第二千百十話 魔人の誘い(四)
マリアたちの準備は、ただ荷物を用意するだけには留まらず、そこから半日あまりの時間を費やすことになった。
当然だろう。
マリアは、ベノアガルド政府、つまり騎士団の保護下に置かれている。マリアが頼んだことではないとはいえ、騎士団は、マリアを最高峰の要人として遇しているのだ。
いくら理由があり、急ぎの用事があるからといってなんの事情も話さず姿を消せば、ベノアガルド中が大騒ぎになるだろう。まず真っ先に迷惑を被るのは、マリアの身辺警護について回ってくれている騎士たちであり、彼らは、マリア失踪事件の責任を問われ、処分を受けること間違いない。マリアの身辺警護を騎士団から与えられた仕事以上の熱心さで請け負ってくれている彼らに迷惑はかけたくなかったし、彼らの直属の上司であるフロード・ザン=エステバンの名誉を傷つけたくもなかった。
なにより、マリアとアマラがなにもいわず姿を消せば、ただごとならぬ大事件として、騎士団が取り扱うこと間違いなく、その影響は護衛の騎士だけには止まらないに違いない。
騎士団がマリアを保護したのは、マリアがセツナの知人であり、かつての部下だったことに由来する。騎士団にとってそれだけセツナの存在は大きく、影響力があるということであり、それは、彼がベノアガルドの諸々の問題を解決に導き、名誉騎士と表彰されたことからも伺いしれる。
そのセツナ本人が、騎士団長オズフェルト・ザン=ウォードをはじめとする騎士団幹部にマリアの身の回りの世話について、強く口添えしたということを聞いているのだ。マリアがなんの文言も残さず失踪すれば、彼らは騎士道にももとる行いとして恥じ入るだろうし、セツナに申し訳が立たないとして、なんらかの行動にでる可能性があった。
マリアには、彼らの厚意に感謝こそすれ、迷惑だなどと思ったこともなければ、彼らの思いやりを踏みにじるようなことはしたくもなかった。ましてや自分のために護衛の騎士たちが処罰されるようなことなど、あっていいはずがない。
そのことをアズマリアに伝えると、魔人は薄く笑っただけだった。人間らしさのかけらもない魔人には、マリアの心情などわかるはずもないということだろう。
マリアは、護衛の騎士に事情を伝え、すぐさま仮設騎士団本部へと足を向けた。本部では騎士団長オズフェルト・ザン=ウォードみずからが応対してくれ、マリアの話に耳を傾けてくれた。
「なるほど。お話はよくわかりました」
執務室にてマリアとの会見に応じたオズフェルトは、話を聞くなり、穏やかな笑みを浮かべた。清廉潔白という言葉がこれほど似合う人間もいないのではないか、と、マリアは彼ら十三騎士と話をするたびに想うのだ。野心はなく、欲もない。騎士団の体面上、それなりに豪華な装束こそ身につけているとはいえ、生活は質素で、騎士団騎士一同、倹約に励んでいる。騎士団はその資金の大半をベノアガルドのために費やしており、ベノア城跡地に建設中の騎士団の新本部は、王城とは比べ物にならないほど簡素なものになるという話も聞いていた。
だからといって、無欲ではない。
彼らベノアガルド騎士団の騎士たちは、だれもが力を欲している。
この荒れ果て、混乱の極みにある世界を正し、救いをもたらす力を、だ。
献身的かつ自己犠牲的な価値観の持ち主だけが騎士団騎士になれる、というフロード・ザン=エステバンの話は真実に近いのだろう。
だからこそ、マリアはベノアが好きだったし、騎士団騎士に悪人はいないと理解していた。
「先生の研究は、ベノアガルドのみならず、世界中、ありとあらゆる国と地域、ひとびとが求めてやまないものです。卓越した手腕を誇る医師としてベノアに留まり続けて欲しいのは本音ですが、ベノアに留まっていては白化症の研究が進まないというのもまた、事実。大医術院が全力を上げて先生に協力したところで、同じことでしょう」
オズフェルトは、穏やかに、しかし残念そうに告げた。それは事実だ。ベノアの大医術院の医師たちは、皆、博識で技量もあり、献身的でもある。人柄も良好だ。彼らとの医師としての日々は、マリアをベノアを第三の故郷と思わせるほどのものだった。だが、彼らといくら力を合わせ、白化症の研究を続けたところ埒が明かないことは明白だった。なぜならば、ベノアに辿り着いてから、いや、それ以前から二年半近くに渡って、マリアは白化症の研究を続けているのだ。それなのに一向に前進していない。それもこれも、白化症が神秘に包まれているからであり、その謎を紐解くには情報が足りないからだ。ありとあらゆる研究を行い、白化症患者に被験者になってもらったことさえあったが、それだけでは足りないのだ。
もっと、情報を。
そう切望していたとき、アズマリアが現れ、太古に失われた図書館への道を示してくれた。渡りに船とはまさにこのことであり、マリアは、内心歓喜していた。図書館に白化症の情報があるとは限らないが、なかったとしても、決して無駄にはなるまい。時間の許す限り調べ尽くし、知識を積み上げていけば、マリアの医術はさらに磨き上げられる。
それが発揮できる期間は限られるだろうが。
だからこそ、急がなければならない。
「済まないね、団長閣下。あたしとしては、ベノアを第三の故郷と想うくらい気に入っていたんだけどさ」
第一の故郷はガンディオンであり、第二の故郷はリョハンだ。リョハンで生活した期間というのは短いが、濃密な期間だったのは間違いない。なにより、あそこにはいまや数少ない友人知人たちが住んでいる。それだけで懐かしい空気が生まれるものだ。
「研究を進めないことにはね」
白化症の治療法さえ確立することができれば、それだけで世界を取り巻く状況は一変するのだ。少なくとも、白化症の発症によって絶望する必要がなくなる。現状、治療法の一切存在しない白化症は、不治の病であり、しかも、発症したが最後、化物に成り果てて周囲に被害を撒き散らすということもあって、絶望の根源となっていた。発症しただけで絶望し、己の命を絶つものも少なくはない。
「先生の研究が少しでも進展すること、このベノアの地より願っていますよ」
「ありがとう。もし、研究の成果が出たならば、必ずベノアにももたらすからさ」
それで、感謝の印としたい。
マリアは心の底からそう想っていた。
オズフェルトは、マリアの旅路に護衛の手配をしようとしたが、固辞した。アズマリア=アルテマックスが護衛を買って出てくれたことを告げると、彼は納得したようだったが、同時に懸念も抱いたようだ。アズマリアは、先代騎士団長フェイルリング・ザン=クリュースと密談を交わす間柄だったが、オズフェルトたちは決して信用してはいないという。アズマリアが害をなすとは考えにくいものの、用心したほうがいいという忠告は、マリアは素直に受け取った。マリアとしても、信用しすぎるつもりはないのだ。
マリアが騎士団本部を後にすると、ルヴェリス・ザン=フィンライトとシャノア=フィンライトが待ち受けていた。ルヴェリスの屋敷はセツナがベノア滞在中利用していたこともあるが、それ以前にシャノアのことでマリアと関わりが深かった。神人と化した我が子を目の前で失ったことで、自分さえも見失っていたシャノアの治療のため、何度となくフィンライト邸に赴いたものだ。もっとも、シャノアがこうして自分の足で立って歩けるようになったのは、マリアの治療の成果ではなく、ルヴェリスの献身的な愛の賜であることは明白だ。そのため、ふたりがわざわざ姿を見せるなど想像もできず、マリアは驚くほかなかった。
「話は聞いたわ」
「ベノアを離れられるそうで」
どちらが女なのかわからない、というのは言い過ぎにしても、女物の衣服を着こなすルヴェリスの美貌には、彼の妻であるシャノアの凛然とした容貌も霞もうというものだ。
「こっちにも事情があってね」
「研究のため、でしょう?」
ルヴェリスが当然といった様子で、聞いてきた。マリアは片目を閉じて笑った。
「まあ、ね」
「白化症の治療法が確立されれば、いまもなお苦しむ多くのひとびとにとって福音となること間違いありませんね」
「そうだろうとも。だからこそ、あたしが気張らなくちゃならないのさ」
「先生おひとりで?」
「うちもおるぞ!」
アマラが精一杯背を伸ばし、ぴょんぴょん飛び跳ねながら主張する。マリアの腰の辺りにも届かない身の丈の童女は、普通にしていれば大人たちの視界に入らないのだ。
「そのとおりさ。あたしはひとりじゃないよ。アマラがいる。アマラの協力がなければ、あたしはここまで来ることだってできなかったんだ」
「えっへん!」
「それは心強い。しかし、護衛が必要でしょう?」
「いや、護衛に関しても、遠慮願った」
「あてがあると?」
「ああ、だから心配しなさんな。いずれ研究成果を携えて、ベノアに戻ってくるよ」
「その日を期待して、待っていましょう」
「先生、アマラちゃん、ご自愛の程を」
「ありがとう、ルヴェリス殿、シャノア殿」
「ふたりも元気で仲良くするのじゃぞ」
「ええ、わかっているわ」
「仲の良さならばわたしどもに勝る夫婦はいませんよ」
シャノアが気丈さを隠しきれない様子で告げると、隣のルヴェリスが少しばかり驚いた顔をした。
シャノアが己を取り戻して、数ヶ月が経過した。歩くことすらままならなかった彼女は、持ち前の気の強さで萎えた足を鍛え直し、いまや騎士団騎士にも匹敵するほどの身体能力を取り戻していた。以前の彼女がまるで悪い夢であったかのような変化は、周囲の人間を驚かせるとともに、ルヴェリスの惜しみない愛情の賜であるとだれもが噂し、夫婦仲を羨んだ。いまではベノア一の夫婦であるとの評判だ。当初はその評判を恥ずかしがっていたシャノアだが、いまや開き直ってみずから喧伝しているのだから、面白いものだ。
マリアは、白化症によって引き裂かれた夫婦仲がこうして元に戻ったことを心より喜んでいたし、白化症の治療法の研究と確立、それによる白化症の根絶を成し遂げようと心に決めた。もし、白化症なるものがなければ、ルヴェリスとシャノアはいまでもその子供とともに仲睦まじく暮らしていただろう。白化症が引き裂いた絆は、あまりにも多い。
マリアは、アマラとともにルヴェリス、シャノア夫妻に別れの挨拶をすると、大医術院に戻った。医師たち、患者たちへの挨拶回りを済ませた後、マリアがアマラとともに開発した新薬の製法書を大医術院に預けた。
そして、ようやく研究室に帰り着いたのは、日も暮れる頃合いだった。
「ようやく戻ってきたか。待ちくたびれたぞ」
などといいながらも、アズマリア=アルテマックスは、武装召喚術を唱え、マリアたちの前に木製の門を出現させた。
古代図書館への道が再び開かれたのだ。




