第二千百十七話 獅徒(一)
炎が上がり、黒黒とした煙が天高く立ち上っている。
当初こそ天を焦がすほどの勢いがあったものの、消火作業の成果もあって、火の勢いは弱まり続けていた。じきに完全に鎮火するだろう。延焼の心配もなければ、周囲への影響もそれほど多くはない。
(とは、言い切れないな)
ミズトリスは、頭を振った。身につけた白兜が彼女の表情こそ隠しているものの、彼女の部下たちは皆、彼女の内心を想像して凍りついているようだった。それもそうだろう。彼女は、どのようなことがあろうとも部下に当たり散らすような人間ではないし、そのことを知らない部下たちではないのだが、このような事態に対しなにも思わないわけがないのだ。
(失態だな)
彼女は、消え行く炎の発生源である伍型飛翔船の残骸を見つめ、自嘲するほかなかった。
彼女が与えられた戦力のほとんどが五型飛翔船の爆発とともに消滅している。損害は甚大。彼女が率いる軍勢は、作戦目的を完遂するどころか、作戦行動を開始することもなく壊滅状態に陥ったといっても過言ではなかったのだ。
与えられた戦力の大半が失われた。
それも、新造の五型飛翔船を五隻も失ったとあれば、申開きもできまい。いくら不測の事態とはいえ、対応できなかったのは彼女の落ち度だ。ミズトリスが即座に対応し、命令を下すことができていれば、被害を最小限に抑えることも可能だったのではないか。
ミズトリスは己の迂闊さを呪うように、大地に大穴を開けたいくつもの飛翔船の残骸を見つめていた。
事の起こりは、第二次リョハン侵攻がある種の成功――などとは考えたくもないことだが――に終わり、神都ネア・ガンディオンへの帰還した後のことだった。
獅子神皇の拝謁を終えたヴィシュタルが、ミズトリスたちの待つ獅徒の間に入ってくるなり、予期せぬことを告げてきたのだ。
「ログナーとザルワーンへの再侵攻?」
ミズトリスは、少しばかり驚きを禁じ得なかった。そも、神皇がみずからの意志でもって発言し、明確な意図を以て命令を下したことは、この二年あまり、一度としてなかったからだ。
そう、彼女たちが属するネア・ガンディア――新たなるガンディアと名付けられた国は、神皇の意志とは無関係のところで誕生し、現在に至っている。すべて、神皇の腹心たちが眠れる主君の来るべき目覚めのときに備え、作り上げたものだ。国も組織もなにもかもがだ。
成立より二年以上が経過したいまのいままで、神皇が己の意志を言葉として伝えてきたことはなく、ミズトリスたちも、神皇の命令ではなく、神将と名乗る神皇の腹心たちの命令に従って動いていた。ネア・ガンディアが世界各地にて侵略戦争を繰り返してきたのも、それが神皇のためであるという神将たちの忠義心によって紡がれたネア・ガンディアの方針だった。
その方針が転換されることがあるとすれば、やはり神将の上に御座す神皇の命令によって以外はなく、いま、ようやくそのときが来たのだと彼女は理解した。驚いたのは、そのためだ。二年以上もの間、眠り続けていた主君が目を覚ますなり、これまでの方針をなかったことにするかのような命令を下してきたからだ。
驚いたのは、ミズトリスだけではない。獅徒の間にいるだれもが同じように驚き、ヴィシュタルの表情を窺った。
獅徒の間は、ネア・ガンディアの中枢たる神皇宮にある広間であり獅徒だけが立ち入ることの許されていた。その空間には、さしもの神々も足を踏み入れることはできず、監視もできない。神の力の及ばぬ領域。それが獅徒の間であり、獅徒そのものといっていい。
獅徒は、神々に並ぶ力を持つ、神とは異なる存在なのだ。
獅子神皇の使徒たる獅徒は、ネア・ガンディアにおいて極めて特別かつ重要な立ち位置にある。これまで、神将の命令に従ってこそいたが、その立場は必ずしも神将の下に置かれるものではなく、同列といってもよかった。神将は神々さえも下におくものたちのことだ。つまり、獅徒の立ち位置も、神々以上といっていい、ということだ。
イルトリのように絶大な力を持つ一級神ならばまだしも、汎神と称される二級神以下の神々は顎で使うことさえ許された。
「それが陛下の望みであり、ネア・ガンディアの当面の行動方針となる」
ヴィシュタルは、脇に抱えていた兜を側に歩み寄ってきたレミリオンに手渡すと、手近にあった椅子を引き寄せて腰を下ろした。獅徒の間は、いわば獅徒たちの休憩所のようなものであり、皆がそれぞれにくつろげるように手を加えている。
広い空間だ。
神威の及ばぬ結界が張り巡らされた円形の広間。半球形の天井に輝く照明器具は、一般的な魔晶灯ではなく神晶球と呼ばれるネア・ガンディア独自の技術で作り出された代物だ。透明な水晶球であり、そこから無尽の如く光が放射されている。魔晶灯のような冷ややかさはなく、逆に暖かさがあった。
室内でくつろいでいるのは、先程ヴィシュタルから兜を受け取ったレミリオンのほか、ミズトリス、ウェゼルニル、ファルネリア、イデルヴェインといった顔ぶれであり、ヴィシュタルを含め、ほぼ全員が揃っているということになる。
皆、鎧兜を脱ぎ、軽装に戻っていた。
「なんでまた?」
「少し考えればわかるこったろ」
ウェゼルニルがぶっきらぼうに告げてきたものだから、彼女はむっとしたが、ヴィシュタルの手前、邪険にすることもできず、憮然とした。昔からこうだ。この男は、生まれ変わったいまもなお、彼女の目の上のたんこぶのように存在し続けている。彼もまた、彼女と同程度の思考回路しかしていないのにだ。
不公平にもほどがある、などと思いかけて、やめた。
ヴィシュタルがいつにもまして静かだったからだ。彼は考えごとがあると、風のない水面のように静まり返る。そして、そんな彼の心境に呼応するかのように周囲の空気までが静寂に包まれ、沈黙が場を支配する。いつだって、そうだった。
やはり、昔からなにも変わってなどいないのだ。
身も心も失われ、奪われ尽くし、滅ぼされ尽くしてなお、あのころの熱情は失われていない。焦がれるような想いで、彼女はヴィシュタルの言葉を待った。
「陛下は仰せになられた。夢を再び、と」
「夢?」
「陛下の夢とは、なんだと思う?」
「それは……」
だれもが黙り込んだ。
皆、神皇とはなにものなのか、知っている。知りすぎるくらいに知り、故にだれもかもが神皇に忠誠を誓わざるを得ない。彼女ですら、そうだ。身も心もヴィシュタルに捧げ、ヴィシュタルのためだけに生き、ヴィシュタルのためだけに死んだ彼女でさえも、神皇の支配を逃れることはできなかった。それこそ、ヴィシュタルのために捧げた命だから、なのだろう。
彼女がもし、ヴィシュタルとの再会を熱望しなければ、その命は、世界が壊れたあの日、失われたままだったはずだ。だが、彼女はヴィシュタルとの再会を望んだ。たとえ命が尽き果て、魂が原型を失ったのだとしても、いつかまた再び巡り会えるときがくることを望んだ。
望んでしまった。
そのために彼女は再び肉体を得、心を得、命を得た。
その肉体、心、命は、すべてヴィシュタルの主たる獅子神皇のために捧げられるべきであり、彼のもののためにこそ、彼女は戦わなければならなかった。
「大陸小国家群の統一。それこそが陛下が切望し、ガンディアの臣民が熱狂した一大事業。だが、陛下は道半ばで夢を諦めざるを得なかった」
「世界大戦……」
「そう。ヴァシュタリア共同体、神聖ディール王国、ザイオン帝国……世にいう三大勢力による神々の代理戦争は、世界全土を巻き込み、小国家群はその舞台に選ばれた。血と死で紡がれ、結ばれる儀式の最終段階の舞台に」
世界大戦。最終戦争とも呼ばれる三大勢力が巻き起こした大戦争の真相については、ヴィシュタルたちほど知っているものもいないだろう。至高神ヴァシュタラの神子にして、同一存在であったヴァーラとの合一によって、彼は、神々とこの世界の関係の真相を知った。そして、神々が聖皇復活を企み、数百年に渡って紡ぎあげてきた儀式が完成すれば、世界が滅び去るということを理解した。故に、彼は至高神ヴァシュタラの計画を利用し、聖皇復活を阻止しようとしたのだ。
だが、彼と彼女たちの計画は、失敗に終わった。
いや、世界を滅亡から救うことはできたのだから、成功したといっても、いいのかもしれない。
しかし、世界は、粉々に打ち砕かれてしまった。
儀式の中心たる“約束の地”の直上に位置したガンディオンは根こそぎ消滅し、レオンガンド・レイ=ガンディアと名乗った男の夢は、この地上から消え去った。
「……一度果たせなかった野望を今度こそ実現しようというわけですか」
「どこに真意があるのかは、わからないけれどね」
ヴィシュタルは、結論を濁すようにして微笑んだ。かつて天使の微笑と讃えられた青年の笑顔は、いまはさらに澄み渡り、透き通ってさえいた。
その笑みを見るたびに彼女は胸を締め付けられるのだ。
彼は、常に己を責め続けている。
自分の失敗のせいであまりにも多くの命が失われたというのに、自分はこうして転生し、のうのうと生きていることをなんとも思わない彼ではないのだ。
そんな彼だからこそ、ミズトリスは、剣になろうと想ったのだし、こうして転生したのだ。
獅徒転生。
獅子神皇の手足たる使徒への転生は、人間から別種の存在への変容そのものであり、人間であったころのほとんどすべてとの決別ともいえた。