第二千百七話 魔人の誘い(一)
ベノアは、平穏そのものの日々が続いていた。
ベノアガルドを襲った最悪の事態は、ひとりの英雄の到来によって解決に至った。英雄は、ベノアガルドの歴史上数えるほどしかいない名誉騎士に列せられ、ベノアガルドの騎士のみならず、国民からも広く尊崇を受けるようになった。だれもが名誉騎士を褒めそやし、彼が遠く離れた旅の目的地でも英雄譚を繰り広げているだろうと噂しあった。
そのことは、彼女の研究室を訪れる医師や研究員の口からも聞いたし、彼女が自宅から医術院に向かう道中にも、よく聞いた。そういった話を耳にするたび、彼女は顔をほころばせざるを得なかったし、そのたびに彼女の精霊に茶々を入れられるのも致し方のないことだと想った。
名誉騎士セツナ=カミヤがベノアを発ち、既に二ヶ月以上のときが流れている。
マリア=スコールは、セツナがいなくなったことの寂しさをいまさらのように実感しながら、毎日、医術院での職務と研究に忙殺されていた。
心休まるときといえば、医師としての仕事を終え、研究室に戻ったときくらいのものだ。研究室に戻れば、まず、お茶を淹れる。湯気とともに漂う香りが彼女の疲れきった身も心も癒やしてくれる。お茶の葉は、いつごろからか常に彼女とともにいる精霊アマラが厳選したものであり、その効能たるや凄まじいものがあった。伊達に草花の精霊を名乗るだけのことはない。
実際、アマラの草花の知識が、マリアの研究に大いに役立っていた。もっとも、マリアの研究目的とはまったく異なる成果の上で、だが。
マリアの研究目的は白化症の治療であって、痛み止めや傷薬の研究開発は二の次なのだ。とはいっても、アマラのおかげで完成した新薬の数々が役に立たないはずもなく、現在、ベノアの大医術院においてマリアがそれなりの地位を保っていられるのもすべてアマラのおかげといってよかった。
そのアマラは、研究室の左端に配置した特等席に腰を落ち着けると、足をぶらぶらさせてこちらを眺めていた。花の玉座と銘打たれた椅子は、彼女が選び抜いた季節の花に彩られており、その華やかさにはつい目を細めたくなるほどだし、かぐわしさにはうっとりする。つい研究室で寝入ってしまうことがあるのは、そのためもあるだろう。
草花の精霊アマラは、マリアの心を優しく包み込む光のようなものといっても言い過ぎではあるまい。
「のう、マリアよ」
「なんだい?」
「セツナはいまごろ目的を果たせておるかのう?」
「どうだろうね……あのひとのことだから、必ずやリョハンに辿り着き、ファリアやミリュウたちと合流できると信じているけどさ、そう簡単なことじゃあないからね」
「世界はばらばらになってしもうたしのう」
アマラが残念そうにいった。以前のまま地続きならば、ただ北を目指せばよかった。ただひたすら北を目指して突き進んでいけば、いずれはリョハン近郊に至ることができたはずだ。だが、世界は“大破壊”によってばらばらに引き裂かれた。それまでだれも見たことがなかったといっていい、大海原が大地と大地を分け隔て、かつてあったはずの繋がりは見事なまでにぶったぎられたのだ。もはや、かつてのような繋がりを求めることはできない。
世界は、海よって隔絶されてしまったのだ。
「でも、あたしはあのひとを信じているよ」
「うちもじゃ!」
威勢よくうなずくなり、花の玉座から飛び降りたアマラは、その勢いのままマリアに駆け寄ってきた。そしてマリアの膝の上に座り込んでくる。
「なんだい?」
「やはりここが落ち着くのじゃな」
「そうなのかい?」
「うむ」
そういい切るアマラのあまりの力強さに、マリアはなんともいえない顔になった。アマラの体重は極めて軽い。風が吹けば飛んでいってしまうのではないかと想うほどの軽さは、彼女が人間ではなく、精霊であるということの証左なのかもしれないが、それにしても、軽い。故に彼女の太ももを椅子代わりにされたとしても、なんら問題はなかった。それどころか、マリアにとってもそうやってそばに居てくれる彼女の存在は極めて大きく、彼女は茶器を机に置くと、アマラの華奢な体をそっと抱きしめた。
「なんじゃ?」
「なんでもないよ。ただ、こうしていたいだけさ」
「そうか」
アマラは、それ以上、なにもいわなかった。
そのまま、しばらくときが過ぎた。
どれくらい時間が経過したころだろう。
マリアがアマラを抱きしめたままうつらうつらとしている頃合いだった。突如として異様な音が聞こえたかと想うと、背後に気配がした。マリアは、はっと目を開くなり、アマラを抱きかかえて椅子から飛び降りるようにして、背後を振り返った。すると、研究室の真っ只中に異様な形状の門が出現しており、マリアの意識は急速に覚醒を促された。警戒心が電流のごとく眠りかけた意識を叩き起こしたのだ。
「なんだい? いったい……」
「なんなのじゃ?」
マリアの腕の中でアマラが寝ぼけ眼をこする。
マリアは、彼女を強く抱きしめたまま、後ずさりして椅子を蹴倒した。門は、マリアの身の丈以上に高く、また横幅があった。門柱には異形の髑髏をあしらっており、門扉にも奇妙な紋様が描かれている。ひと目見て、警戒するべきであるといっているようなものであり、彼女は、研究室の出入り口に目をやった。研究室の出入り口はふたつある。ひとつは、医術院別館の館内へ通じる扉であり、もうひとつは、彼女の研究室から直接外へ出ることのできる通用口だ。以前の研究室には通用口はなかったが、先の事変を重く見た騎士団は、医術院の各所に外部との通用口を設けさせたのだ。
「のう、マリア。あれはいったいなんなのじゃ?」
「さて……ね。ただごとじゃあないのは確かだけど」
「むう。なれば、いますぐに騎士を呼べばよいのじゃ」
「そうしたいのもやまやまなんだけどね……」
アマラのいうとおりではあった。マリアには、護衛の騎士がついている。職務の真っ只中であろうと、研究室にこもっての研究中であろうと、自宅で休んでいるときであろうと、彼女の身辺を警護するため、騎士団騎士が常に見守ってくれていた。騎士団は、マリアをまるでベノアガルド最大の要人であるかのように丁重に扱っているのだ。彼女の身の安全にとってこれほど頼もしいこともない反面、少々、息苦しく感じないこともないではない。とはいえ、騎士団騎士の警護のおかげで安心した日々を送ることができているのは疑いようのない事実であり、そのことには感謝していた。
いまも、研究室のすぐ外に待機しているはずであり、マリアが一声呼べば間髪入れず飛び込んできてくれるだろう。それは極めてありがたいことだ。たとえば、マリアに万が一の事態が起きた場合、すぐさま駆けつけ、処分してくれるはずだからだ。それにより、心置きなく研究や職務に集中できるのだ。
そうはいうものの、この度は、どういうわけか護衛の騎士を呼ぶ気にならなかった。
異様な門はマリアに警戒させたが、同時に、彼女にあることを思い出させたのだ。
門を召喚武装とし、世界中を飛び回る武装召喚師の話だ。魔人とも恐れられる武装召喚術の始祖であり、彼女が親愛するセツナをこの世界に召喚した張本人。
アズマリア=アルテマックス。
「マリアよ、なぜ騎士を呼ばぬ?」
「ちょっと、気になることがあってね」
アマラの疑問に答えようとしたときだった。音もなく門扉が開き、ひとりの少女がその奥から姿を見せた。燃え盛る炎が逆巻くように長く紅い髪が揺れ、金色に輝く双眸が一種異様な空気感を演出していた。一瞥して、マリアが息を呑むほどに美しい少女だった。完璧と近いといっていいほどの美貌を誇る少女は、さながら少女人形のようであり、欠点などなにひとつ見当たらなかったのだ。
アマラが言葉を発さなかったのも、そのためかもしれない。