ヴィーヴルが敵陣を混乱させてくれたのが大きいが。
それに比べると、ロック=フォックス率いるガンディア方面軍第三軍団の出した犠牲者は多かった。死者だけで三十四名だ。重傷者は二十名余りで、死者の数のほうが多いのは、一太刀で仕留められるからだという。報告によれば、敵軍の指揮官エイス=カザーンがロック部隊の後方に突如現れ、奇襲を仕掛けてきたらしい。攻撃しては逃げるエイスたちの戦法に撹乱され、一時は危うかったようだが、即座に持ち直し、エイスの部隊を殲滅することに成功したという。エイスを討ったのは多数の弓兵であり、だれが首級を上げたというわけでもないらしいが。
ともかく、エイス=カザーンを討ち取ったという情報は、生き残った敵兵の心を折るのに有用だった。投降兵は全部で二百名ほど。彼らは捕虜として監視下に置くことになるが、武器を取り上げておけば、たいしたこともできないだろう。たとえ、マルウェールの守備隊が五百人足らずでも、武装した兵士たちに敵うはずもない。
「終わりましたね」
「ああ、なんとか……無事に制圧できた」
デイオンは、夕日に照らされた戦場をシギルとともに歩いていた。戦場となった市街地は、敵兵や自軍兵士の血で染め上げられている。簡単には元通りの風景にはならないだろう。雨でも降ってくれれば多少はましになるのかもしれないが、頭上、空は晴れ渡っている。ザルワーン侵攻以来、雨雲を見た記憶がなかった。いつかは降るのだろうが、それまでこの血生臭さと格闘しなければならないかもしれないマルウェール市民が不憫で仕方がなかった。
彼は、ようやく安堵することができた。望んだ以上の戦果を上げることができた。カイン=ヴィーヴルの策がなっていれば、被害は皆無に抑えられたのだろうが、済んだことをとやかくいっても仕方がない。それもこれも、状況を弁えないエイン=カザーンが悪いのだ。彼がハーレン=ケノックを殺したりしなければ、ハーレンの提案を受け入れ、ともに降ってくれていれば、互いに血を流さずに済んだのだ。
デイオンには、彼の考えがわからなかった。
敵の数は三倍。籠城するならばともかく、城壁内に引き入れてしまった以上、物量差を覆す術があるはずもない。たとえ複雑な市街地の地形を利用したところで、圧倒的な数量の差をどうにかできるはずもない。ましてや、こちらには武装召喚師がおり、精強で名高いログナー兵も多かった。端から勝ち目などないのだ。そうであるにも関わらず、エイスはハーレンを殺した。
私情なのかもしれない。
捕虜たちの話によれば、エイス=カザーンは長年に渡ってマルウェールの龍鱗軍に君臨してきた人物であるという。現在の第五龍鱗軍に属する人間のほとんどが、彼の薫陶を受けてきており、彼によって一人前の戦士へと育て上げられたのだ。そこへ、ハーレンが派遣されてきた。エイスは翼将の座を退かざるを得なかった。国主の命令なのだ。彼がいかに第五龍鱗軍の兵士たちに慕われていようと、国には関係のないことだ。ハーレンが翼将となり、彼は相談役として軍に残った。実質的な支配者は、変わらなかった。
彼は無念だったのかもしれない。
自分が長年手塩にかけて育てきた兵士だ。どこの馬の骨とも知れぬ男の命令ひとつで投降させてしまうのは、彼の誇りや自負が許さなかったのかもしれない。だからといって、兵士たちを死地に赴かせるのはどうかと思うのだが。
「エイス=カザーンは、強敵だったようだな」
デイオンは、シギルに話しかけながら、あの老人の姿を脳裏に思い浮かべた。顎鬚の長い老人だった。ハーレン=ケノックを一太刀で切り捨てたとき、彼の実力の一端が伺えた。とにかく、凄まじい剣技だった。一対一でやりあえば、デイオンとて勝てるかどうか。
「ええ。ロック軍団長が剣を交えたらしく、危うく死にそうだったとか」
「……まったく、無茶をする」
普段のロック=フォックスからは考えられない行動の報告に度肝を抜かれたものの、デイオンは努めて平静に反応した。ロックといえば、生真面目で、常に緊張感に支配されているような青年だった。二十代前半だったか。ガンディア方面軍の軍団長では一番年若く、だからこそ常に周囲に気を使っている、そんな青年だ。ログナー方面軍には十代の軍団長がいるのだが、若さを競うものでもあるまい。ともかくも、そのような青年軍団長が、血気に逸ったような行動を取るとは考えにくかった。彼ならば、デイオンと同じように慎重に慎重を重ねて行動するだろうという期待があって、東側を任せたのだが。
「若いんですよ、彼は」
シギルが苦笑する。彼は笑うと、途端に涼やかになる。普段が強面過ぎるのだ。剃髪で眼力が強く、笑顔を見せることが少ないということもあり、部下からは鬼のように恐れられているらしい。デイオンにしてみれば、彼ほど話しやすい人物もいないのだが、傍目にはそうは思えないのだろう。彼が兜を身に着けていないのは、その髪を剃り落とした頭のままのほうが目立つからだということであり、前線に出ないという意思の現れでもあるようだ。前線に出ないのならば、余程のことがない限りは安全だろう。
「手柄がほしいわけではあるまい」
デイオンは、ロック=フォックスのひととなりをよく知っている。彼ほど自分の功名に対する欲が希薄な人物も珍しく、涼やかな、という言葉がよく似合う青年である。その爽やかな立ち居振る舞いは、同僚や部下からの評判も上々だという話だ。
「だとは思いますが」
「君が教育してやるのだな」
「はは、同僚よりも、将軍のお言葉のほうが余程効果的ですよ」
「それもそうか」
シギルの言葉に納得しつつ、デイオンはいつの間にか地面に落としていた視線を上げた。マルウェールの中心に聳える司令塔と呼ばれる建物はもう目前だった。