第二千百十二話 古代図書館(二)
「ひとつ、疑問があるんだけど、聞いていいかい?」
マリアは、古代図書館の黒々とした外観を見遣りながら、寒さに凍えることも忘れてアズマリアに問いかけた。夕闇の中に聳え立つ真っ黒な館は、一見して伏魔殿のような趣がある。どこがどう、というわけではないが、どうもそう思えるのだ。近づきがたく、重々しい空気が館全体を包み込んでいる。いまからその中に踏み込もうというのだが、勇気がいった。マリアは元来恐れ知らずな方だが、そんな彼女が尻込みするくらい、異様な感覚があったのだ。
「わたしに答えられることなら、なんでも聞くがいい」
「どうすればおのれは消えてくれるのじゃ?」
「アマラ」
マリアが腕の中の童女を睨むと、さすがの彼女も狼狽した。
「し、しかしのう……」
「そうさな……」
「答えるのかい!?」
マリアは、腕組みしているらしいアズマリアに愕然とした。冗談とも思えぬ反応だったからだ。
「目的を果たせば、わたしはこの世から消えさるだろうさ」
「その目的って?」
「セツナから聞いたことはなかったか?」
アズマリアがこちらを振り向き、アズマリアを一瞥した。金色に輝く目が、夕闇の中で異様な光を放っていた。
「わたしは、この世界を覆う理不尽を消し去るため、ここにあるのだ」
「理不尽……」
「それがなんなのか、ようやくわかった。世界に破滅的な楔を打ち込んだあの日のことを感謝せねばならんのは、皮肉なことだがな」
アズマリアはひとり納得するようにいったが、マリアたちにはなんのことかさっぱりだった。アマラと顔を見合わせ、互いに頭を振る。
「ともかく、中へ入ろう。話はそれからのほうがいいだろう。君らには、この寒さは少々堪えるようだ」
「少々どころじゃないんだがね」
「そ、そうじゃぞ、寒すぎて凍りつきそうじゃ!」
「精霊が氷漬けになれば、少しは静かになりそうだが」
「おのれ!」
「うるさいのがいいんだろ?」
「わたしにはわからん趣向だが、まあ、いい。些細な事だ」
アズマリアは、マリアの言を素直に受け取ったのか、肩を竦めて見せると、そのまま図書館の入り口に近づいた。マリアは、アマラを抱きかかえたままアズマリアの後を追う。
結晶化した森の奥深く。人っ子一人いないのは当然のこととして、人間以外の動物や虫といった生物の気配さえない。結晶化とは、死も同然だ。死の森。死滅した森に生きるものなどいるはずもなく、鳥獣が紛れ込むようなこともなければ、住処にすることさえありえない。皇魔でさえ、結晶化した森に住もうなどとはしないだろう。人間ならばなおさらだ。
そんな森の真っ只中に出現した図書館が手付かずのまま放置されていたとしてもなんら不思議ではなかった。
ここがリョハンの近郊ならば周辺領域調査によって発見され、内部もくまなく調べ上げられただろうが、アズマリアの口ぶりから、どうやらここはリョハンの近郊ではないことがわかっている。リョハンの目と鼻の先ならば、マリアにそういったはずだ。リョハンにはマリアの知り合いが多い。リョハンで知り合ったひとたちもいる。リョハンが近くにあるというだけで安心感は違うものだ。アズマリアのような周到な人物がそのことを伝え忘れるはずもない。
同じヴァシュタリア共同体の領土だった地域とはいえ、リョハンの存在する大陸とはまったく異なる大陸にいるのかもしれないのだ。
ヴァシュタリアの勢力圏は、みっつの大陸に分かれたという。リョハンは、そのひとつ、中央ヴァシュタリアとでもいうべき大陸にあるのだ。現在地が東か西のヴァシュタリア大陸ならば、リョハンは海を隔てた彼方にあるということだ。
マリアがそんなことを考えながらアズマリアの後に続くと、図書館の巨大な扉が音を立てて開いた。とてつもなく巨大な扉だった。それこそ、巨人の身の丈に合わせたのではないかと想うほどであり、図書館自体が天を衝くほどに巨大なのもそのためなのかもしれない、と、マリアは想像した。
古代の図書館なのだ。
遥か古代、巨人が栄えていた時代に作られたものなのかもしれない。建築様式がまったく見慣れぬものだった。まずヴァシュタリア様式ではなかったし、リョハンに見られるようなものでもない。
アズマリアに続いて図書館に足を踏み入れるも、なにも見えないくらいの真っ暗闇であり、アマラがマリアの首を強く抱きしめるくらいだった。
「なにも見えぬぞ」
「案ずるな」
アズマリアの声が少し離れたところから聞こえたかと想うと、閃光がマリアの目の前に走った。まるで稲光のように感じたのは、頭上から光が降り注いだからだろう。驚く間もなく、それがこの図書館の照明器具であることがわかる。魔晶灯のようなものに違いない。魔晶灯の歴史というのは浅く、ここ百年程度のものだが、似たようなものがはるか昔にあったとしてもなんら不思議ではない。魔晶石自体は聖皇の時代からあったというのだ。
照明器具は、真っ黒な天井に備え付けられた半透明の器の中にあるようだった。そこから投射される光は、魔晶灯のような冷ややかさはなく、かといってぎらぎらと眩しくもない。図書館の雰囲気にはちょうどいい、とでもいうべき光だった。
その光が照らし出したのは、黒塗りの壁と天井、床に包まれた一室だ。柱も黒く塗り潰されており、通りでなにも見えないはずだと想った。夕闇と合わさり、並の視力では柱と暗闇を判別することはできないだろう。
図書館の玄関なのだろう。受付のようなものもあった。それは、玄関扉とは比べ物にならないほど小さく、人間用に作られたものに見受けられる。しかし、奥へと続く扉は、玄関扉と同様の大きさであり、内部も同じような広さに作られているに違いない。
「明るくはなったが、なにもかも真っ黒じゃのう」
「奥へ行こう」
「む……」
アマラはアズマリアに無視されたとでも想ったのか、彼女の背中を睨みつけたが、マリアも取り合わなかった。アマラのことをいちいち気にしていては、話が進まない。
奥へと続く扉は、みっつあり、巨人用とでもいうべき巨大な扉がひとつ、人間大の扉がふたつあった。人間は、その人間大の扉を用いたのか、どうか。
アズマリアが開いたのは、巨大な方の扉だ。魔人は重量もありそうな黒い扉を軽々と開けると、マリアたちが潜り抜けるのを待った。潜り抜けた先は、とてつもなく広大な空間になっていた。古代図書館の外観の途方もない巨大さがそのまま現れている、とでもいうべきか。半球形の天井の頂点が常人の視力では見ることもできないくらいの距離感があるのだ。そして、それが実感できるくらいの光量が、広大な空間を満たしている。
無数の照明器具が壁や天井のそこかしこに設置され、そのすべてが光を投じている。それら膨大な量の光によって照らし出されているのは、玄関と同じく、真っ黒に塗りつぶされた大広間であり、その円形の室内には膨大な量の本棚が立ち並んでおり、それら蔵書量たるや天文学的な数字になるのではないかと想うほどだった。
本棚で作り上げられた迷宮とでもいうべき構造をしているのだが、その本棚と本棚でできた通路そのものは広い。巨人用の如き大扉の幅に合わせてあり、やはりこの図書館が利用されていた当時には巨人と思しきものたちが存在していたのだろうと想像させた。しかしながら、本棚に収められた書物はいずれも人間の手に収まる程度の大きさのものばかりであり、巨人の手にはあまりにも小さすぎるようだった。
ともかくもどこを見ても本棚ばかりであり、広大な空間を何層にも渡って書棚が並び、視界を埋め尽くす様は圧巻というほかなく、マリアはしばし、呆然とした。この中から目当ての書物を探すなど、至難の業だ。いやそもそも、共通語で記された書物なのかどうかすら不明だ。古代図書館というくらいだ。古代語で記された書物ばかりではないのか。
そんなことを漠然と考えていると、
「先もいったが、この図書館は、約五百年前、聖皇によって封印されたものだ」
「……なんでまた?」
「ここに集積された情報の悪用を恐れたのだろう」
「悪用?」
「たとえば、ここの情報を元に聖皇への対抗手段が確立されるようなことだ」
「神々さえも召喚するほどの人物がそんなことを気にするかねえ」
「それくらい慎重だからこそ、あれは聖皇になれたのだ」
「……そういうもんかねえ」
「もっとも、信を置いた腹心たちに裏切られ、見限られた末に討ち果たされたのだから、その慎重さとやらも大したものではないがな。現に、わたしの力で解かれるような封印しか施されていなかった。聖皇がその気になれば、もっと強力な封印を結ぶこともできたはずだが、そうではなかったのだ」
アズマリアが頭を振る。
「まあともかく、厳重に封印された場所だ。中になにがあるかわかったものではない。気をつけるといい」
「気をつけるったって、ねえ」
「気をつけるもなにも、その必要もなさそうじゃが」
アマラがマリアの腕の中から飛び降りると、足でその場を踏みつけるようにした。床の感触を確かめたのだろう。そんな彼女の仕草のひとつひとつが可憐なのだから、たまらない。アマラは、床の感触になにやら納得すると、そそくさと通路の右端に並び立つ本棚へと駆け寄っていった。彼女は、全力でマリアの助力をしてくれているのだ。
「なにがあるかわからないといったのだが」
アズマリアが肩を竦めたのは、アマラの緊張感のない様子を見て、だろう。
「わたしも、この図書館についての記憶があやふやでな」
「記憶?」
「多少、記憶にあるからこそ、封印を解くことができたのだ。そして、ここならば君の探し求めるものも見つかるやもしれぬと考えた。わたしとしては、君の研究が実を結び、白化症のち療法が確立されることは、セツナのことを抜きにしても歓迎したいところなのだ」
「つまりあたしたちに期待しているってことだね?」
「そういうことだ。だが、くれぐれも無理はせぬことだ。いくら君が世界有数の医術師とはいえ、その体は無理の利くようにはできていまい」
「……忠告、感謝するよ」
マリアは、手袋に包んだ己の左手を一瞥した。二ヶ月ほど前、突如として小指の付け根に発症したそれは、いまも彼女の意思を嘲笑うように息づいている。もはやその部分だけが彼女の肉体にあって、彼女のものではない。別種の生命、別種の存在がそこに宿り、日々、彼女の肉体を蝕もうと画策している。
白化症の進行速度というのは、必ずしも一定ではない。症状を見て判断することもできないのだ。発症当時とほとんど変化のない現在だが、明日になれば左手全体が白く蝕まれている可能性だって、あった。
だから、マリアは急がなくてはならなかった。
一日でも早く、いや、一分一秒でも早く白化症の治療法を確立しなければならない。
でなければ、この生命が無駄に終わる。