第二千百六話 空をゆく(二)
「その残り香ってなによ」
ミリュウが不満そうな顔をしたのは、セツナがアズマリアに言い様に扱われているらしいということが気に食わないからだろう。確かに考えようによってはそう捉えられないこともない。ガンディアという国を離れたセツナは、いまのところ、アズマリアの目的に従って動いているに過ぎないのだ。もちろん、アズマリアがベノアガルドを救えと命じたわけもなければ、リョハンを救ったのもセツナ本人の意思ではあるが、アズマリアがそれを望んでいないわけではないのだ。
アズマリアの望みは、この世界を支配する理不尽の打破であり、それによって世界が救われることを最大の目標と掲げているといってもいい。
「おそらく、聖皇復活の儀式によって降臨した力そのもののことだろう」
「聖皇の力……?」
「そんなものが、いまも残っているっていうの?」
「少なくとも、聖皇の力がこの世界のひとびとを神威から護っていたのは間違いない」
「マリク様が仰られていたわね」
“大破壊”以前、この世界でだれひとり白化症を発症することがなかったのは、神威の毒を取り除く結界が張り巡らされていたからだ、という。しかし、結界は“大破壊”によって粉々に打ち砕かれ、その結果、地に満ちた神々によって神威が蔓延し、白化症患者が激増したのだ、と。
「そして、その聖皇の結界さえ破壊するほどの力が、あの日、大陸を千千に引き裂いたのもな」
「その力がどこかに残っている?」
「ほかに考えようがない」
セツナは腕組みして、考え込んだ。
聖皇は、この世界を覆い尽くすほどの力を持っていた。神々を掌握し、完全に支配するほどの力の持ち主であったのだから、当然といえば当然かも知れない。
「もしかすると、神軍の神々もそれを探してるんじゃないか?」
「……なるほど。それなら神々が軍を組織して行動しているのも、納得できるわね」
「聖皇の力を利用して、もう一度聖皇復活を試みようって?」
「神々は、本来あるべき世界に還ることを切望している。そのためだけに数百年もの間、雌伏のときを過ごすことだって辞さないほどにな」
「本当、辛抱強いわよね。あたしなら、我慢できないな」
《それほどまでに切実なのだ。神々にとって、信仰とはな》
突如脳内に響いた声にセツナは顔をしかめた。美しい声色ではあるが、なんの前触れもなく頭の中に響くと、痛みに近い感覚を覚えるものなのだ。
「信仰?」
《そう、信仰だ。神は、信仰を力の源とする。故にヴァシュタラは教会を立ち上げ、ナリアとエベルはそれぞれ国の中心となった。そうすることで信仰を集め、己を維持しようとしたのだよ》
「それで維持できるのなら、わざわざ元の世界に戻る必要なくない?」
《そういうわけにもいかないから、だれもが元の世界への帰還を切望する。本来在るべき世界で信仰が途絶えたとき、神はどうなると想う?》
マユリは、静かに告げてくる。
《根源を失い、消滅するほかなくなるのだよ》
「なるほど。だから、自分が誕生した世界に戻りたいんだ?」
《そういうことだ》
「マユリんはどうなの?」
「マユリん?」
ファリアは、ミリュウの呼び方に眉を顰めた。
「マユリんはマユリんよ?」
「それでいいの?」
《構わぬ。むしろそのほうがいろいろと話しやすかろう?》
マユリの反応はというと、不敬に怒るどころか喜んですらいるようだった。以前、ミリュウはマユリと長々と話し込んでいたが、そのときにかなり打ち解けたようだった。エリナも、マユリのことをそう呼んでいる。さすがにセツナはそう呼ばないが。
「で、どうなの? マユリんもこの世界の神様じゃないわよね」
《うむ。だが、わたしは聖皇によって召喚されたわけではない上、セツナがわたしたちを解放してくれもしたのでな、特に問題はないのだよ》
「どういうこと?」
《わたしをこの世界に召喚したのは、ミリュウ、おまえの父親だ》
ミリュウが息を呑んだのは、思わぬ発言だったからだろう。もちろん、彼女が知らないはずはない。クルセルク戦争中盤、リネンダールに出現した巨鬼がオリアス=リヴァイアの疑似召喚魔法によるものだということは明らかだった。
《おまえの父親は、わたしをリネンダールの地に縛り付けることで契約とした。その束縛を破壊したのがセツナなのだ。そして、わたしたちは自由の身となったわけだ》
「自由の身になったから、元の世界に戻らなくていいってこと?」
《そういうことではない。いつでも元の世界に戻れるということさ》
じゃあ戻れよ、などといえる状況にはなく、セツナは言葉を飲みこんだ。マユリの助力があってこそ、セツナたちは空の旅を始めることができている。マユリが元の世界に帰ってしまえば、その瞬間、この方舟はだれの手にも動かせない不要物に成り果てるのだ。
それにこれから先、セツナは世界中を飛び回る必要があるかもしれない。そのとき、方舟のような移動手段がなければ、時間ばかりがかかってしまい、気を失いかねないのだ。いまはマユラの存在には目を背け、マユリを信じるしかないだろう。
「へえ……セツナに感謝しないとね?」
《ああ。感謝している。しているとも。なればこそ、わたしはこうしておまえたちに力を貸しているといってもいいのだからな》
マユリの発言をどこまで信用していいものか迷うところではあるが、いまのところ、女神がセツナたちの足を引っ張るようなことはしていない。この先、突如としてセツナたちを裏切るようなことがないとは言い切れないにせよ、いますぐにそうなるわけではないだろう。
たとえマユリかマユラが裏切ったとして、以前のように完敗することはない。
その自信がセツナをして、マユリを受け入れる素地を作っていた。
「……まあ、よろしく頼む」
《うむ。任せるが良いぞ。最初の目的地はこの大陸の南端であったな》
マユリの返事は、明朗だ。どうも、この女神はどんなことであれ、頼られると嬉しく感じる質らしい。そういう意味では、扱いやすい神様かもしれなかった。
「ああ、アレウテラスだ」
「そこに帝国のひとが待ってるんだっけ」
「きっとな」
「リグフォード様は、必ずや御主人様の帰着をお待ちになられておいでのはずでございます」
「そのつぎは帝国領ね?」
「そうなる。それが彼らとの約束だからな」
「帝国を助けるのはなんか釈然としないけど、セツナをこの地まで運んでくれたことの恩返しと想えば、納得もできるわ」
ミリュウがいうと、ファリアもレムもエリナもうなずいた。
帝国を助けることについて疑問を持つのは、致し方のないことだ。ザイオン帝国は、約二年前、大陸全土を巻き込む最終戦争を起こした三大勢力の一角であり、ガンディア領土をその圧倒的物量で飲み込み、“大破壊”の原因のひとつとなった国といってもいいのだ。そんな国が窮状に陥っているとはいえ、手を差し伸べなければならないというのは、滅ぼされた側の人間としては、そう簡単に納得できるものでもあるまい。
その上、セツナが助勢しようという西ザイオン帝国は、セツナと同一存在であったニーウェが治める国であり、その時点でも、彼女たちには理解しがたいものがあるのだ。ニーウェはかつて、セツナを殺そうとしたことがあり、実際殺されかけている。最終的にはセツナが勝利し、二度とセツナに手を出すようなことはないとエリナに誓ったようだが、だからといって、許せるようなものでもない。
とはいえ、セツナがヴァシュタリア大陸に辿り着き、リョハンに至ることができたのは、ひとえに帝国海軍の助力によるものであり、彼らの助力がなければセツナはいまもなお海を渡る手段を探し続けていたかもしれないのだ。つまり、リョハンの窮地に馳せ参じることもできなければ、ミリュウたちを助けることもできなかったということだ。
それを理解しているからこそのミリュウの言葉であり、ファリアたちの反応なのだ。
皆、そのことに関しては、帝国に感謝しているようだった。
つまり、帝国に助力することに納得したということであり、セツナは安堵に胸をなでおろした。
方舟は、ゆっくりとヴァシュタリア大陸の上空を進んでいる。
雲海の只中を泳ぐように。