第二千百十六話 帝国へ
方舟は、空路、西ザイオン帝国領土へと向かう。
当初は海路を進むメリッサ・ノア号を頼りにする予定だったが、その予定は、マユリ神によって変更となった。
アレウテラスのひとびとに見送られながら、方舟が北ヴァシュタリア大陸を離れたのは、四月十五日のことだ。方舟は、船体から十二枚の白く美しく輝く翼を生やすなり、いともたやすく空へと浮かび上がって見せた。おそらく、見送りにきていたひとびとは大いに驚いただろうし、方舟に神々しささえ感じたかもしれない。方舟の動力は、神の力だ。光り輝く十二枚の翼は、神秘的であり、幻想的といってもよかった。
ある程度の高度まで浮上すると、メリッサ・ノア号の出航を待つこととなり、そのとき、セツナたちはマユリ神によって動力室に集められた。
方舟の動力室は、三層構造の下層中央に位置している。そこから方舟全体に動力を行き渡らせているのが、マユリ神であり、少年神マユラを背に負った少女神は、セツナたちを動力室に迎え入れるなり、得も言われぬ笑みを浮かべた。
動力室は、神威を動力へと変換する装置であるらしい水晶球を中心とする広い空間だ。水晶球は奇妙な形状の台座に置かれているのだが、その台座というのは船内各所に動力を供給するための機材であるらしい。方舟についてはなにも詳しくわかっておらず、マユリ神が感覚的に理解したものを説明された通りに受け取っているだけにすぎない。そもそも、どうやって神威を動力へと変換しているのかさえ、マユリ神にもわからないのだというのだ。おそらくは人知を超えた技術ではあろうが、そのうえで神の知恵さえも凌駕するものであり、人間がおおよそ手にしていいものではない、とマユリ神はいう。
『行き過ぎた力は身を滅ぼす。道理よな』
マユリ神がセツナの目を覗き込むようにしていった言葉は、いまも鮮明に覚えていた。
動力室は、いまいち材質のわからない金属質の壁に囲まれているが、それは方舟全体にいえることだ。セツナたちの自室もそうだし、庭園だって浴場だってそうだった。その謎の金属は、マユリ神いわく、神威が浸透しやすい金属であり、故に方舟に採用されたのだろうとのことだ。そして、だからこそ、マユリ神による構造改革が上手く行ったのだという。神は絶大な力を持つが、肉体を得た神は全知全能足り得ないのだ、と女神はいった。肉体を得たとき、知も能力も限られるのだ、と。
とはいえ、この世に生きとし生けるものとは次元そのものが違うといっていいくらいの力の持ち主であることは確かであり、マユリ神はそのことは謙遜しなかった。
「なによマユリん、改まっちゃって」
「集まってもらったのはほかでもない」
マユリ神は、少女のような初々しい唇を開くと、肉声で言葉を発した。頭の中に直接響く神の聲ではなく、音となって空気中に広がる声。マユリ神は、いつごろからかそのように声を発するようになったのだが、どうやらミリュウやエリナの影響のようだった。人間の希望たらんとする女神にとって、人間との触れ合いや交流ほど重要なものはなく、そのためにも肉声で話したほうが有用であると考えたのだ。
そういうマユリ神の考え方や行動のひとつひとつがセツナたちに歩み寄ろうというものであり、セツナも最初こそ疑惑の目を向けていたものの、マユリ神自体は信用してもいいものと考え始めていた。マユラ神に関しては信用ならないが、性格も性質もまったくの別物であるらしいマユリ神ならば、それに値する。そして、女神の力に頼らざるをえないのであれば、そのほうがセツナとしても気楽だった。
もちろん、いつ何時、なにが起きても即座に対応できるよう気構えだけはしておかなければならないものの、常に疑っているよりは信用しているほうがいい。精神的に、だれかを疑い続けるというのはしんどいものだ。
「見よ」
マユリ神は、四本腕のうちのひとつを掲げると、セツナたちから見て左側の壁を指差した。なんの変哲もない方舟の壁の手前、なにもない虚空に光が走ったかと想うと、なにかが浮かび上がる。極薄の長方形のなにか。それは虚空に滲み出すようにして出現すると、複数の奇妙な形状のなにかを示すようだった。
「ん?」
「これは……?」
「地図のようにも見えますが……いったい」
「見ての通り、地図だ」
レムの発言を受けて、マユリ神は少し満足したようにいった。地図。いわれてみれば、そのように見えなくもない。しかし、実体のあるものではなく、虚空に浮かぶ幻像――映像のようであり、その長方体に近づいたミリュウが無造作に伸ばした腕は何事もなく貫通した。だが、それで映像に乱れが生じることはなく、ミリュウが腕を戻すと瞬時に元に戻った。今度はエリナがミリュウの真似をするが、やはり問題はない。
「見ての通りって」
「ただの地図じゃないです!」
「そりゃあ、見りゃわかるだろ」
「むー」
ミリュウがなにやら不服そうに頬を膨らませてくるが、セツナはとりあわなかった。
「おまえたちが出かけている間、少々暇だったのでな。この船の中になにか面白いものはないかと、色々と調べていたのだよ。方舟は、神軍とやらが技術の粋を結集して作り上げた代物。神軍は、おまえたちの敵だ。敵の弱みのひとつでも見つけられれば、それに越したことはあるまい?」
「確かにね。さすがはマユリん」
ミリュウが感心すると、マユリ神は子供のように喜んだ。ミリュウたちとマユリ神の日々の交流については、セツナは詳しいことまでは知らない。しかし、彼女たちの馴れ馴れしさを見る限り、かなり仲が良くなっているということは伺い知ることができる。マユリ神は敵ではないのだから、いくらでも仲良くなってもらって構わないし、むしろそのほうが好都合ではあった。
「それで、出てきたのがこれってわけか」
「うむ。これが、この世の現状よ」
「この世の……」
「現状……」
マユリ神の言葉を反芻したセツナたちは、ひとまず、虚空に浮かぶ地図を凝視した。
地図の大半は青く塗り潰されているのだが、それがつまりはこの世界を分かつ大海原だろうことは明白だった。その上に無数の陸地が白く描かれている。
陸地よりも遥かに膨大な量を誇る海には、七つの大陸と無数の島々が浮かんでおり、どうやらそれらが元々ワーグラーン大陸だったもののようだ。しかしながら、この世界の地理に詳しくないセツナには、どこになにがあるのか、これではまるでさっぱりわからなかった。いや、ワーグラーン大陸に詳しいものですら、わかるまい。
“大破壊”によって大陸はばらばらに引き裂かれ、大海原がすべてを分け隔てた。かつてひとつに纏まっていたものがいまやなにもかも遠ざかり、離れ離れになってしまったのだ。それも、国のひとつひとつが切り分けられたというわけではない上、離れ方も一定ではないようだった。いくら大陸に詳しくとも、どこにどの国があるのか、把握するのは困難だろう。
「おまえたちがいう“大破壊”によって、この世界そのものといって過言ではなかったひとつの大地がばらばらに引き裂かれ、大海原によって分かたれた。そのことを示しているのだろう」
「これが北ヴァシュタリアね。ラムレス様に頂いた地図にそっくり」
そういってミリュウが指差したのは、世界図のもっとも北に位置する大地だ。見比べれば、七つの大陸で最大の規模のもののようであり、その中心やや左寄りに奇妙な光点があることに気づく。ほかの大陸や島々には見当たらないものだ。
「この奇妙な点はなんだ?」
「……リョハンの位置ね」
「リョハンの……ってことはあれか。神軍の侵攻目標が記されているってことか」
「なるほどねー。この方舟も確か、第二次防衛戦に参加してたんだものね?」
「ええ。そして、ケナンユースナル様が鹵獲なされたわ」
ラムレスの眷属筆頭たる飛竜ケナンユースナルは、その後も度々リョハンを訪れている。ラムレスの命令により、もし、神軍がリョハンを三度襲うようなことがあれば、眷属一同、力を合わせてこれの撃退に当たるという力強く頼もしい言葉を残していた。ファリアがミリュウを解任し、セツナの旅に同行できるよう配慮した理由のひとつがそれだ。ラムレスの眷属を戦力として期待できるのだ。特にケナンユースナルは、方舟を落とし、乗っていた神を撃退するという大金星を上げているほどの実力者だ。彼の協力を仰げるということは、リョハンの守りは十二分に硬いといえる。
無論、神軍が三度侵攻してきた場合、その戦力は過去二度に渡る侵攻以上のものとなるだろうし、そのためにも戦力の拡充を図らなければならないのだが、その準備は、リョハンにおいて着々と進んでいるらしい。故にこそ、ファリアまでもリョハンを離れても構わない、という判断がなされたのかもしれない。
「そして、これが方舟の現在地よ」
マユリ神の発言とともに光点がもうひとつ、北ヴァシュタリア大陸南方に出現した。こちらの光点は、目的地を示す光点とは形状が異なり、ひと目見て違いがわかるようになっていた。目的地と現在地を混同しないための神軍の配慮だろう。
「へえ」
「この地図を用いれば、おまえたちの長い旅も随分と楽になるのではないか?」
「まあ、この地図が正確ならな」
「そこを疑う必要はなかろう。なにせ、神軍には数多の神々がついているのだぞ? 神々が、“大破壊”の直後、まずなにをしたのかを考えてもみよ。彼らの多くは現状の把握に務めたはずだ。その情報が一点に集中すれば、正確無比な地図も出来上がろう」
「……つまりこの地図は正確無比なものってことね」
「ま、確かに神々の力を疑う必要はないか」
「じゃあじゃあ、この地図を利用すれば、西ザイオン帝国まですぐさま飛んでいけるってこと?」
「そういうことには、なるな」
「だったら、一足先に帝国に向かうのはどうなの?」
「それも一理あるな。西帝国は一日も早い戦力の到来を待ち望んでいるという話だし……そのために俺たちは協力するんだからな」
「将軍より先に到着するのもどうなの」
「将軍は俺たちを送り届けてくれたが、帝国船団を率いていた大総督は、俺たちとの契約を知らせるため、一足先に帝国領に戻っているんだ」
「あれは二月のことでございましたし、いまごろは帝国領土に帰り着かれているのではないか、と、リグフォード様もいっておられました」
「ということだ」
「でも、それならそれで将軍に話を通しておいたほうがいいわ。勝手に飛び去ったなら、約束を反故にしたんじゃないかって思われかねないわ」
「そのとおりだ」
セツナは、ファリアの言を受け入れると、たったひとりで方舟を降りた。無論、召喚武装メイルオブドーターの飛行能力を用いて、だ。
メリッサ・ノア号の甲板に降り立ったセツナは、すぐさま海軍士官によってリグフォード将軍の元に案内された。リグフォードはセツナの申し出を快諾し、手放しで喜んだ。リグフォードとしては、西帝国の様子が気になって仕方がなく、一日も早い帰国を望んでいたのだ。それもただ帰国するだけでは意味がない。必要なだけの戦力を船に乗せ、帰らなければならなかった。
そういう状況もあり、セツナたちが先行することは大いに喜ばしいことだった。
リグフォードから海図を手渡されたセツナは、すぐさま方舟に戻った。
海図の情報と方舟の地図を照らし合わせれば、西帝国本土まで迷うことなく飛行できるだろう。
また、海図を手渡す際、リグフォードはもうひとつ重要なものをセツナに預けている。帝国海軍の記章だ。うねる三重の波を描く記章は、帝国海軍の象徴そのものであり、セツナたちが先に帝国本土に辿り着いたとき、リグフォードらと接触したという証になるだろうとのことだった。リグフォード直筆の書簡も添えてある。
セツナは、マユリ神がその作業に当たる傍らで、逸る気持ちを抑えるのに必死にならなければならなかった。
西ザイオン帝国では、ニーウェが待っている。
元は同一存在であり、この世界におけるセツナといっても過言ではない人物だ。彼が助けを求めているというのであれば、手をかさないわけにはいかなかった。
西帝国ではどのような出来事が待ち受けているのか。
セツナは、そのことばかりを考えていた。
だから、というわけではないが。
不測の事態が起こることなど、一切考えていなかったのだ。