第二百十話 終戦景色
後方の部隊がエイス=カザーンを討ち取ったという報告が届き、その事実を敵部隊に知らしめると、敵兵は一様に戦意を失ったようだった。
彼らは、翼将ハーレン=ケノックよりも、エイスとかいう老人のほうに心服していたのだろう。だからこそ、この無謀ともいえる戦いにも応じ、その身を投じたに違いないのだが。
「後背を衝かれたようですね」
報告の直後、エリウス=ログナーが話しかけてきたのは、当たり前の推測を確認するためだったのだろう。後方に展開していたガンディアの部隊がエイスを討ったということは、それ以外には考えられない。エイスは、マルウェールの複雑な地形を上手く利用して移動し、こちらの後方に出たのだ。後方に指揮官がいるとでも思ったに違いない。実際、後方にはガンディア方面軍の軍団長であるロック=フォックスがいたのだが、彼は北進軍全体でいえば副将のようなものだ。彼を討ったところで戦況は微塵も動かなかっただろう。レノも同じだが。
「ですが、ロック軍団長が上手く対処したようで」
「ロック軍団長は腕も確かなのですね」
「そのようです」
レノは、エリウスの発言を否定しなかった。
ロック=フォックスは、レノが知る限り、ガンディア人の中では物分かりのいい人物だと思える。話をしていても、こちらの機嫌を損ねないように、常に気を使っているのがわかる。軍議の際には、周囲への気遣いのあまり、はためにも気の毒なほど緊張しているように見えるのだが、それが彼の人間性というものなのだろう。この北進軍での行軍中、彼と知り合えたのは、レノ=ギルバースにとっては大きな収穫だった。ログナー方面軍の軍団長とガンディア方面軍の軍団長だ。普段、持ち場が遠く離れているということもあり、こういう機会でもなければ、知り合うこともなかったのではないか。いや、面識はあったかもしれないが、長々と語り合うということはなかったに違いない。ただでさえ、互いに軍団長としての仕事に忙殺される日々を送っているのだ。軍団長同士の交流のために時間を取ることなどできるはずもない。
ガンディア人の軍団長に知遇を得ることができたのは、レノのこれからの人生において大いに役立つだろう。彼はこれから先、ガンディアでのし上がらなければならない。軍団長以上の立場となると、将軍であろう。右眼将軍の副将を目指すことになる。いずれは右眼将軍の座に上り詰めるのが、レノのいまの目標だった。
大将軍は、おそらく、ログナー人ではなれないだろう。レオンガンド・レイ=ガンディアがいくら実力主義者であっても、彼はガンディア人であり、ガンディアの中枢を構成するのはガンディア人ばかりだ。王の腹心たちも、大将軍も、王宮関係者も、ほぼすべてがガンディア人といっていい。それがレオンガンドの限界なのだ、などというべきではない。国の中枢に他国人を近づけることほど危ういものはない。たとえその国が既に征服下にあり、もはや国としては滅びていたとしても、なにを仕出かすのかわかったものではない。遥か将来、ログナー人が完全にガンディア人として同化していたのなら、そのときにはガンディアの中枢にも関与できるようになるのだろう。が、それはもはやログナー人などとは呼べぬ存在に違いない。
レノは、歴としたログナー人だ。ギルバース家の血を引く人間であり、その家名は、ログナー方面軍の軍団長の中でも最高峰といってもいい。もっとも、ジオ=ギルバースの腹違いの弟という忌まわしい触れ込みは、一時期、彼の立場を危ういものにしたこともあった。異母兄ジオは大のアスタル嫌いで有名であり、アスタル=ラナディースの反乱後、反ラナディース派と称する連中が決起した際には、ジオ将軍の仇討ちをしましょう、などと声をかけられて迷惑千万だったものだ。ジオの敗死の原因をアスタルに押し付けるなど、どう考えてもおかしいのだが、それがわからない連中だったのだろう。
挙句、彼まで反ラナディース派の烙印を押されてしまった。ログナー末期、アスタル=ラナディースやその周囲との関係がぎくしゃくしたのは、第三者による勘違いが原因なのだ。ログナーがガンディアに併呑された後ではあったが、関係は修復できたはずだ。事実、レノは彼女によって軍団長に選ばれている。彼女の心証が悪いままだったら選出されていなかった可能性も大いにある、アスタルも人間だ。人間とは、感情の生き物なのだ。どれだけ厳正に審査をしていたとしても、いや、審査が厳正であればあるほど、最後のひと押しは好悪の情だろう。そういう意味で、彼はアスタルとの間にあったのであろうわだかまりが解消されたことにほっとしていた。
彼が軍団長として、この戦いが終わった景色を眺めることができるのは、アスタルが軍団長のひとりとしてレノを選出してくれたからに他ならない。でなければ、部隊長か小隊長で参戦していた可能性が高く、最悪の場合、一兵卒として戦場を駆けずり回っていたかもしれない。
レノ=ギルバースは、そんなことを考えながら、エリウス=ログナーとともに終戦後の市街を巡回していた。勝利が確定し、戦後の処理が始まっている。敵兵や自軍兵士の死体の処理、負傷兵の搬送などに兵士たちは忙しそうだ。だれもかれもが走り回っている。休んでいるものもいないではないが、軍団長みずから咎め立てる必要はないだろう。
勝利の感慨は確かにあった。圧倒的な数に物を言わせた、戦術もなにもあったものではない戦いだったが、こちらの被害はきわめて少なく済んだのだ。負傷者事態少なく、死者も数えるほどしか出ていないようだ。達成感があって当然だろう。戦功を上げることのできた兵士たちの喜ぶ顔が、自分のことのように嬉しい。
彼自身も、剣を取って戦った。エリウスに触発されてしまったからだが、レノの戦果は敵兵士三人と部隊長ひとりだ。一兵卒の戦果ならば上々だろうが、軍団長に求められるものではないのは間違いない。
エリウスは、敵兵を七人ほど殺したようだが、レノとの合流以降、みずから剣を振るうことはなかった。彼は自分の立場、役目を理解したのだというようなことをレノにいい、それがどういったものなのか、レノにもすぐにわかった。エリウス=ログナーは、その名の通りログナー家の人間であり、現当主だ。つい二月前、ガンディアに落とされる寸前のログナーで王位を継ぎ、最後の王としてログナーの終焉を看取った人物でもある。彼は戦後、ガンディアに貴族として迎え入れられたが、ログナー人にとっては王家の人間で在り続けている。いまでのその影響力は強く、レノを筆頭に多くの軍人が彼を慕い、敬っているのだ。つまり、エリウスの立場、役目とは、その信望を利用するということだ。
エリウスは、ログナー人の兵士たちを鼓舞して回ったのだ。前線だけではなく、市街地に散った部隊の間を駆け回り、戦果を上げたものは褒め称え、負傷したものには声をかけ、そのようにしてログナー方面軍全体の士気を上げに上げた。攻撃は俄然苛烈になり、防御もより強固になった。
この圧倒的勝利の裏には、エリウスの目に見えない活躍もあったのだ。
レノが自分をログナー人だと認識したのは、エリウスの鼓舞によって昂揚した自分がいたからだ。魂にまで刻み込まれたログナー王家への忠誠心は、ログナーという国がこの地上から消え去ったいまでも、強く残っている。きっと、レノが死ぬまで消えないのだろう。そして、子や孫にも伝えようとするのかもしれない。そうやって、思いは受け継がれていくものだ。
「無事に終わったのはよかったですね」
「ええ。一時はどうなるかと」
レノがいったのは、エリウスの特攻のことだ。騎馬のまま突撃し、手痛い迎撃を受けたエリウスが敵陣に消えたときは、レノはこの世の終わりかと思った。彼を失えば、ログナー軍人の士気は一時的に最高潮に達しただろうが、それは士気というよりも怒りに近い。そして、戦いが終われば急激に下がり、落ち続ける。ガンディア陣との折り合いも悪くなっていったかもしれない。ログナー王家の影響力とはそれほどまでに凄まじいものであり、だからこそ、彼の鼓舞で戦意も向上したのだ。
エリウスの負傷が、左耳の耳たぶを損傷するだけで済んで本当によかった。重傷でも負っていたらと考えるだけで背筋が凍る。レノは、エリウスの負傷の責任を追求されただろうし、それを否定することもできない状況だった。生存が確認できたとき、彼は心の底から喜び、悲鳴を上げたのだ。
「ははは。明らかな失態でしたね。死にかけました」
「笑いながらいうことじゃありませんよ。エリウス様は大事なお方です。どうか、身の安全には細心の注意を払っていただきたい。我々も、善処しますが……」
レノは、今後の戦いではエリウスは絶対に前線に出させないと心に決めた。出すのなら、護衛として精鋭をつけるべきだろう。が、後方に置いておくのが一番なのは間違いない。もう二度と、あのような気分を味わいたくはなかった。
空は、赤く染まりかけている。